LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

生きること自体が苦しみであり、生命とは生まれながらに地獄に落とされている存在なのではないか

死ぬことを考えた時に、なかなか楽な死に方ってしないことを考えると、私は常に最終的には苦しんで死ぬ定めを負っているのでは無いかと思う。仮に魂や自我というものが来世に引き継がれて何らか転生したとして、その記憶が無くとも、延々と生と死を繰り返すプロセスを繰り返すことが生であるというなら、それは死を何度も繰り返すプロセスを繰り返させていることになる。

 

そうすればそのうち何割かはひどい苦しみを被って死ぬわけである。例え交通事故で死ぬ確率が1%未満であっても、この生が何回も繰り返されたものだったとしたら、1回は交通事故で死んでいるかもしれないわけである。そう考えると、死という契機を必ず経なければならないこの輪廻(それがあったとして)は、その中にどれだけ喜びがあったとしても酷い死が訪れる恐れに塗り潰される気がする。

 

死が苦痛や恐怖を伴わないことだとしたら、生を何度も謳歌しているのかもしれない、ということは幸いであるのかもしれないが、死に伴う苦痛を延々と繰り返す地獄としての輪廻の側面というのはあると思う。

 

死後に地獄があるのではなく、自意識がある今こそがまさに地獄の途中にあり、生物であること自体が咎である証左であると言えないでもないのではなかろうか…。

 

空間や時間の存在自体が、宇宙というもの自体が生命を内包する時点で何らかの失敗であるのかもしれない。まぁ、その辺りを考えると、神様みたいな存在が居るのかもしれないと私は思うわけだが。

 

この生命を内包する空間自体が一種のイレギュラーで、その箱の中に私達は放り込まれたまま蓋をされてしまって出られない…と、そういう感じなのではないだろうか…と思わなくも無いわけである。

 

それ故に私達は何度も輪廻を繰り返さざるを得ないのでは無いだろうか…。そう考えると「個」よりもこれは存在の、全としての「咎」であって、まとめたこの宇宙とかそのパッケージ自体が「咎」められる存在なのでは無いだろうか。

 

もし神様のような存在が居たとして、彼は結局のところ、地獄自体を作り出してしまい、そこに蓋をしたのでは無いだろうか。

 

宇宙が生じ生命が生まれ輪廻する場、それ自体が地獄というパッケージであり、神様でさえ、最早、どうしようもない、のでは無いだろうか…。