LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

ナイトメア 悪夢

悪夢を見た。

小さな上手くいかないことが増えて、色んな人たちから私のミスを指摘される夢。でも、やはり上手くいかなくて、空回りしていた。

 

頑張っても頑張っても空回りして、必須で地味な作業すら理想には届かない。そもそも理想に届かせる過程すら想像してられないのだろう。その結果、間違った方法から正しい方法へ徐々にシフトチェンジしていくことが、どれだけ繰り返しても上手くいかないのだと思った。同じところをグルグル回っている。

 

そして、そんな無様な自分自身を映しだされることが私の悪夢なのだ。経験そのものが失敗体験が降り注ぐ夜。やはり、私は他人様に影響を及ぼすような作業をやらない方が良い…と思わされるのだった。

 

成功体験が足りない…というより、成功体験に向かって自力で軌道を修正していくことが出来ない、という感じがする。

 

これは「想像力の欠如」による問題なのだろう。良い想いをするには…?という打算を打てない。結果、散らかした汚部屋になったり、やろうと思ってやらなかったりすることが多いのかもしれない。

 

理想という「お手本」を頭の片隅に置きつつ、作業を行う…ようなことが出来ない。WM(ワーキング・メモリー)の問題もあるのかもしれない。

 

あとは、他者の指摘を柔軟に受け入れることが出来ない、ということだろう。どうしても反発して、受け入れられなかったりするようだ。todoリストや、日記や、スケジュール帳に家計簿なんかをやってみては放棄されていく。

 

私はスクラップブックというソフトウェアを使っているが、これも大抵、既に、どれが目的のドキュメントなのか分からなくなる。整理整頓がなされず、混沌と化す。

 

規則的で無い、ということは、規則を作れば良いと思われるかもしれないが、それは一つのルールで縛るということだけを私に要請するだけで、私自身が規則を発見し、規則を編み出し、規則に則って事を為すことができるようになる訳では無い。

 

数学の応用問題が絶対に解けない人のようなものではないだろうか。不器用と言われたことがあって、器用に何でもこなす人とか、要領の良い人とか、頭が良い人を発見して、自分と見比べる。

 

そうすると、やはり根本的な何かが私と彼とで異なっているように見受けられる。それは個性というものでは無くて、機能が無いといった感じである。そのことで成功体験から活力を得ることが出来ない…とか、日々を生きることの糧のようなものが見つけられなくなるのだと思う。

 

それが結局は鬱病になったりする。日々を健やかに生きるバイタリティ(体力)をどうやって人々が養っているのか…最近の私はそういうことが良く分からなくなった。

 

人間は昔から良く働いてきた。その働く歴史の中に自分を挿入することが出来ない。ある自殺者の言葉だが

 

・ハッピーで無いのにハッピーな気持ちは分からない。

 

という。私もやはり同じ気持ちから労働に挫けるのだと思う。気分はクレイマー対応の役職に就いた感じ…というか。私は何時も職場で排除される感じに圧迫されている。

 

本当は、上手くいった時に喜んだり、楽しくて笑ったり、という経験が、体験が自分を潤してくれるのかもしれないのだが、風鈴は喜んだり楽しくて笑ったりということをあまりしないのだ。というより最早、出来ないのである。

 

だから感動する映画なんかを見て涙活してみたりするのだが、やはり快活であるのは、笑ったり喜んだりできることだろうと思うのだ。

 

私はバラードを専ら好む。井上陽水とか、サザンオールスターズとか、しんみりする楽曲を好む。けれど、彼らが齎す哀愁は、笑ったり喜んだりという感情とは遠いのかもしれない。

 

お笑い番組を見てみても、だいたいは笑えないし、楽しくも無い。ガヤというのか、笑い声をバックで響かせる演出があっても、私的にはちっとも琴線に触れない、ということがある。

 

きっと自分を抑圧して、かつ、働き続けるということは難しいのだ。私は色んな職種に就く人々がなぜ、その仕事を続けていけるのか本当に理解できない。毎日毎日長時間の仕事を続けていける彼らが本当に理解できない。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。

徳川家康のこの言葉、風鈴は好きなのだが体現は出来そうにない。TV等で労働者を観察していると、マゾなのではなかろうか、と思う程に、仕事は重荷に映る。働かなければ生活水準が維持できないから皆、働くのだと理解は出来ても…風鈴は重い荷を背負って歩いていくことは出来なかった。

 

軽い荷しか持てない風鈴は悪夢を見る。この悪夢は世の中に対して何も出来ない風鈴に向けた意趣返しなのかもしれない。私たちは嫌でも働かなければならない。そうでなければ人間の生活水準を維持できなくなるからである。

 

そして、多くの人が風鈴には負えない荷を背負って何とか生きている。私からすれば一つのプラモデルを組み上げることが働くということだとして、私はもう1か月も一つのプラモデルを完成させられないでいる。

 

暇があっても時間を割けないのだ。皆、家事に仕事に時間を割くのに私は時間を割けない。その差が悪夢になったのだろうか。

 

昔のことを夢に見てうなされることもある。例えば転生したとして義務教育を再度受けるということは地獄のようにも思える。大学教育でさえ、今は耐えられる気がしない。

 

歳をとったから、そうなったのだろうか…。俳優なんかを見ていると、死ぬ直前まで働いて、ガンや病気で闘病の果てに亡くなったりする。死ぬ直前まで俳優として活動していたりもする。

 

そういう生き様をみると、なぜそこまでするのだろう…と思う。そういう人たちとリタイアする人たちと色々であるが…。私等は早々にリタイアしてしまえば良いのにと思うけれど…。

 

年金を70歳からにする等、老人を戦力に数えようとするが、私はそこまで働かなければならないのか…という風に思う。それこそ死ぬ直前まで働くという人も多い気がする。

 

介護が必要になって初めて隠居が許される…みたいな。病院にいても他者と関わり合うことが推奨されたり。老人ホームに入っても、他者との交流を勧められるのかもしれない。

 

部屋で一人でゲームしたりTV見たりということが、出来なくなる。要するに施設に入るということは自由で無くなるかもしれないということなのだ。隠居といって、施設に入っても、自分のしたい生活は出来ないのかもしれない。

 

じゃあ、何時になったら、悠々自適になれるのだろう。若く働いても、年老いて施設へ入れられても自由が無いとなれば…。だから、やはり自宅が良いという風になるのだろう。

 

病院もサナトリウムも娯楽に乏しい環境で、療養…という風なのが多いのではないだろうか。そうすると、PCに張り付いたり、自由に色々な本を読んだり、一人でゲームに打ち込んだり、料理を作って見たり、ということがし難くなる、か、出来ない。

 

集団生活を余儀なくされ、娯楽も他者を気にしなければならなくなる。そういう環境では、質素な生活で死を待っているだけみたいになりそうだ…。

 

コストを気にするとそうなりそうで鬱屈する。だから、やはり自宅が一番ということになるし、死ぬまでは家事くらいは自立してやれねばならないとも思う。

 

呆けてしまえば、あるいは頭がおかしくなってしまうと、最悪、布団とトイレだけの部屋に入れられる。そうすると囚人と何が違うのか…みたいな日々を送る羽目になるだろう。

 

認知症も癌も闘病生活というのは、恐らく、日々の潤いが消える。病院での療養というのは、買い物に行く自由なんかも無くなるかもしれないということだ。だから、死にそうになって初めて自由になるなんて考えていると、自由になった時には身の回りの娯楽が無くなってしまっていたなんてことになったりするのかもしれない。

 

隠居するのは病気をする前にしなければ楽しめないだろう。お金が無いのか、あるいは働くことに価値を見出すのか、健康だからパートで働く高齢者の方もいる。

 

ただ、やはり人間は高齢になる程、弱くなっていく。弱って、だから人の世話になるのだが、人の世話になると、その人や組織に自分を託さねばならない。そういう風にすると、どうもそれなりの扱いを受ける可能性もある。

 

私の経験上、ある程度のプライバシーが侵害される。優しい扱いでは無く「あなたは困った年寄りですね」という扱いを受ける。その自身に対する扱いは病院や施設によって違う。ただ、やはり田舎程雑で悪いように思う。

 

看護や介護の基本的な方針。規則。相手への配慮の仕方。そういうマナーを受けた教育された人材がいる施設なら良いのだが、パートの延長のような人が相手をしている施設なら、対応はイメージ的なものになるのだろう。要は「情に基づいて優しく接する」という感じが強くなる。ヘルパー資格程度では、感情的な付き合いが目立ってしまうのでは無いだろうか…。

 

看護師の資格を持った人の方が人当たりは良いように思う。まぁ、結局のところ、人付き合いしなければならない、そういう施設には風鈴は送られたく無いと思う。先入観かもしれないが…。

 

私としては若くして死んだ方が楽で、後になるほど死は苦しむ羽目になるのではなかろうか、と思う。若いうちは仕事に苦しみ、老いてからは不自由に苦しむ。

 

人生とは苦である…と風鈴の経験は告げる。けれど、違う見解を持つ人もいるのだろう。これだけの文化があって尚、私たちは働き苦しんでいる。働くことが辛いとか苦しいとか決め付けるべきでは無いのかもしれないが…。

 

文化があるからこそ働き、苦しむ…いや、世界を滅亡させるラスボスみたいな話だな。全ての苦しみから人類を解き放つために我は世界を滅する!みたいな…。

 

人を見る時、私は「よく耐えているな」と思う。耐えることが人生だと言われれば、そのようにも思うし、忍ぶことが人生だと言われれば、そのようにも思う。だから家康の言葉は的を射ているように思われた。

 

それはやはり私だからこそ思う部分だと思う。耐えられない私だから、毎日車で会社へ出勤する人たちを見て「よく耐えられるな」と思うのだから。毎日毎日、同じ作業を繰り返して、少しずつ、少しずつ日々を消化していく。

 

毎日、お風呂に入り、歯を磨く…。そういう作業さえ私はもう嫌になってしまったのに、他者はそれに耐えている。

 

よくやれるな、と思い、よくやれたな、と思う。けれど、やはりやりきれなかったことも多い。小学校の頃から、やはり、やりきれなくて。今でもやりきれない自分のままだ。そして、やはり他者はやれるのだな、と思う。

 

生まれながらにして、自分は自分で、己を変えることは出来ない。ただより強く耐えねばならないとか、そういう風にしか変われなかったと思う。それは心労を増幅し、何時か弾ける。

 

私は今のところ、私が私であることを、ある程度、許されているけれど、この先どうなるかは不明だ。結局、自分を変えることは出来なかったし、生理的な問題に負け続けている。

 

自殺は難しかった。どうやれば楽に死ねるのか。どうやれば他者に迷惑をかけずに死ねるのか、私には分からなかった。主に、環境が足りていないことも問題だし、飛び降りる勇気も無かった。

 

生きることが苦痛だから、自死を選ぶ心理を私は理解していると思う。日々、小さな苦痛、大きな苦痛に晒されて生きていると、未来もそのままだろうと思う。だから、これ以上、生きていたく無くなってしまう。

 

生きていようという気持ちと、生きていたくないという気持ちが交わり、天秤が生きていたくないという気持ちに傾く地点において均衡が破れるなら、その人は自殺を考え始めるかもしれない。

 

私は訃報を見るのが割と好きだ。ガンで亡くなったとか、自殺で死んだとか、他殺されたとか、事故死したとか。

 

人の死に様を見ていると、やはり苦悩に満ちている場合も多く、その事実は苦痛の無い自死を選択する権利が必要で、「あるべき」だと思う。その「あるべき」ものが無いのは、恐らく命が尊いからというよりは国のインフラを支える労働力を失いたく無いから…という感じの為政者の思惑だろう。文明を支えるために人々には甘んじて機構を支えるだけの労働力となって貰わなければならないから。死なれると働き手が減って困るのである。

 

俺が自殺出来ないのはお前らが悪い!』という感じの漫画・アニメを見てみたいところである。異なる可能性もあるが、風鈴としてはマジでその通りだと思う。

 

自殺する権利はあるという人もいるが、凄惨な方法しか無い状態では禁じられているのと同じだと思う。建物から飛び降りたり、電車に跳ねられたり、首を吊ったり、頸動脈を切ったりという行為はぞっとしない。

 

とある文学者…作家は、自力で生きるのが困難になってきた際に、投薬自殺をした。自分が苦しまないための方法として私はそれを支持する。

 

あらゆる文明で「簡単で安らかに死ぬ方法が用意されている」というのは普通は必然だと思う。寧ろ、だからこそ、それが無いということはやはり故意なのであろう。

 

そして、若しかすると多くの文明で「楽に死ぬ方法」が無いとするなら、無い理由が必ず存在するはずである。それが何なのか気になるところだ…。尊厳死をさせてくれる機関について知っているが、どの程度の国で許可されているのかは知らない。

 

ブラックジャック(手塚治虫)のDrキリコを思い出すなぁ、と何とは無しに思った。

 

私は若干、輪廻転生を信じている。そうなるんじゃないかな…と。でも不具合のある私という存在は消えるだろうか。脳機能から来る「わたし」は消えるだろうと思う。そうすると、次の私は、どんな私になるのだろうか。胡蝶の夢というのがあるが、次は蝶なんてこともあり得るのだろうか。

 

死ぬことが怖い理由の一つには、輪廻転生の観念がある。死んでも終わりでは無い場合、これ自体が地獄巡りなのでは無いだろうか。地獄は無いが輪廻転生はある場合。永遠に残酷な生を噛み締めていかねばならないのなら。

 

生というのは、動物の場合やはりグロテスクだと思うのである。植物がどうかは知らないが。やはり、人間以外に生まれたとしても、厳しい生である可能性が高いのでは無いか…。

 

生自体が地獄である可能性を私は否定できない。私という存在が輪廻転生と合わせて生の終わらないサイクルに仕込まれている可能性。

 

まぁ、そういうことを考える。だから、死ぬことを躊躇するというか。不老不死を望むとしたら、ある程度恵まれた現生に留まりたい。不確かな来世に進みたくない、という理由だろう。

 

悪夢は私の過去のトラウマ体験の再演だった。それに過剰な叱責が追加される。面白いのは私が起きている間は、過去の嫌な記憶も思い出すことは殆ど無いということである。私は夢として嫌な記憶を再生するが、起きている間は無意識に隠れて私からも見えない。

 

脳裏の表層を漂うようにして、過去のトラウマの記憶は無意識を行きかっている。だから、きっと認知症においては想像だにしない行為・言動を行ってしまうのだろう。

 

昔、英語がペラペラになった夢を見た。けれど、やはり現実では私に英会話能力は無い。なぜ夢の中ではペラペラだったのか…と思うのである。無意識には理解できる程度に嗜んでいたのだろうか。

 

まとめ

若い時には働き、自由もある。老いてからは施設に入れられれば自由は制限される。あるいは自身の健康面から上手く自由を謳歌することはできないかもしれない。施設自体もあまり居心地は良くは無いかもしれない。健康でいられる間は悠々自適でいられる可能性もある。

 

人生は重荷を背負い、遠い道を歩むかのようである。

 

私は生自体が繰り返す地獄巡りなのでは無いかと思う。そして、トラウマは無意識に記憶され、悪夢として顕現する。私を脅かす。人は変わることなぞ出来ない。変われたとするなら、それがその人の可能性であったか、あるいは無理をしているか。

 

生理的な問題には勝てない。