LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

発達障害者の生きる現実のキツさを表している秀逸な記事だと思う

さっきまで笑顔で話してた人が,あまりのドジっぷりに段々よそよそしくなっていくのが辛い…『ADHDとの関係における健常者の表情の推移と過程』 : 凹凸ちゃんねる〜発達障害・人格障害・生きにくい人のまとめブログ〜

 

この記事のAAが、発達障害だと大抵そうなるというテンプレですね…。トラウマが刺激されると書いている人がいるが(苦笑)

 

発達障害はコミュニケーションの障害といわれているが、実際は労働の要領も悪いドジッ子属性も付いてくる。仕事できる発達障害者も中にはいる、というのは健常者にも医者や弁護士がいるというレベルの話。

 

ビジネスの場では特に足を引っ張る行為によってAAの末路を辿る。義務教育の場でも、やはり運動会とか定期的な集団行動行事の結果、AAの末路を辿る。

 

友人付き合いでも「信頼を失う」というか「失望される」。「キャッチボール(会話)しようぜ!」と声を掛けてくれても「キャッチボール(会話)絶望的に不得意なんだよね」ということ。

 

ちなみにスポーツのキャッチボールも無理です。ボールを目で追えないので顔面にクリティカルヒットする(笑)

 

運動音痴も付属するし、あと難聴系主人公みたいな「えっ?何か言った?」状態。これは聴覚処理障害というものかもしれない。同時に建前と本音が分からない、相手の感情が表情から読めない。というのもデフォルトなので勿論、重なる。

 

だから、怒っている同僚に「え?何か言った?」と難聴系の返しをするわけで結果はお察しである。優しい人でも裏に呼んで「少しお話しようか?」となるわけである。勿論、彼は健常者の私に向けてなるべく傷つけないように苦言を呈し諭してくれるのである。

 

それでも障害ゆえに治るものでは無いので遂には「信頼を失う」ことになる。あるいは障害を理解した上での「可哀想な人なんだね…」という介護プレイである(´・ω・`)

 

無論、彼らは私を抜いた全員でLINEで繋がり飲み会をし、宅飲みをし、旅行へ行き、結婚式をし、裏で交友を温めるわけだが。

 

SNS?私誘われてないんだけど…」

 

(´・ω・`)「えっ、何の話ダロウ?」

 

そして、私を抜いた謎の連帯が生まれ、信頼関係が育まれ、私は彼らの結束を高めるための出汁に使われているというスタイルである。

 

何だろう、人間の尊厳的な意味で許せなくなる私が悪いのだろうか。この状況に人間として耐え難さを感じてはいけず、私を気遣ってくれることに対して感謝の笑顔を向けなくてはならないのか。私はそんなの気づいていないフリを続けなくてはならない。

 

仮に誘われたとしても私は行かない。そうした場面で上手く振舞うことが難しいからである。だから選択の余地も無いのだ。健常者はそこに反対意見を唱えるかもしれない。いや、唱えるだろう。それは「行けよ」と。

 

だが、職場で既に私に気を遣っている彼らのプライベートにまで私が付いて行って、彼らはそれを許せるのか?それは言わば「健常者の集い」である。例えば飲み会の無礼講の場に私がいることは相応しく無いと私は感じる。その罪悪感故に行きたくないし、かといって、仲間外れになっていくであろうことも同時に理解している。逆に行ったとしてもAA的な絆ブレイクへの秒読み段階の歩みを止めることは出来ないと感じる。

 

何れにせよ、実際に試してみたことはあるのである。無論、私以外にも。でなければ「あるある」にはならない。

 

会話というコミュニケーション手段では参加したところで私は相手の重荷にしかならない。「複数人以上の会話に入れない」という話があったが、入れないから「狸の置物」くらいにしかならないのである。

 

4人で道を歩いていて、

〇〇〇

●←私

 

になる、という書き込みがあったが、全く同意する。

飲み会においても、何においても集団ではそうなると思ってくれて良いのでは無いだろうか。

 

参加しても苦痛。参加しなくても苦痛という有様。

 

「前門の虎後門の狼」という状況である。そして友達も恋人も家族もいない状況を思い描いて欲しい。独居老人のように(´・ω・`)まぁ思えば10歳満たない頃から、物心ついた頃からそんな感じだったが。

 

それでも、スキソイドパーソナリティというわけでも無いので、人恋しさを感じる。「それはただの性欲?」…私には分からないが。

 

私は特に何もして来なかったのだが…(>_<)

 

それが悪いと思う?

 

努力が足りなかった…とか?

 

健常者は自分が他人と話すために何か特別な教育を受けた、特別な努力をしてきた、と?

 

みんなは母国語で話すために私の知らない特別な訓練をどこかで夜な夜な積んでいた?私は一応、狼少年では無いので。それなりに人と関わろうとしてきたはずである。識字率のように会話をするには特別な授業があったのだろうか…。

 

ちなみに、難聴の人でさえ私との対話には違和感を抱くようだ。

 

発達障害者の問題は「分からないことが分からない」ということである。

 

まぁ、自分がなぜ孤独なのかも分からないし、にも拘らず、

砂漠でオアシスを前に「待て」を命じられた状態で死ぬまで生きろと言われるわけである。

 

この状況で「狂わずに正気を保ち人生を最後まで(自殺せずに)生きられるのだろうか…」私はそう自問自答する。発達障害は二次障害が多く、鬱病になりやすい。ブログで見た数字だが、およそ半分が鬱病を発症するそうだ。

 

自殺の確率は健常者の9倍。境界性人格障害や反社会性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害、愛着障害との関連もあるとか。

 

前述したような社会的状況にずっと身を晒され続ければ、私も気づかない間に人格が破綻していくのではないかというような気がする…。いや、既に狂っているのかもしれない…とすら思う。

 

どこからが障害で、どこからがその結果なのか…。

 

私は最初のリンクのAAが殆どだと信じられるし、健常者には恐らく信じられない。私は健常者をそう理解するし、大半の健常者がAAが私たちにとっての社会なのだと理解できないだろうということも理解している。

 

そのAAを見て健常者は「みんなそんなもんだよ」と言うだろうか。だとしたらその社会ではやはり私はギブアップである。

 

 勿論、上手くやれている発達障害者もいるらしいが、私はそうではないという話で。「人それぞれ?」…ふむ。とは言え…健常者の半分は鬱病なのだろうか(*ノωノ)私はその数値に引くけど。

 

犬猫だってそんなに鬱じゃないだろう…(´・ω・`)