LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

陽キャ、陰キャという言葉が流行っているらしい

陽キャ・陰キャという言葉を最近耳にする。どうも嫌な気がする言葉である。人を彼は陽キャだとか、彼は陰キャだとか診断するのだろうか…。そして「陽キャにするには…」とかそういうことが言われるようである。

 

陽キャであることが求められる…とかそういうプレッシャーを受けるのだろうか。とは言え、この言葉は人間性を簡略化し過ぎていると思うが…。人の性格なんて陽・陰なんて二項対立では表現出来ないものだろう。

 

例えば「穏やかな人」は陽キャなのか陰キャなのか…。陰キャであることが悪いことででもあるかのように取られる可能性が無いとは言えない。例えば、学校なんて幼い精神では、暗いことで簡単に叩かれる可能性だってあるのでは無かろうか…。

 

要するに僕からして、これは差別用語なんじゃ無いかという疑惑を持ったわけである。

 

成長と共に、あるいは加齢と共に人の意識の働き方は変わってくるものと思われる。僕が10歳だった頃と、今とでは感性が異なる。まぁ、学校という渦中に居たことも影響して、そこでどのような雰囲気が漂っているのか、それに対して自分はどのように佇めば良いのか…その仕方が、要するに平成と昭和の生まれで異なって来るんじゃないか。

 

若者の感性は当時の僕の感性と比べて異なるんじゃないか。学校というシステムの住み心地と言うか、そこに居る人の振る舞いにしても、過去と今とでは差異があるのでは無いか…。

 

特にスマホの普及によって、若者の日常の過ごし方はかなり変化していると思われる。僕の頃はSNSなんて無かったし、例えば、mixi等で密かに情報共有のチームが出来ていて、自分だけハブられている…なんてことも殆ど無かったのである。

 

クラスメート全員が共通のSNS等に繋いで居るとか、LINEで繋がっているとか…そして、そこに自分は居ない…とか。そういう陰口の進化版みたいな排除の構造が技術革新によって起こるようになってきたのでは無いだろうか…。

 

それに加えて、他にインターネットが小宇宙化してきたのではないかと最近感じることがある。万人に開かれた場であったのが、インスタグラム等の匿名性を排除した保証(セキュリティ)された繋がりの場が主流となることで、そこに参加出来ない人が情報から排除される。

 

例えば、インターネットの検閲が増えることで、自分の欲しい情報にアクセスできるとは限らないという事態が増えて来たように思える。情報を発信するということが、例えば著作権に引っかかるなどして、消極的になり、情報が流通しなくなってしまう、とか、そういう問題が顕在化して来たのでは無かろうか…。

 

自由であった空間から、検閲される空間へとシフトして行ってしまうのではないか。情報はお金で買うべし、みたいなルールが敷設されて行くのでは無かろうか…。そうなって困るのは貧困階層の人達である。

 

貧困層でもPCがあれば、文化的な生活がある程度享受できるような状態にあったのが、今後、情報が統制される中で、お金が無いから情報を得ることが出来ない…という風に変わっていってしまう。

 

そうすると情報格差…みたいなものが貧富の差としても比例してきてしまうように思えるのである。情報の自由な発信の場であったことでインターネットは貧富の差の拡大をある程度阻んで来たように思う。

 

けれど、その構造が変わって、無償というサービスが奪われ、労働の対価として正当な報酬が支払われる状況が皮肉にも、有能な人間とそうでは無い人間をまさに分割して行ってしまうだろう。

 

そこで起こるのは文化的な生活の格差だろう。情弱とか、そんな風に呼ばれる文明を上手く使いこなせない層と、情強とか、ITを上手く使いこなして行ける層との生活のスタイルが隔絶して行くのでは無いだろうか…。

 

PCを使わない人、スマホを使わない人…ネットマネーを使わない人そういう人が便利なものから取り残されて時代の進化に付いて行けず、放置されてしまう。ある程度は力技で何とか出来るのかもしれないが…「情報技術を取り入れる」という思考をするか、しないかで、過去に生きるか、未来に向かって生きるか…というようなことが分別されていく。