人間には分というものがあり、分を弁えねばならない。
古い言い方だが一片の事実である。他人に言われたなら業腹だろうが(苦笑)
スキソイド型の天才児は結婚しないことこそ幸福だと言う。それはその人の分なのだろう。分を弁えるとは、そういうことである。周囲の要請する雛型が自分の身体に合うものなのか見切ること。
自分がどのような人間なのか知ること。努力してどこまで得られるだろうか…等。何の才能があるのか…等。「努力すれば何にでもなれる」という時点では自分について何も明らかでは無いのだ。
可能性は生まれた時点から有限であり、何もしていないから無限のはずなどと誤魔化してはいけない。手足を伸ばせる範囲は手足の長さまで。他人に対して身長が低ければ、その範囲は狭くなるだろう。
男女では脳が違い、男が女にはなれないように女もまた男にはなれない。整形しても遺伝子までは弄れない。頭の出来もそれぞれで、ある人に分かることが自分には分からない。中には努力して到達できない問題もある。
性同一性障害等の平均からズレてしまった人間は出来損なった自分こそが正しい状態である。だから性を外見上合致させたところで、それは外見上合致させたのだ、と理解しなければ認識がズレるだろう。
「本物になれた」などと勘違いしてはいけない。生物には本物も偽物も無いのだから。マジョリティがマジョリティ故に本物と主張しているだけで、マイノリティが生物として間違っているという理論は正しく無い。生物に正しいも間違っているも無いからである。
遺伝子のエラーも自然には無関係に飲み込まれるだろう。