思うに、学校に居場所が無くて行くことが苦痛だった、という人は社会に出ることも向いていないんだろうな、と思う。
集団の中に入っていくのは苦痛、そういう風にインプットされる。
毎日学校に行って授業を受けるのは苦痛、そういう風にインプットされる。
その型から出ることが出来ないから、毎日会社に行って同じ仕事をして帰る、という反復ができない。その生活に身体が調整されてこなかったから。
その人にとっては家にいることこそ普通で学校に行くことは日常でも無いし普通でも無い。
普通の人にとって学校に行くことは普通で日常である。だから会社に行くことも普通で日常であると受け入れられるのだろう。
私は学校生活が非日常だと思っていたので、社会人の生活もまた非日常であり、耐えられないのだ。
療育等で大切なのはその人の日常生活の範疇に療育に通う生活があることで、それが普通で日常であると受け入れられることだろう。その先の生活もそれが日常で普通で当たり前なのだと受け入れられることが重要なのだと思う。
そして、それは無意識的な学習である。意識して認めようとしても無理なのだ。私は私として固定されていると思う。
学校に通う、ということは、家から外に出て学校と言う会社に通勤して一定の仕事をして帰る、という生活習慣を作る過程である。
だから、自分をそこにフィットさせられなければ、当然、社会人生活の上で前提となる必要な生活習慣が無いのだから社会に出てもやっていけないのである。
殆どの人間にとって学校に通うことは当たり前の習慣で、だから会社で働くことも当たり前の習慣だとして飲み込める。けれど、学校に行くことが当たり前で無かった子供は大人になって会社に行くことも同じように当たり前では無いのである。
その子にとっての当たり前の生活をさせる、ということが人間らしい生き方であると思う。
療育というのは基本的に、どこかに行って、何かしら作業をして、家に帰ってくる、というライフスタイルを自然に身に付けさせることが最も重要なんじゃ無いだろうか。
まぁ、働かせたいならば、という話だが。