しばらくツイッターをやっていたんだけれど、孤立したいなと思えてきた。内面世界に引きこもりたいな、と。
そういうのが私だなぁと思う。それは私らしい。孤独で孤立した世界を生きて来た私にとって、その静寂が生活に不可欠なのだ。
だから、一人ぼっちにしない、ということを毎日のように強制されるとすれば、それは私にとって望む処遇では無い。
一人になりたいときにはずっと一人になれること、これが不可欠だ。私が私としての在り方を保つためには。
私は早朝の静けさが好きだ。まだ人の起き出さない、他人の喧騒に掻き消されていない自然の静寂が見つけられる。
ツイッターというのは言わば、商店街やデパートみたいな場所だと思う。喧騒の最中だ。ウィンドウショッピングをするには良いが、それは旅行で非日常である。帰ってくると精神的疲労を感じる。
私は居場所を見つけたいというが、正直引きこもっていればここが居場所になっている。問題は無い。外の居場所というのは所謂、保健室登校みたいなもので一時避難所に過ぎない気がしている。
人とのコミュニティの中に私の居場所は見つけられないのだと思うし、所謂、社会への登校を強要されない限りはその必要も無い。
社会にでなければならない、というバイアスがベクトルが摩擦を引き起こしている。精神の軋轢を生み出す。10代の頃から、あるいはそれ以前から、少なからずそのようであった。
そういう人は、もうそれでいいのだと思う。
私は今まで社会の中に飛び込んで居場所を何とか探そうとしてみたけれど、それでは行き詰ってしまった。だから、それを止めることで、自己承認、自己肯定に結びつく道があるんじゃないか、と探してみたいわけである。
私の腑にスッと落ちる生き方をして、そして死にたい。