LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

無理解の言い訳と自閉症者の天敵

まぁ、なんというか。「お前が障害者でも私は何も変わらない」みたいなことを言われたことがあるんですが。それって「私を偏見で見ない」みたいにも聞こえるけど言ってることとしては、

 

「障害が無いものとして扱う」

 

ってことですよね。それは私のハンディキャップについて理解する気が微塵も無いし、気遣う気もない、ってことなんですよね。そういう家族が居たとして、表面上は綺麗に聞こえるこの言葉を解析したら、要するに「どうでもいい」ってことなんですよね。その人は耳障りの良い言葉で状況を無理矢理、正当化してスルーしてるだけです。

 

「ありのままのあなたを私は受け入れます」

 

ま、そういうこと言うやつは信用しない方が良いですね。自分に都合の良いことしかしないし、やらないから。

 

私が求めるのはハンディキャップに対する理解やフォローであって「家族として対等だ」という言葉の裏にある無理解・無関心・モラハラ・謎の理由なき無礼講、等ではないわけです。要するに自閉症に関する本を最低20冊読んで出直せよ、って話である。

 

これって多分、障害者じゃ無くても他者との関係において重要な点なんですよね。「相手を理解してフォローする」「相手を理解して対応を考える」「相手を理解して関係性を調整していく」これらは普通、人付き合いに関しての重要点なわけです。でも私達の障害は主にここが駄目なので。

 

まぁそういうわけで相手を理解しようと務める態度あるいは良く書籍に出てくる言い方として「相手との距離感を測る」というのは、障害が無くても自身の家族との関係の中でも重要な心得なわけです。というか全ての普通の社会生活で必要なやつです。コミュニケーションの肝です。

 

家族だから恋人だから「全部受け入れてくれるはず」だから「私はあなたのこと気にしないんで」というのは「ああ、私に興味も無いし助けてもくれないってわけね」と変換して間違い無いです。

 

TVとか見てると一目惚れで結婚した、とりあえず何か結婚した、みたいのよくあるけど、そういうのって結局「理解してくれなかったから別れた」みたいになると思います。お互い相手を理解する気のない人間は何れは相互不和となり分かれるのが論理的帰結です。まぁ、宿命ですね。

 

要するに「家族だから」というのは免罪符なわけですね。そして恐らく、言ってる人はその点に気づいておらず、自分の言葉に騙されてるというか理解してない綺麗事をならべて満足してるだけの人です。

 

コロナ・ショック中に家族仲が悪くなるのは、そのロジックを使ってしまっているからじゃないですかね。「家族と過ごす時にはリラックスできていないと家族ではないから無理矢理にでもリラックスして過ごそうとする」みたいな謎ルールがありますよね。そんなの嘘っぱちだから上手く行かないんですよ。

 

そもそも夫婦というのは他人です。家族自体が他人の群れでしかないです。つまり阿吽の呼吸なんてものは生まれながらに備わっているわけもない、ということです。

 

単に統計的に見て、家族との仲が良くなりやすいとしたら、それは一緒にいる時間が長く、その分相手を理解している率が高い程度の理由でしょう。双子の場合、お互いの思考をある程度トレース出来るため相互理解しやすい、ということが多いのでしょう。

 

そして、そのことさえ考えもしないくらい自身の言動を自分で把握出来てないんだと思う。ま、自分の中に道徳や倫理が論理的にインストールされてないんですよ。内省しない人ってのがきっと存在するんでしょうね。「相手や自分を客観的に理解するための論理思考能力」ではなく「声に出すと美しい日本語」的なものが変わりにインストールされてるんでしょう。DQNは。

 

『ナルト』でチョウジ君が言ってますが、大人になったら大人になるんじゃなくて、大人になろうと意識し努力して初めて大人になれるのだ。要するにその過程で、

 

家族とは何か・母親とは何か・父親とは何か・自分とは何か・兄弟姉妹とは何か・友達とは何か・他人とは何か・人間とは何か・愛とは何か…etc…云々という問い掛けを自分にしない人間は「勝手にそういうものになれる」んだと信じてるんじゃなかろうか。

 

例えるならそれは、赤ん坊はコウノトリが運んでくる、理論である。つまり、0点だ。その理論で人の親になろうという人間はまるで「車の免許も持ってないのに自動車に乗る」人間である。ルールを把握してなかったり、ボケてたりすると当然事故るわけだ。

 

「親しき仲にも礼儀あり」ということが分かってる人なら、そう家族仲も悪くならないはずです。理想的なのは私もあなたもそれを了解している、ということです。片方の理解だけでは一方通行ですからね。妻は夫の一歩後ろ歩け、ということです。しかし、時代は変わりました。夫も妻の後ろを歩かねばなりません。どうぞどうぞと言って互いに相手に譲歩しつつ結局一緒に歩けば良いんです。

 

歴史を考えると戦後という時代はそうしたものが整理され道徳や倫理、権利等の考えが、そうした道徳的なインフラもありませんでした。「衣食足りて礼節を知る」という風に、それが足りてきたのは2000年以降と考えても良いと思います。それまでの道徳は権威的であり壊れていました。つまり、何か訳なく威張り散らす人がいた感じでしょう。TV画面越しに殴ったり蹴ったり脱がせたり、ピー音でモザイクなことが何度も試みなれていた時代です。

 

そこに郷愁を感じる人がいたとしても、そこには経済的成長や技術革新とかの右肩上がりの時代だった、要するに復興期で高度経済成長とか呼ばれた時代のため、羽振りがよかったのでしょう。当然、そこに過去補正という郷愁が加わると「昔は良かった」ということを口に出す大人がいるわけです。大人は好き放題やれたのかもしれませんが、子供は教師から、先輩からの体罰モラハラは当たり前だったと思います。勿論、親からもそうだったでしょう。子供は環境によっては全く守られなかったわけです。

 

経済は下降し少子高齢化、非正規雇用の増加、地球温暖化年功序列の撤廃…まぁ色々ネガティブなことが棚積みにしてあるにしても、今の方が余程、様々なことが健全な方向へ進もうとしています。自殺率の遷移にその辺りは明確に表れている思います。

 

まぁ、だから「家族だからありのままの私で居られる」だとか「家族だから何でも受け入れてくれる」と思いたいんでしょう。妄想ですね。気心が知れる、というのは「その人を理解しており上手く立ち回れる状態」だと思います。人により対応を変えるのは、人に対する距離感が分からない、と言われる発達障害者には難しい行動ですが、人付き合いの要点だと言われてます。

 

つまり人により対応を変えるのが自然な人間的な対応である、という話ですね。まぁ、多くの家族が相手を理解する努力を互いにしたくないがために仲良くなれないわけです。で最終的に無関心になる、みたいな。まぁそれを家族に望んでるんだから仕方ない。

 

「何でも受け入れる」というのは「何でもスルーする」ということであり「理解はしないんで勝手にしてください。私も勝手にするんで」ということの表明だと私は思う。

 

尚、1人が譲歩する人でもそれは普通にその人に全部背負わせることになるので、やるなら、その点を理解してやってほしい。撃たれる覚悟のあるやつだけが戦場に立て、という感じです。親になるということはそういう覚悟(自分は顧みられないかも)をすることです。

 

まぁ、子供は何もしなくても親が面倒見る必要があるわけですが、成長の過程で、仮にそれを気遣われて育ったと言うなら同じように相手を気遣うということを学習するんじゃないかなー、と思います。まぁ、だから孝行したいとも思うようになるんじゃないですかね。定型なら。

 

で、まぁ「家族だから」が如何に呪われたワードかを語り終えたというていで、話を変えます。

 

閑話休題

 

自閉症者の天敵は無理解な定型と自閉症の人です。バッサリ言えば殆どの人間は天敵です。私もあなたも人間にどう接すれば良いのか分からない。磁石のS極とS極をくっつけようとするように反発するでしょう。前にシェアホームなんかの話を聞いたんですが、結論としては問題のある人と一緒に住んだら普通に炎上するよね…というものでした。火のないところに煙は立ちません。私は火種を持ってるので、行く先に煙が立ち込めます。

 

自閉症とはある種の火種であるため、火種が沢山あればそれだけ燃えるでしょう。自閉症者の味方は障害の知識があり理解のある定型です。仮に私が理解のある自閉症だ、としましょう。

 

でも私はストレス耐性とか無いしコミュ障なので、自閉症者に大人の対応をとることが出来ません。まぁ、それは誰に対しても上手く付き合えないのが、自閉症ではそのレベルが上がるだけです。

 

結局の所、理解ある定型というのが福祉関連の人とか精神科の先生とかしかいない、と考えて良いと思います。それ以外の人は自分を理解してくれようとはしないでしょう。「ありのままの」理論の人が多いでしょう。「ありのままの」理論の人は天敵です。分かり会えない宿命です。宿命と書いてさだめと読みます。そもそも、その人自身コミュ障かもしれません。「ありのままの」理論で武装してる人は対人のたの字も知らない素人です。

 

ちなみに相手と上手くやる方法というのは、相手を理解し更に尊重することです。その中で必要なら自分は何らかの譲歩をするわけです。

 

理解・尊重・譲歩…およそこの3つが他人と上手くやるコツでしょう。で自閉症者がどうかというと、これらを相手に求めながら「自分はそういうこと出来ないんで」と何か要求ばかりしている、感じですね。勿論、これは他人と上手くやれないその他の定型・非定型全ての人間について言えることです。

 

自閉症者同士が集まるとどうなるかと言えば、互いに理解も尊重も譲歩もしない。理解しても尊重も譲歩も出来ない、と言うでしょう。言わば、私達に関わるということは、私達を理解し尊重し譲歩しなければならない、それもほぼ一方的に…という話です。

 

要はその場に、難しい気質の我儘な子供が1人増える感じ、ですかね。その子の面倒を見ろ、と言われる感じで。まぁ、無理ですよね。

 

で私達の家族がどうかというと私の場合「あれをするな」「これをするな」「何度言えば分かるのか」「尊重しろ」「譲歩しろ」と命令してきます。まぁほぼ恐喝です。

 

本来、尊重されるべき障害者側が尊重しろと言われるわけですね。要するに「介護が必要な人に自分でやれ」とか「私に迷惑かけるな」と言ってくる感じです。私は言語能力高くないので、自分で反論することも難しいし、表現することも難しいですよね。反論しても相手は聞く耳を持ちません。私の能力では相手に抗することが出来ないわけですね。

 

にもかかわらず相手側から言えば「私を受け入れている」というわけです。「嫌なら出ていけ」というわけ感じですね。まぁ大分マイルドな表現にしてます。ダブルバインドとか適当な語句を出さずとも、全く障害を理解する気も受け入れる気も尊重する気も配慮も何も無いわけです。

 

私はひたすら引きこもってるだけでもバッシングを受けるわけですね。部屋の外にいるだけでも暴言をはかれると…。まぁ、要するに「ここにいるべきじゃないなぁ」と言うのが結論です。それでも動けない人は多いでしょう。

 

よくラノベでは劣等者同士が集まって傷を舐め合うものですが、自閉症の場合、そこには細菌が繁殖して病気になります(´・ω・`)私は98%くらいの他人は私を理解しないだろう、と諦めてます。

 

まぁ、そんな訳で自閉症の味方と言える可能性があるのは、お医者さんやその関係者くらいでしょう。専門知識を持ってるわけなので。その中で見極めてくしかないのかな、と。まぁ医者も人なので色々いるでしょう。なんか悟ってる感じの人もいるでしょう。そのくらいハードな仕事だと思います。割り切らないとやってられない感がある先生も多いのではないでしょうか。

 

昔、クリニックを探した時に、結構やばそうだなぁ、ってとこも割と見かけたし、実際、行ってみて駄目っぽかったとこもありました…。当時とは状況が違うとは言え、その病院の医者が信頼して良いかどうかというのは断言出来ないです。

 

ちょっと話を戻しますが、昔、作業所を探した時には、同じ問題抱えた人…とか無理だな…と思いました。同じ障害と言っても十人十色ですからね。まだ定型の人といたほうがマシでしょう…。互いに相手に興味を持たないで済むのがベストです。

 

まぁ、私としては最早「誰とも一緒に居ない方が良い」んですが。他の障害者とか理解の無い定型とか「ありのままの」理論を使う定型とか、それらは目に見える地雷なんですが、私達は自身も地雷元だということも思い出さなくてはいけない、と私は書いてて思いました。

 

自分は火種になる、という理解が必要です。どうも書物などを見ていると、自覚のない火種がうろちょろしているようですが…。一体、どんな破綻した論理武装で自己弁護してるんだろうか…。

 

普通の人は地雷を踏むと爆発するが、踏まなければok

 

私は地雷を踏むと爆発するし、そうでなくても地雷処理能力が無い人に接触すれば爆発するし、自分自身も地雷処理能力が高いわけでもない。

 

そういうわけで愛とか恋とか友情みたいな何かを期待しない方が良いでしょう。コミュ的な問題に対しては人並みの何かなんて私達には手に入りません。

 

家族に対してもそうです。「ありのままの」理論の人は信用せず距離を置くべきでしょう。実害が表面化しているのなら逃げた方が良いです。

 

自分は非常に珍しい奇病に掛かっている…という認識が必要かもしれません。事実、その通りです。否…と思った人は考え直したほうが良いでしょう。勿論、周りが悪い場合があることも事実です。相手の火種が勝手に爆発してることも多いです。私は比較的人畜無害な方ですからね。別に私だけが火種やら地雷やらを持ってるわけでもないです。

 

家族も含め他人に自閉症関連の図書を数十冊読ませるのは困難ですが、自分で読む分には制約はありません。まずは自身が自分の障害の理解者になろうと務めるべきです。この障害は十人十色です。パターンがあり自分はどの辺にいるのか、みたいなことを考えることも必要です。

 

己だけが自分を理解しようと自己を顧みず努力することが出来る、最も身近な他人である

 

と名言っぽく言っておきます。自閉症者自身が「ありのままの自分を」理解していると思っていませんか?前述したように、人は自分のこと自体自ずから理解しているわけではなく、思惟によって、経験によって内省することで自分の人間性を掴んでいくもの、と思います。

 

「ありのままの」理論はナンセンスです。何も語っていないのと同じだと言うことです。自分には障害なんて無い、と思っている自閉症者は多いという話を聞きます。灯台下暗し…と言っておきましょう。