LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

徒然草~お題:ゲーム

社会の歯車になって…とか、昔は良く耳にして、社会の、仕事のネガティブな印象を振りまいていた。今にして思うに、仕事というものは、そこに自分の思考の多くを割かねばならないことであるのだろうと私は考えている。毎日、あれをしてこれをしてこうしてああして終わり。という風に8時間なら8時間、思考を割かねばならない。

 

思考と(身体的な)実行はセットであるため、その一日の大半の時間、自分は拘束される。それは「思うこと」も拘束される、ことが多いと思う。多くの仕事がプロフェッショナルなものなので、尚更、思考のスペースをそこに費やさねばならない。それが「仕事をする」「働く」ということである。寝て、働いて、食べる。自由時間は少しだし、仮に自由時間があっても、そこにプロフェッショナルな仕事を支える予習や復習の時間を取ることもある。

 

それが出来ていないと仕事が成立しないからである。慣れてもそれはそれほど変化しないのではないだろうか。継続するための勉強が必要とされるのだと私はイメージする。

 

学生の本分は勉強である、というが、プロフェッショナルな仕事をする人間はベースに勉学があると私は思う。ある種の単純作業の仕事は、そうではないのかもしれないが、そういう仕事だけではやはり社会は回らないだろう。多くの人が自分の容量の多くを割いて働いてくれることで社会は維持されている。

 

そういったことが私がもう少し若かった頃は、あまりイメージしていなかったので、ここに書いておこうと思う。まぁ、このブログは趣旨一貫していないので、あまり役に立つことも無いかもしれないが。

 

最近、スパロボVをプレイしたのだが「他人と分かり合う」というテーマがあった。いろんな種類の宇宙人と戦って「分かりあえるはずだ」とニュータイプとかインベーターとか言うある種の真の人類の人が言う訳である。人はわかりあえる。分かりあえたとき世界は平和になる。つまり、最終的には平和になる。という3段階の論理武装を見せてくれる。

 

ただ、この3段論法の論理は最初に破綻する。人は分かりあえないのである。だから敵は絶えず、スパロボはどんどん世に出るのだ。

 

実際、シナリオではNTを含めた「分かりあえるはず」教の自軍の人たちも波動砲やストナーサンシャインやトマホークミサイルで敵対するものを物理的な対話によって退けている。

 

ではなぜ人は分かりあえないのだろうか。結局のところ、それは人があまり勤勉では無いからでは無いだろうか。そして、自然が過酷であり、そこで働く必要がある人達が一定数居て、中にはキツイ労働もあったりして、一方で全く働く必要の無い人や、あるいは労働環境に恵まれた人等がおり、それに対する不満等、つまりは環境のストレスによって人は人に当たり散らすこととなり、結果、争ってしまうと考えられる。

 

MMORPGをプレイする時も人は分かりあえない。予習必須ですよ、と言われた時点で分かりあえない。言い換えるとこれは「即戦力」というものであり、MMOも仕事もあったものではない。だから、人は分かりあえないのである。

 

ゲームの方が分かりやすいが「きちんと役目を果たす」ことが当たり前に求められる場合、退場する人は後を立たないということが分かる。極論すればPTSDになるからである。プロゲーマーになれない人というのは恐らくある程度の数が出てしまうし、そうなると、彼らは自分の責任を取れない=大人ではない、という風になる。

 

大人でない人を市場は求めていないので、彼らの居場所が無くなるし、そうじゃないようにしよう、と言っても、この格差をクリアするには、やれる人がやらなければならない、ということが増えて行くし、対して無責任な人を容認しなければならないことに不満を覚えるかもしれない、という話である。

 

社会の何割かは他人の尻を拭けと言われており、そこに不満を覚えても突っ込んでは行けないのである。そうじゃなければ人に対する憎しみ…というより、ある種類の人に対するストレスによって、人と人の仲は決裂し敵対するのである。

 

自分の役割に従順になれない人に対して、それを要求する限り、人は分かり合えない。翻って言えば、分かり合えると主張する人は、自分のことが自分で出来ることが当たり前だよね?と私や子供や老人や障害者等の弱者に対して要求しているのである。

 

老人の介護等の問題を見ていけば、そういう不公平に対する不満が吹き出す事実を何件も見ることが出来るだろう。弱者は何も出来ないということに対して、どう容赦すれば良いのかということが上手く合っていかないと、不均衡とか不公平とか不満とかストレス等が生じ、退場する人が出るだろう。分かり合えないから、と言って退場する人をスパロボはどうしたか、相手が強情で時間も無いことから「仕方ない」と言って魂をこめたフィン・ファンネルで撃墜するという暴挙に出るわけである。まだキラさんの方が愛がある気もするが、彼の場合、そこに放置してどこかへ行ってしまうので、微妙な気もする。

 

私自身を鑑みたとき、助けを求めるとか、どうしたら妥協できるか、とかそういう分かり合える条件を自分で導き出せない、ということが挙げられるだろう。大抵は「甘え」と見做され、容赦を引き出すことが出来ず、また自分も「甘え」であるかのように思われる微妙な問題であることが多そうである。

 

「甘え」という言葉に対して私は苦々しい思いを抱くが、この言葉が「熱血」とか「魂」と同じような作用をして、自分にカウンターを叩き込む際の重要なパーツの一つだと私は思う。発達障害者の多くが自分がどうこう出来ないことに対して「自分が甘えているせいだ」と考えてしまう、という思考自体が自分を追い詰めている。

 

まぁ、それによって奮起することがある場合もある、という問題がまたまだるっこしいところである。その辺は日本の体育会系のクラブやサークルや仕事等に良く見られる。「甘えてるから出来ないんですね」みたいな言葉は良く聞いた気がする。

 

最近は、パワハラという言葉、モラハラという言葉が台頭したと言っても、やはり、何故か、強い言葉は愛情とか後押しであるということにされて、要するにアントニオ猪木氏のやる気合みたいなニュアンスで現場で強行されたりしているのだろうと思う。

 

とりわけ、その部活なりサークルが有力で、かつ体育系の場合は、そういう「甘え」に対する「活」が入れられることになるのかもしれない。私がそれに対して意見を述べたとしても、実際、それでやってきたのだから、とかやれたのだから、みたいなことで、その悪習を改めようとせず、中にはそのために世の中に「不道徳」の新しいサンプルとして提示されたりしている。

 

所感としては、それは走る馬に鞭打って走らせているようなもので、相手側はどこかで、騎手を振り落として、後ろ足で蹴り落とした方が早いと思う気になることがあるような気がする。有り体に言って、ついて行けない人がやめることによって、そのエンドコンテンツ的空間

は保たれるのである。要するにそれが「弱者の排除」である。

 

簡単にできることだから簡単にそうしてしまい結果として改まらないという空間である。エンドコンテンツには、それを越えられる人しかいかないし、彼らにはやって当然のことという疑問の余地も無い。

 

ゲームの話である。実際においても当て嵌まる。トッププレイヤーは予習して当然、出来て当たり前、ドーピング上等である(注:ゲームでの話である)。

 

ゼルダの伝説・ブレスオブワイルドはRTAが盛んだが、そこに挑んでトップを目指していく過程に、それは似ている。出来てからが始まりである。

 

だから「悪い作用を持つ」「悪いことである」という感覚を持ち難く、かつ、寧ろ、そうするべきであるとさえ考えてしまいがちになる。

 

「暴力で問題を解決してきた人間は他人に対して暴力によって問題を解決しようとする」

 

ということは私いわく経験則である。恫喝したり、手を出したりする。介護系の漫画によれば、そうした行為から暴力へ発展し、虐待へ至る。そういうサンプルが近くにいるので非常に厄介である。

 

人が自分に甘えるから争いが絶えないのだろうか?まぁ、そうとも言えるだろう。ポジティブに言えば。けどそれは意志による制御であり、言ったように、その力が無い人を(それが自然的である)否定する。にもかかわらず彼らはそれが人間だと(それ以外は排除)と言う訳である。つまり分かり合えない。

 

分かり合うには自分のことは自分で出来る(言葉だけではなく現実を伴う)と宣言する必要がある。でも、やはり出来ない人もいるのだということを認めなければどうしょうもない。

 

つまり、分かり合えない、ということを、分かり合う、ことが出来れば、じゃあどうなるのか、と言っても、まぁ、分かってもらうしか無いんじゃないかなぁ。それが受け身でしか無いという辺りに、無責任さがあるが…。自分で責任を持てないということは、弱者になるということであり、立場も弱くなる。責任が持てて、こちらを分かっている人がまともであることを祈るしか無いんじゃなかろうか。

 

自分のことは自分でやる、という当たり前なことが当たり前であるが、しかし、実は当たり前でないことだってあるということも分かること、が結局、平和へ至る一歩なんじゃ無いだろうか。

 

分かり合えることを期待しても仕方がないと、どこかで諦めた方が良いんじゃないだろうか。話し合っても分かり合うことは出来ないかもしれないということをわかれば良いんじゃ無いだろうか。

 

つまり結論を導くために、人と人が分かり合うには、という問い自体を捨てれば良いんじゃ無いだろうか。最終的に「平和」を維持したいのなら、分かり合うことは必ずしも必要ではないということでは無いか。まぁ、それはあくまでもスパロボvのテーマに関する話である。

 

自分としてはオークアンタのガンダム様の力で量子空間に行っても他人と分かり合うことは出来ないに違いない。やはりテーマがそれっぽいという詐欺なんじゃないだろうかNTというものは…。

 

結局の所、気の合うやつ同士でしか分かり合えないのだろう。どちらかといえば、どのくらいの距離感を相手に取ったら良いのか、と考えた方が有益ではなかろうか。みんなが平和への意志とか、毅然とした態度とか、要するに大人じゃないわけで。

 

テーマが重くなったので分けます。