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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

二次元幼女とリアル幼女との間にある物理的海溝に関する考察

まぁ、タイトルに深い意味は無い。

 

小児性愛ペドフィリア)はwikiによれば13歳以下を指す概念だが、ちょっと広い(笑)と思う。幼女という場合には9歳以下。3歳から5歳くらいのイメージ。『赤ちゃんと僕』の実やイチカ辺りは幼児。タクヤ辺りは少年というイメージ。

 

だから、大体小5以上は少年・少女という感じである。私的なロリコンの定義は二次性徴時期の少年少女であって、それ以前を指さない。少なくとも幼児は多くのロリコンにとって対象外だろう。

 

その辺が性的対象に入ってくるのは、自然なことというより、興味に因るものでは無いかと思う。フェラやアナルsexと同じ。「同じ穴だろ」的な。その性倒錯の知識が敷衍した結果、興味・関心を惹いてしまう。あとは物理的に「出来るからヤル」というだけ。

 

同人誌等で近親相姦を煽っているが、あれで本当にやってしまうような人間は増えただろうと思う。自分の頭でモラルを考え自分を律する程度の能力が無い人間もいるからである。興味・関心があれば本能はある程度無視できる。

 

常識や道徳も霞掛かったように、容易に見えなくなるものである。常に自分を監視してくれるものではない。

 

 

リアル少女とかリアル幼女とか(その言い方もあれだが…)、二次元と同一視するのかな…と思うが。恋愛ゲームの「恋愛」と現実の「恋愛」と、アニメの「青春」と現実の「青春」こういうものを同一視するのかな…と思うわけである。

 

前にも書いたが、リアルと二次元は、熊とティディベアくらい違うので「別のもの」に過ぎない。二次元少女に性的興奮を覚えるのは、ダッチワイフに性的興奮を覚えるのと同じ倒錯である。どちらかと言うと意図的に錯覚しようとしている節がある。

 

まぁ、それで空しくなるのかもしれないが(苦笑)恋愛無縁のコミュ症や非モテは…。現実の代替行為としての二次元や人形だから、本当は「本物」が欲しい。まぁ「本物」を理想化している場合が多いのかもしれないが。

 

二次元に逃げているから、本当はリアルを求めている。

だからリアルへの志向性が生まれる。「本物」が欲しい。

 

断罪しよう。負け犬であると…!所詮、二次元を愛する資格の無い者どもよ!二次元はそれ自体、至高。代替の慰みにするなど愚かであると!!

 

要するに私はティディベアが好きで、熊に用は無い。熊が好きなのにティディベアにその影を見出そうとしている時点でティディベアを愛する資格など無い。

 

「片想い」というのは、どんどん現実の相手と自分の中の理想がかけ離れていくものである。それと同じ。過去の相手の写真をいつまでも大事に持っていても、それはいつまでも過去の相手を見ているに過ぎないのに、私は相手自身を好きなのだと錯覚している。

 

「それ」と「これ」が所詮、違うもの。私の想像が紛い物に過ぎないことを自覚するべきである。「恋に恋している」なんて良く言うが。それに無自覚なのは阿呆である。自覚して楽しめる人間がプロである(笑)

 

童貞の言って良い台詞じゃないな(笑)

 

私はロリコンだがペドフェリアじゃないので、幼児に欲情する気持ちは分からない。子供だな~、と子供=可愛い、的な気持ちはあるけど、そこに性欲が入り込む余地は無い。

 

少女になってくると話は違ってくるが、成長のある段階までは、性的に反応しない。それはある程度年齢がいった女性に対するものと同じだし、親姉妹に対するものと同じである。とは言え、親族は親族で裸を見せられることに抵抗はある。

 

だから、年頃の異性の姉妹が目の前で裸になればそれなりの心理的なものはあると思う。何も感じないという者もいる。昔は私も何も感じなかったが今と昔では違うような気もする。

 

親の介護等で見ざるを得ない時、異性であることが精神的な負担になるらしい。親とそれ以外の異性を「区別したい」という気持ちが、忌避感情に繋がる。

 

これは親のsexを否定したい感情、不倫を許せない感情に繋がると思う。老婆の裸なんて見たくないという感情。一方、若い娘には欲情するものだという感情。その切り替えがザックリできないわけである。

 

「不倫はどうしていけないのか?」少なくとも子供との間に決定的な亀裂が生じる可能性が高い、と少なくとも私は考える。私はハーレムを許さない。断じて。

 

だから、この辺のスイッチが働いていない人間が老人をレイプしたりするのでは無いだろうか。死体姦だの。

 

だから道徳的な教義も、自分がどの相手に興奮するかに影響する。ふくよかな女性が好まれる地域では、そういう相手に欲情するのだろう…とか。

 

少なからず「可愛い女性」「美少女」が持て囃された結果として、ロリコンが増えた可能性は否定し難い。ただ2次元がそこに影響を与えたか否かは微妙だと思う。

 

2次元に近づきたい少女というのはいるが、バービー人形になりたい少女と同系統のものだろう。可愛いものになりたい、承認欲求を満たしたい。二次元美少女が「人形さんみたい」と同じこととして作用している気がする。だから、彼女たちは「可愛い」に追随する。

 

思うに、コスプレである。後追いに過ぎない。その手の「可愛い」は男性が生産する。かくして、少女たちは自ら男の願望を叶えようとしてくれる。

 

そこから逃げるのが要するに「サバサバ系女子」みたいな部類なんじゃ無かろうか…。「ボーイッシュ系女子」とか。ただ後者は実は逆説的に男性を意識していることを証明する。「意識なんてしてないし!」的な。男性に作られる「可愛い」が気に喰わない層ってのはいるんだろうな…と。

 

 

とりあえず、おばさんに赤いランドセルと黄色い帽子を被せるのは痛いからやめて欲しいもんだ…。AVもので何とかして小学生にしようというのがあるけど、ほんと無茶すんな…と。

 

あの辺は2次元の聖域だと思う。フィクションの世界だから。リアル幼女にあれらの行為が仮にできたとしても凌辱・鬼畜系にしかならないだろう…^^;被虐趣味ね…まぁ興味深い心理ではある。戦争時に大抵、民間人や捕虜への凌辱が起きたりとかね…。なんなんだろうね。

 

アニメの名言で「惚れた女には幸せになって欲しい」ってのがあったんだけど、そういう神経が無いよね。女=消耗品、的な。そういう風に現実の相手を見てしまえている人って結構居そうだと思う。他人は自分のために利用するもの。友人関係=利益を得るための行為。そういう「割り切った考え」=正しい。みたいな。

 

いると思うんですよね。結構。

 

そういう考えこそ否定して欲しい。

 

 

ゾンビゲーとかゴア表現を好む人結構多いじゃないですか。戦争ゲーム好きにしても。私はその感性がイマイチ分からない。グロいの嫌いだから。ちなみにホラーも嫌い。血も駄目。そういう人。

 

リアルな残酷なゲームが売れる、ってことはシェアがあって、批判されないってことでしょ。GTAとか。じゃあ、ゲーム内での犯罪を愉快だと自由だと思える心理はどういうものなんだろうね。普段抑圧されてても人を殺したいとは思わないからさ…(-_-;)大抵は「倒す」という区別をしてゲームを楽しんでいるんだと思うんだけど。

 

ただ、そうじゃない人もいるよな~…絶対。的な。私は『スカイリム』とか『FALLOUT』とか好きじゃない。「殺す」という描写が強すぎて。『ウィッチャー3』もダークファンタジー的要素が万人受けしないと評価されてた。こちらはプレイしてないけど。

 

退廃的世界観や中世の血塗れな世界観がどうも辛い。洋ゲーはそういうのが嫌い。でもそういうゲームが「良い」とされるのは評価している人がいるからでしょ。そんなに良いかな、と思ったりする。

 

戦争ゲー、FPSも「殺す」という感覚が私は好きじゃない。「倒す」なら良いけど「殺す」という描写をリアルにしようとするでしょ(苦笑)そういう洋ゲーのノリが好きじゃない。理解できないしね。

 

ISILとかテロとの戦いとか、同時多発テロとかさ、そういう日常があって、尚「殺す」ことや戦争描写のリアルさに拘って、そこにワクワクできる感性はどこから来るんだ(苦笑)年末、曙が格闘技の試合でグローブで皮膚を切って血塗れになってたけど、そういうの見たくないから。ひまわり畑を流せ。

 

血を流している俺、格好良い的な?あるでしょ。『鉄血のオルフェンズ』も私が切ったのは、そういう「これこそが現実」=漢=格好良いでしょ的なのが受け付けなかったから。平和?何それ、的な。

 

『荒野にて』的な話でさ。『サバイバル』とか『キャストアウェイ』的な。非日常、自然賛美的な。分かってないと思う(笑)「盗んだバイクで走り出す」的な尾崎的なカウンター・カルチャーカッコイイみたいな…。平和が如何に有り難くて維持するのが難しいのか…みたいなさ。そういう話をやって欲しいな。

 

平和な日常が退屈だから天災の一つでも起こらねーかな…みたいな話じゃなくて(笑)

 

異世界転生系の話は要するに「ニートだったけど天災が起きてボランティアに行ったらみんなに感謝された」みたいな。だから、常に天災が起きてないとダメだわ、みたいな。

 

魔王がいない時代の勇者みたいな話で。じゃあ、逆説的に「勇者がいなきゃ良いんじゃないの?」って思うし。「俺がいなきゃお前らダメでしょ」って話じゃなくて「他人がいなきゃ俺ダメでしょ」って話の方が今の人たちには良いんじゃないだろうか…。

 

私的にも仲間が強くて見ているだけで無双してくれるゲームが好きです…(´・ω・`)b「俺必要無くね?」と思うけど、そこが良い。4人で棚運んでいて一人だけ「片腕はそっと添えるだけ」的なポジション。私要らなくね?と思いつつ随行する的な。

 

私はそのポジションが好きなんで(/・ω・)/

ダメな人だと思わば思え!オンラインゲームなんかやってると、そういうポジションこそ人気だから。みんな責任重大な役なんてやりたく無いんだよ。じゃあ、そういう話って需要無いのかな…と思うけどね。

 

FF14を一時期プレイしていたけど、責任の押し付け合いでね。タンク責任重大。ヒーラー責任重大。アタッカー責任軽い。でタンクとヒーラーが集まり難くてアタッカーばかりワラワラと。

 

だからアタッカーの責任も重くせにゃ、ってみんなが言って、運営もそこに乗り、DPSを最大効率でもっと出せ!的な。各々が各々の役割をキチンと果たすんだ!的な正論に飛び乗ってね。

 

だから、私は辞めました。大縄跳びって揶揄されるけど。跳べない自信が私にはあるから!

 

とりあえず、運営は、タンクとヒーラーの責任を分散させることを考えるべきだったな…。運営はユーザー意見(正論)を聞いた(責任回避)。なぜアタッカーの責任が重くなって平等になれば何とかなると思った!結果、みんな減った。

 

ほんと、オンラインゲームは良い現実シミュレーターだから(苦笑)格ゲーをガチ勢が衰退させた…みたいな話ですよね。庶民はガチ勢じゃないから。「FFは遊びじゃないんだよ!」って迷言を引いておこう。

 

 「みんなが同じだけの責任を背負えば!」は正論。でもみんな責任回避したいが現実。人間はそういう回路に応じて行動するので、正論だから乗るわけじゃない。そこが分からないから正論だから誰も文句は無いだろ?と言って、実は文句があって不満があるけど言えない層が出て、その辺から破綻する。人間は平等なんていうから…。

 

考えてみると『オルフェンズ』は、「俺はダメな奴だがみんなが支えてくれているから」的な話である気がする。逃げたら後ろから撃たれる感じな気もするが(*ノωノ)鉄火団抜けるわ→死亡フラグである。

 

「みんな頑張ってるんだ!」→同調圧力。「は?なんでお前やらねーの?」→「俺抜けるわ…」的な。義務教育でよく見る光景である。子供たちも自分たちが平等だと信じていて、努力すれば出来るとか思っちゃってる子ができない子に努力を強要する図である…。

 

 二人三脚とか百足競争とか大縄跳びとか…etc。実際には負担は平等では無い。平等幻想と同調圧力によってストレス空間と化している他人の足を引っ張り合う嫌な競技である…この辺が批判され無くならない限り、義務教育なんてのは行進の練習である(-_-;)

 

FF14も所詮、行進の練習であり、義務教育的「みんなが頑張ってるんだからあなたも頑張らなければならないのよ…」的な空気に晒されて、嫌になって投げ出したわけである。

 

『灰と幻想のグリムガル』のPTも正にFF14であり真面目にやらない(ように見える)ランタが悪という空気を作り出している。こんなオンラインゲームなら廃れる(/・ω・)/

 

フォード式の人間を歯車に喩えた労働者の見方は、人間が平等であるという前提に基づく。だから、実際には平等では無いので、がたがた(笑)するわけである。

 

だから、同一労働同一賃金と言ったところで、個々人の要領やスキルが違うので、不公平が出て来る。平等幻想に基づき「お前はもっと頑張れ」という不公平だと平等にしろと喚く人間が出て来る。私と彼の努力の天秤の重さを等しくしなければいけないのだ、と強く思い込んだ人間が面倒の元であるのかもしれない。みんなが時給分ちゃんと働ける人間である訳では無い。

 

人間は平等じゃないので同じ時間で同じ結果が出るわけでも無い。同じ仕事ができるわけでも無い。同じ頑張りが出来るわけでも無い。その辺が了解されないと、FF14みたいなギスギス感を生じる。

 

特に発達障害は時給分の働きなんて出来ないだろうから、ダメDPSみたいに叱責されるし、普通は「チェンジ」である。最低賃金が上がる程、この手のプレッシャーもせり上がるだろう(苦笑)

 

プロだから(´・ω・`)

プロ以外働いちゃいけないんですよ。お金貰っちゃいけない。プロで無ければ働く権利なんて無いのです。プロゲーマーじゃないとゲームしちゃいけないんですよ。

 

この世界自体、健常者用なので「発達障害者はプレイできません」って書いてあるし。右利き用なので「左利きの方はプレイできません」って書いてあるし。それでもプレイします、って言ったら「責任は取れません」って言われる。

 

プレイしなきゃ死ぬ(*ノωノ)→でもプレイは自己責任。みたいな。そういう層の人間にたまたま生まれてきたわけですよね。何でも要領よくそつなくこなせる人間にたまたま生まれて来る場合もあるかもしれない。

 

ただ、私から見ると何時でも「お前の努力が足りないから」と言われ、自分でも「そうかもしれない…」と思わされる。そつなく頑張れる人が頑張っている横でそう言われ続ける。それは理不尽だと思う。

 

ルサンチマンだな(-_-;)

ルサンチマンを原動力にして生きている人間ばかりじゃないよ」と言われたというツイートを読んだことがある。特にそれを思うのは『欲望問題』とかさ、マイノリティの文章を読んだとき。仕事もマイノリティの地位向上とかやってるとなんだかなぁ、と哀れな気持ちになってくる。

 

「君さ、その問題に人生が何から何まで束縛されてるよね」って(*ノωノ)例えば黒人が生涯、白人コンプで生き続けるみたいな。うぇー、って思う。疲れるでしょ。「何でそんなくだらない問題に私が一生煩わされなきゃならないんだよ」って思う。

 

発達障害もそうですよ。無論。私は今更なんでお前らのために頑張って克服やら治療やらしてやらなきゃいけないの?って思う。

 

まぁ、この心理は色々流用して説明できそうだけどね。

 

 金持ちや有能もそう思う。私がなんで努力もしないお前らのために税金払わなきゃならないの?林先生の言うような。同じですね。奇遇だなぁ…(*ノωノ)

 

有能のよく陥る勘違い努力すれば誰でも東大に入れると思っていること。比喩ですが。現実は違う。私はこんなに頑張った。お前らと違ってな(笑)資本主義の理屈である。強者の理屈。

 

努力なんて意味の無い言葉である。努力して結果が出た人間の逃げ口上として使われることが多い。

 

なぜ派遣社員なんかになるの?引く手数多の時代に軽く正社員になれた大人が言う。一方、派遣さんは150社に履歴書送っても受からない人だから。今と昔では条件が違う。田舎と都会でも条件が違う。アフリカと日本でも条件が違う。健常者とコミュ症で条件が違う。

 

そういう立場の違いへの想像力が乏しい。昔は猫の手も借りたい。今は人材なんて幾らでも替えが効く。

 

人間は実に多様で、だから頭が良くても馬鹿なんて人もいる。大学教授や教育者はそこを分かってないとダメだと思う。

 

まぁ大学は専門馬鹿が多い。研究者になるために大学教授になったのだ。教育者ではない。こういう人が多い。ADHD系も研究職を推し、大学教授になれと薦めるものがあるが研究職であると同時に教育者であれと言うのは無理がある。ADHD系は対人能力に乏しい。

 

にも拘らず、大学は半ば就職予備校と化している…(*ノωノ)であれば、あっち行け、とも思うだろう。「自分は道徳教師じゃないから」というのが専門教師の言い訳であろう。そして大抵の教師は特定科目の専門家に過ぎない。だから、責任は親に投擲される。躾は私の仕事じゃないから。

 

そうして投げた親は仕事で忙しい。躾ける時間など無い。知識も無い。学も無い。金だけは出してもいい。責任を学校の校門辺りへ見えないように投擲しあとは見ないフリ。責任の擦りつけ合い。子供は放置されたまま成人する。あとは「もうお前は大人なんだから」子供の自己責任。育児放棄の時効である。

 

「自分はこうだった」と特に昔の人は言いがちだが、人間の中身は一色じゃない。「自分は」という感覚を他人に持ち込み理解できるとは限らないのだ。

 

そういう見識はネットが普及してからの話かもしれないのでオッサンの辞書にはまだ載っていないのかもしれないが…。

 

例のツイートでは「親が勉強させる気にさせなきゃいけない」という意見も散見されたが「親が」というのも古典的な意見である。「親」では無くて公的にシステムとして、どうにかしなければならない。

 

なぜなら社会問題だから。個人的な問題では無いから。「若者の教育」は「老人介護」と同じように個々人の問題にして押し付けて済むものでは無い。そこで「親が」と言っている限り「若者を政治的に支援すべき」という大衆のコンセンサスが社会に無いことを露呈している。

 

教育者が自助努力、親の努力に若者の責任を帰すようでは「老人の老人による老人のための政治」から一歩も出られないだろう(*ノωノ)

 

 思うに、定期健康診断みたいなものを子供にもやるべきなのだ。定期心理カウンセリング。ストレス測定。そういう客観的なやつを。定期的に一人一人心理士が聞き取り調査してメンタルヘルス上の問題が子供に無いかチェックする。

 

心理面においても専門家の目を通すということが必要だろう。あらゆる親にそれができるわけも無いのだから。そういうことをすれば問題の早期の発見が可能になるんだから。いじめとかさ…(-_-;)