LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

ぼっち 孤独 寂しさ

リア充を友人関係で息苦しくなってしまった人、という風に解する人がいたのですが…

 

それでぼっち充こそ大切にしなければ…みたいな。まぁ、普通に他人とコミュニケーションが取れる人たちの問題。

 

常に誰かと繋がり過ぎて疲れてしまう。独りになりたい。なら、それはリア充とかぼっちという言葉は不適切だよね。

 

SNS依存症的なね。その人はリア充じゃない。SNS依存症は孤独を恐れてる人でしょ。リア充は孤独を恐れないから。お留守番できる犬のように、自分が繋がりたい時は他人と繋がれることを知ってる。要は一人でいてもぼっちじゃない人リア充なんで。

 

ぼっち というのは、望んでそうなっているわけでは無い状況も含んだ概念だと思う。コミュ症で、病気で、無人島で…。本人がそれを自ら望んだわけでは無い…という条件が付く。

 

まぁ、だから、ぼっち充なんて存在しない。それはただのリア充だから( 一一)ぼっち というのはネガティブなものも含んだ概念だと思うな…。だから、やろうと思えば、今すぐ友達に連絡できて、ぼっち、じゃなくなれる人は、そもそも君は、ぼっち、じゃないから(-_-)

 

「ぼっち 舐めんなb」

 

それはね「にわかぼっち」なんだよ。「にわかあめ」みたいなもん。本場のスコール…知らないんだろ?(誤用)

 

ホームシックにかかるようなやつは孤独を知らないのさ。ホームなんて無いやつはホームシックになんてかからん。かかったとしても幻術だと気づく。にわかぼっちはママの元へお帰り。

 

まぁ、私のような真正ぼっちは社会的マイノリティだろうから、一般的な孤独、庶民的な孤独について述べる時に排除されるのだろう。一般人は一般人の一般的な生活の前提の上で孤独について語ることに興味があるのだろうから…。

 

私のような真正の孤独は『キャストアウェイ』(映画)みたいな「もしも無人島に一人取り残されたら」くらいの話題に過ぎないのかもしれない。バレーボールに顔を描き話掛け始めてからが本番である。一般人はそんな極限的孤独の話に興味は無いだろう。

 

だから、孤独について調べても、そういう一般的孤独についてばかりヒットする。その辺のサークルにでも入ればすぐさま解消されそうな「にわかぼっち」とサークルに入れば別部屋に通され隔離されるような真正ぼっちの話を同じ「孤独」枠で話すべきでは無い。

 

真のコミュ症、真のぼっち…こそ「孤独」について真に悩みし者である。まぁ「真の〇〇」とか胡散臭いが。

 

要するに、一般人と発達障害者の孤独は「同じ孤独の話では無い」ということだけ分かって欲しい。「日本国内で一人ぼっち」vs「言葉の分からない外国で一人ぼっち」みたいな感じである。

 

語彙が少ないから孤独の質を上手く違う言葉で表現できないだけで、別々の孤独に関する話になる。孤独1・孤独2みたいな感じである。

 

まぁ、だから「一般人の孤独に関して書かれた本」を発達障害者の私が読んで「わかってない。この筆者何もわかってないわ」と言っても、せん無き事。互いの言う孤独に差異があり過ぎる。

 

日本語と英語の同じ意味の単語みたいに…食い違うわけですね。語源も歴史も違うから(-_-;)同じ言葉でもニュアンスが異なる。