LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

恫喝

相撲の問題もそうだけど、教え導くんじゃなくて、恫喝して脅迫してやらせようとする…そういうことを「教え方」「指導」と称する…そういうことが、前世紀的なものの名残的にあるんだろうなあ…。

 

殴らなくても大声で罵声を浴びせて来たり、胸ぐらを掴んできたり、激高してきたり、そういうフリでもして来て、それが暴力じゃないと殴ってないんだからいいだろう、セーフだろうみたいな意識がまだあるんだろうなあ…。

 

それらは恫喝ですよ。決して人を教え導く方法では無い。恐怖させ、畏怖させ、自分の我儘(意見)を通そうとしているだけ。

 

パワーハラスメントモラルハラスメント?何れにしても「暴力」のカテゴリーに入って来なければ行けない。指導や教導というのは理性に基づいて、学術的に穏当にする術を模索し、学ばなければ出来ない。

 

教導というのは知性によるもの・知識によるもの。天性によるもので出来ることでは無いと思う。それらは倫理として、方法論的に後学として学んでいかなければいけないと思う。

 

それが情に基づいて出来ると考えているから、出来なくて、もしかすると暴力に寄っていくのかもしれない。人への接し方がハラスメントにならないように「モラル・リテラシー」のようなものが教育に必要なのでは無かろうか。

 

「道徳」とかの科目で学ぶとかね…。手を出すのも口を出すのも同じ暴力のカテゴリーに入るのだという意識が、まだ社会に浸透しきっていないのだと思う。体罰だけが浮いて、口による罵倒、身振りによる脅し、そういうものも「暴力」に入るのだ、という常識が浸透して欲しいと思う。

 

結局のところ、相手を「やっつけてやる」という意思表示になる行動の全てが「暴力」のカテゴリーに入るのである。そして問題なのは、それらの実際には見え難いと思われる「暴力」の行動によって、相手が傷つき、消耗し、ストレスに晒されるという事実だろう。

 

「見えないからそれは暴力ではない」と言い張る「それら」を社会は看破し控えて行かなければ、社会から暴力を根絶させることは出来ないだろう。

 

相撲の問題に関しては「叱る」という言葉の内に含まれる「手をあげる」行為だけが問題視されただけでは「叱る」言動の直接的ではない間接的な暴力に当たる部分が許されてしまうのだろうと懸念する。

 

控えめに言って、罵倒したり大きな声をだしたり、怒りを露わにしたり、といった手段で「叱る」ことは「良い」のだと肯定されてしまう可能性がかなり高い。それが「駄目」なのである。暴力の可能性を相手に想起させること自体が暴力なのだという共通認識があまり無いのではなかろうか。そのような「反省」を促す行為というのが「叱る」の範疇に入ったままなのだとするなら、今回のような暴力事件の反省は「叱る」から一部を差し引いただけで良しとするような根本的解決にはならない可能性が凄く高いと僕は思う。

 

そういう論説をTVでするだろうか?僕はしないんじゃないかと思う。そのような状態では、まだ社会は暴力的である。要するにハラスメントに晒されているか、晒される可能性に怯えなければならない。

 

まぁ、要するに「暴力を仄めかす」行為自体が「暴力」としてパワーハラスメントやらモラルハラスメントの中に、きちんと陣取るようになってくれなければ、結局「暴力(腕力)で教えようとする」方法論から脱却出来ないだろう。

 

そういう部分に気づいて明確に注意しようとしなければ、所謂、体育会系のやり方と称されるような伝統の中から、本当に時代が脱却することは出来ないだろう。