LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

障害は性格の難に至る

「障害を理由にするのは性格に問題があるのだ」とO氏が言った。O氏には四肢欠損という障害がある。

 

一方、自閉症の私は人とうまくやれない。コミュニケーション能力の欠如、等、私の障害はコミュニケーションに関わる問題だからである。要するに、障害の良い悪いというのは性格の問題では無いのだ。

 

身体障害者にとっては、性格と思えるものも、精神障害者にとっては、心の病気である。事実、人の精神というものは不動のものではなく、時には病むものである。発達障害者にとっては性格の云々とは関わりなく、というよりも性格と障害は殆ど区切ることの出来ない問題として表出している。

 

ということは「性格」というものは、人間の根底に下敷きに出来るような要素ではないことを示す。精神鑑定というものが法にはある。精神鑑定において、疾病が認められれば、責任能力の有無を考え直さなければならない。

 

人と上手くやれる、という能力は複雑なもので、ネジが一つ外れただけで上手くやれなくなってしまうものだと私は考える。知的障害者であってもIQが低くなるほど、モラルは低下すると私の記憶ではある。知的障害者の性犯罪という問題はちょくちょく耳に聞く。

 

であれば人の尊厳のようなものを、障害と品性に分けることは出来ない。そのような例外的な症例でなくとも、赤子、幼児、少年、老人、等、その精神が未熟である時期というものがあり、認知症等は、当人のどうこうできる問題を越えている。

 

であれば性格を障害のせいとして片付ける理屈は理に適っていると言えるだろう。性格は先天性のものと後天性のものに分けられるだろう。そして、二つが撚り合わさって人格が形成されると思われる。

 

したがって、これも偶然性のあるものとも考えられ、完全にその人、自身の落ち度でそのように嫌われる性質に育ったとは言い難い。寧ろ、人は科学によって道理を知るのだ、と考えた方が未来はある。

 

科学には教育的手法も含まれる。様々な人格の逸脱に対してどのような処方箋を出すのか、というのが人間の仕事である。私は人は科学的に犯罪を抑止していくもの、と考える。