LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

対人関係のこと

昔を思い出すに、グループに入れてもらえたとして、時間が経つ内に自分以外で更にペアができ、省かれていたりする。

 

A,B,C,D,E,F,G の7名グループがいたとする。時間が経つ内に、

A,B

C,D

E,F

G

の関係に分離する。私は何時もGの位置に来るわけである。私以外の関係の中でメールがやり取りされ親密な関係が築かれ、7名が集まった時には私一人配慮されることになる。所謂、誕生日席的な。

 

グループの中で更にグループが出来る。更に…と繰り返してペアを作った時、最後まで一人の孤高の存在こそ真の「ぼっち」である。

 

私は気づいたら何時でもそういう関係の中にいた。友達は選ぶものであり/選ばれるものである。だから、私は他に選択肢がある時、選ばれない。「優しい人」とよく言われるが「優しいだけの人」であり都合の良い人にしかなれない。友人以下である。

 

発達障害の違和感はそのように他人に作用し「なんか変なやつ」だから「変じゃないやつ」と付き合う選択肢があれば、彼らは去っていく。

 

SNSは誰も紹介してくれない。LINEは私を省いたグループが別に形成される。メールは全体メールしか来ない。そうして私の知らない場所で物事が独りでに進行している。最早、発達障害のテンプレである。「あるある」である。

 

回避性パーソナリティ障害やスキソイドパーソナリティ障害というのが対人関係を避ける人格障害として挙げられるようだが、広汎性発達障害との識別は難しいと書かれてあった。

 

何というか、発達障害だと特性が回避性を嗜好せざるを得ないような状況を勝手に作りあげてくれると思う。親や親族以外に親しい人間がいないのは、付き合う人間を他人が選べるからに過ぎないと思う。「家族として可哀想だから私しかいないから面倒を見てくれる」ような人でないと私と付き合うメリットが無いからである。

 

概要を読んで私はスキソイドでは無いと思った。回避性である。ただの広汎性発達障害というのかもしれないが…(´・ω・`)要するに、私は孤独でたまに死ねそうである。けれど他人と付き合うのはキツイ。もっと死ねそうである。

 

ハリネズミのジレンマ」。孤独とは私の宿命であり、そうでない他人は憧れるだけの存在。他人を太陽だとして、近づけば焼け死ぬ(-_-;)

 

彼らは「そんなことないよ」というのだが、他人が私に「いつか良い人が現れるよ」と言うのに似ている。彼らは暗に「それは私じゃ無いけどね」と言っているのである。

 

慰めの言葉は聞き飽きた。彼らの言葉の真意が私には読めない。その言葉はそよ風のようで掴みどころも無く。

 

捨て猫を捨てた。

 

「いつか誰かが拾ってくれるよ」

 

幾人も立ち現われてはそう言って消えて行った。

 

 

 まぁ、よさげなことを書いても無駄である。孤独というのは私にとって死と同じである。死というのは恐怖であり、生からの救いである。永遠の生は恐怖であり、死が生からの解放を意味している。しかし、死は見えない。可能性としてどこかに存在するが、それを経験したり実感することはできない。

 

孤独というものも死に近い。孤独を思えば恐怖や不安で立ち眩みがするが、実際に実感することはできない。孤独と死は同じであるのかもしれない。だから到達することは無いし、到達したとき、孤独が齎す精神的な問題からは解放される。

 

孤独から解放されることの無さそうな私にとって、孤独から解放されるには死を選ぶしかないのであり、要するに生きていること自体が孤独を意味している。

 

まぁ、だから発達障害者は悲観主義なのかもしれない。生ではなく死を見ているからだ。孤独からの解放は生には無く死にあるからだ。