LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

人それぞれ

人それぞれ、多様性…そんな言葉で発達障害を鵜呑みにすると、そこで試合終了だと思う。

 

人それぞれ、多様性…を「子供騙し道徳」の辞書に載せよう…。「友達100人」とかの語彙が載っている。

 

発達障害の症状は多様だが、それぞれ分解し分類することは出来る。大まかに。アスペとADHDとはハッキリ異なる。但し、併発するそうだが。その上に二次障害として「重ね着障害」みたいに精神疾患系の症状が重なる。先天的なものに後天的なものが重なり症状は分かり難くなる。

 

それを「人それぞれ、とか多様性」と呼んでいる。他人への説明としては問題が煩雑過ぎるからに過ぎない、と思う。

 

健常者はそれに対して「私たちも人それぞれだよね」と応じるので誤解が生じるのである。障害や疾患の話をしているのに性格の問題に摩り替えられてしまう…。

 

自覚の無い発達障害者は特に自分のドジさについて性格的な「人それぞれ」として納得したがる。彼らが社会から認められている人間であればあるほど障害が「些細な欠点」であり「取るに足らない問題」にされてしまいがちだと思う。

 

要するに、成功している当事者に失敗している当事者が足を引っ張られるという構造が発生している。特に「精神論者」「根性論者」である未診断の発達障害者は多いと感じる。そういう人ほど自分の人生が困難だったので他人もその困難さを努力で克服しなければならないものと思い込んでいるきらいがある。

 

それは中途半端に社会に適応できて引っかかって生きている人間のルサンチマンだと思う。張りつめた糸がいつか切れるのを恐れながら日々の労働を送っているという発達障害者がいるが、その糸は切れるものだと思う。

 

そういう状態で糸を切らせずに綱渡りで生きている人たちがいて、こういう人は楽に生きている人を許せない感情を吐き出したくてたまらなくなる。

 

その生活はおかしいのである。普通は、そこから逃げ出さなければならない。利口な人はそう考えるだろうと思う。それは人の生活じゃないと看破し得る経験を持っているからである。

 

一方、私のように人間関係において社会関係において苦役の経験しかなければ、それが人間関係であり社会関係の全てであろうと見做す。だから「楽な仕事などありはしない」というように発言し、信じている。

 

強制収容所しか知らない人はそれが世界の全てだと見做すだろう。健常者は色々な経験をし得る土壌が自分にあるが、発達障害者は偏った経験を積みやすい。そして、だからこそ同時に社会が偏ったものであると見做す。偏ったものの見方をすることも事実だが、現に発達障害者にとっては障害の多い偏った世界であることも事実だ。だから健常者が観察者でも世界が発達障害者にとって困難であるという結論を出さざるを得ないのではないか?

 

実際、発達障害者にとっては偏っているのだ。自分と同じ人間が1%しかいないなら99%は違う人々なのだから。逆に99%の人々は99%の人間は自分と同じだと思うだろう。

 

どちらも間違ってはいない。住んでいる世界が違うだけで。「健常者は二枚舌だ思え」というADHDのテンプレがあったが、異なる世界の異なる現実の話をしているだけである。

 

異世界の話を発達障害者は自分の故郷の話だと思って聞く。男性にとっての社会と女性にとっての社会が異なるように、健常者にとっての社会と障害者にとっての社会はかなり次元の異なる世界の話である。

 

女性が管理職になれないみたいに障害者も管理職に就くのは困難を極めるだろうが、そういうイメージが健常者には欠けているのだろう。男と女が平等であると信じているように、健常者と障害者が平等であると信じている。

 

私たちは健常者が世界を正しく見ているはずと信じたがる。彼らこそ正しいのだと(/・ω・)/だが健常者は、健常者の男の異性愛者の中級階級の都市の中偏差値の大学出の公務員の視点から見た自分の経験上の社会の話をしているに過ぎない、みたいなことが多いだろう。きっと。

 

互いに、そのことを意識しないと「お前は嘘つきで二枚舌の偽善者だ」という評価になる。特に相手が私を「同じ健常者」だと思っていて、私も「同じ健常者」だと思っていると当然、現実認識は噛み合わない。

 

相手が私を同じ人間だと思っていて、私が相手を同じ人間だと思っている場合もやはり当然話は噛み合わないだろう。私が障害者であることを私も彼も理解して初めて話が通じる前提ができるわけで。

 

脳障害に関して当人が自分の障害を受け入れるということは随分難しい課題ではないか、と思う。身長や体重、容姿、学歴等へのコンプレックスを克服することくらいにはそれは難しいのではないだろうか…。

 

つまり、私は障害を受け入れているようで実は受け入れられていないために話が通じない恐れがある…(´・ω・`)実際、人格攻撃と障害に対する苦言とをどう選り分ける?あるスレで人格(障害)を否定され続けたアスペは自殺念慮を示していたが…(´・ω・`)

 

多分、それで死ぬ者も多いわけであろう。甘え死である。甘えで人は死ねる。尊厳が傷ついても死ねる。否定され続ければ首吊りである。

 

発達障害を告知されてもやはり私は苦しむし、告知されなければもっと苦しむのである。それは人格と障害をどう分けるのか、という話であろう。

 

私は不規則な人間なので、規則正しい生活は無理だと思う。そういう性向の発達障害者が、規則正しく生きようとしても、恐らくストレスを抱え続けたまま生きて、そのうち疲弊してくるだろう…と予想する。

 

そうだとするなら、規則正しい私にはなれないだろう、とか。障害があると分かっていても、それを上手く避ける術が無くて、自己イメージが悪いまま、みたいな。

 

受け入れたら、それで解決という話は無くて、難病との付き合い方みたいな話になるだろう。認知症になったら死にたいという人がいるが、脳の障害を受容しろというのはそういう感じだろう。

 

ADHDはメモを取れと言われるが、どう考えても『博士の愛した数式』みたいになると思う(´・ω・`)というか私はなった。そして、結局は溢れたメモに埋もれて見なくなったな…。

 

ちなみにアイディアメモを取るとメモのメモを取り続けて一日が終わりかねない。そしてメモを見るとメモのメモを取り続けて一日が終わりかねない。そしてメモを見ると…エンドレス。

 

だからアイディアメモも続かなかった気がするな…。

そんなもんだから私は自分が認知症になっても物忘れ程度では気づかないんじゃないかと思う(´・ω・`)

 

片付けられないという特徴があるが、メモも片付けられない(笑)そしてメモをみて気が散る。そしてメモを見て気が散る。エンドレス。

 

凄く重要なことだけをメモする程度に留めた方が良い気がしたな( 一一)

 

 …閑話休題

 

何かあると「アスペ」というレッテルを貼る。けれど、だからと言ってレッテルを貼らない方が良いかというと違う気もする。

 

相手を日本の健常者の男性の何歳の身長何cmのどんな容姿の…云々と分別していくことは、無意味では無いと思う。プロファイリングじゃないけれど。「人を見た目で決め付けちゃいけません」も「子供騙し道徳」である。本気にしてはいけない。本気にした子供が無差別に人に接してしまうのだから…。

 

常識ある健常者は「見た目不審者…しかし私がそう考えていることを相手に気取られてはいけない」と考えていると私は考えている。お前は次にこう言う。「お客様何かお探しでしょうか?」

 

スーパーに買い物に行くと「いらっしゃいませ」と声掛けするが、特に挙動不審な客に対する万引き防止的なアピールらしい。私は挙動不審なのか…そうだろうな(´・ω・`)

 

宿屋の女将さんは面倒な客に対して「お金だと思いなさい。人の形をしたお金だと」と言ったらしいが、そんなことは悟らせない。私も恐らく「お金」だと思われているわけである。

 

人と接するとき、問題がありそうな人には極力近づかないが、発達障害精神疾患に対する知識を持っていると、問題を起こす他人に付けるラベルが増える。そうしてペタペタ貼っていくと良いんじゃないかと思う。

 

重要なのは貼っても貼ったことを悟らせないこと。

 

私は障害や病気だと思う方が理解できるし許せる気がする。性格や人格という言葉が最近出て来なくなったが…(-_-)

 

国や皮膚の色でも人を区別した方が良いですね。そこまでの知識があれば…ですが。区別しても知識が間違っていればただの誤解(-_-)

 

人種や皮膚で区別するのは、その人の文化的バックグラウンドを知るため、というかね。宗教なんかは寧ろ区別して欲しいだろうし。菜食主義だとか。

 

まぁ、差別してはいけないを鵜呑みにしている人が多そうなので(>_<)男女の区別くらいは付いた方が良いと思うけどね…(-_-)

 

LGBTの人で、性の好みは流動的だ、と言っていた人がいて、年齢で変わってくると言うんだけれど、恐らくLGBTのその人の脳がマイノリティで性の好みが流動的に変化するような脳、だったんだろうと思う。

 

発達障害の場合、自我の同一性が確固となり難い部分があって、自分が男なのか女なのか分からない、みたいな時期もある。そういう人の脳は性を錯覚する可能性があると思う。

 

あるいは境界性障害で多重人格が出ると男と女が混じっていたりするが、そういう風に性の認識も不確かになり易い。

 

あくまでもそれはマイノリティであって、マジョリティでは無く、つまり一般的では無いと思う。

 

だから、大抵の場合、自分の同一性が保たれていると思う。自分が男なのか女なのか、男が好きか女が好きかということは割合ハッキリしている人が多いんじゃないかと思う。

 

マイノリティに生まれると環境的にも混乱することが多いだろうが。その場合でも「違和感を常に感じ続けて来た」みたいな。

 

だから、そうでも無い、男なのか女なのか、男が好きか女が好きか流動しているという人は、そういう風に生まれついたマイノリティだろう。多数派は恐らく違う。

 

まぁ、その人はそういう区別をしたら良いと思う。性同一性障害の場合、自分は頭と身体で性が違うんだなー、という区別をしたら良いわけで。

 

例外、という区別ね…。私も例外だ、と自覚しなきゃならないわけだけれども。「除外」されるわけですよ。一般的な話から(苦笑)

 

今まで普通になれと頑張らされてきた私が(>_<)

「お前普通じゃ無いから」と…(/・ω・)/

その意識の転換って結構難しいな、と。

 

 メンズショップだと思って入ったのにレディースだったみたいな。

 ここにあるもの全部、あなた用じゃないですよ、と言われてるみたいな。衝撃を受ける(>_<)

 

全部、私でない私の話なんだ、と思っていた物語が、最早、私とは何の関係も無い宇宙人の話だったんだ…という(>_<)

 

参考にしようとしていた私は一体。

豆しばは教えてくれなかったょ…。

 

まぁ、勿論、そういう「普通だと信じている私」が物語中には混じっているわけなので、参考になる話も中にはあるんですけどね。

 

ただ私の自尊心では「人間だと思っていたら一匹の蟲でした」という感じ…。グレゴールザムザ(>_<)

 

性同一性障害が人生の半分を異性として生きて来た時間を無駄だと感じるなら、やはり私も健常者として生きて来た殆どの時間を無駄だと感じるだろう。

 

英語喋れるように頑張ったのに、その後の人生で一度も使わなかった…みたいな(´・ω・`)…で逆に日本語の練習はしていない。

 

そういう喪失感だな…。