LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

自己と他者を分けれぬ社会

老後ということを考えると、人は惨めに死んでいくものなのだろうか…と思う。現代社会はそれなりに進んだ社会であるが、途上と言わざるを得ない。色々な問題に対する解決が今の時代のテーマかと思う。ICTの発展により、多くの人のニーズを満たすこと、が求められているようだ。

 

若いうちは、そういうことに考えが向かないから気楽にしているが、老いて自分で何も出来なくなっていく、ということは日々の生活のQOLが減っていくことを意味している。人は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という具合に、過去の問題は忘れてしまうものだから、苦難の道の途上に居る時は、その時の辛さ・惨めさ…そういう実は一時の感情が永遠に続くかに思えるだろう。特に老いて、再び賦活することが無いことが分かっていれば、重い荷を負ったまま沈んで死んでいくのかもしれない。最早、希望は無い。

 

そういう死へ向かう時間をどういう気持を持って生きていくのか、というのが人の課題の一つじゃないだろうか。老人の書いた俳句の中にはシュールさが滲んでいる。有終の美を飾ると言うか…朦朧とした状態においても確固としていられれば、それで死んでも良いのではないだろうか。

 

粋の哲学者というのをやっていたが、きっと意気地と諦めの中で死までの過程を生きるのが、イキな生き方なのでは無いかと思う。身体は重く、頭は痛い、目は霞み、耳は遠く上手く聴き取れない…そうした強いテンション(思考が肉体に引っ張られてしまう)と衰弱の中で如何に最後を迎えるのか…

 

迎えるというのは、招くということでもある。出迎えることである。死を出迎えるのだと思う。まだ生きていたかったと嘆くか、そろそろお迎えの来る頃合いか、と思うか。

 

まぁ卑近なことを言えば、それは精神衛生の問題と言えるだろう。イキの哲学の中で参考になるのが、意気地と諦めの中にイキがあるということである。複雑な状況の中でどう意地を張り、どこで葛藤を諦めて耐える決意を持つか…まぁ、そのような感じかと思う。イキというのは老人の書く俳句に滲むシュールさのようなものだろうか。厳しい現実をあくまでも喜劇的に振る舞い乗り越えてしまえるとすれば。

 

閑話休題

 

その前にやっていた番組では今の子が常に他人と繋がっていなければいけないような心境になっていることに対して「一人の時間を大切にしよう」という話をしていたかと思う。今の社会というのはスマホに支配されているのかもしれない。

 

テレワークなんていうのもカメラで他人を監視しあっている(繋がり合っている)。それは翻って言えば「独りで活動する」時間を奪っているのかもしれない。私は人の個性は「一人遊び」の中で発展すると思う。個人的な時間が、私と他者とを切り分けるのである。その中で私はわたし、あなたはあなた、という個の概念が形成される。個人というのは具体性の極地のようなものだ。抽象された時には共通点が関連性を持つが、具体化の特徴は関係が無くなっていくことである。つまり、SNS等で繋がり合い関係を持ち続けている時点で、個に至るような断絶する経験を持てないのだと思う。

 

SNSの問題は常に繋がり合わねばならない状況に追いやられること、自体のストレスより、独りの時間を独りで過ごす、という体験を奪っていることが決定的に人を脆弱化させるように思える。それは個性を剥奪すること…とさえ言えるかも知れない。

 

趣味はと聞かれると流行り事を答えるとか。繋がって、シェアして、Youtuberとかであくまでも他人に見せることで反応を貰うためだけにアクロバティックな/個性的なことをしてみせる…というように「自分だけの世界」を持ち、それを大切にする人が減れば、大衆は没個性化し個人主義は瓦解するのでは無いだろうか…。要するに、他人に媚びる人間ばかり増えるのではなかろうか。それはニ心を持っている、という風に捉えられる。「他人に対する私」ばかりが強調されてしまう。その中で私に対する私は狭苦しいものとなるだろう。

 

事実、言いたいことも言えないこんな世の中じゃ…みたいになっていると思う。本当は中傷したくても、言うことが出来ない…そういう部分で本心と世論との間に確執が生じる。自身の納得は他者のロジックで上書きされ、自身の言葉で、世の中を理解していく過程が省かれてしまう。

 

本来の流れとしては、失敗を繰り返す中で、徐々に弁証法的に昇華していくと思うのだが、他人から解答が押し付けられてしまう場合には、自己の中で噛み砕く、時間が与えられることがない。それは自分の頭で考える、という経験を奪っていると考えられるのではないだろうか…。

 

閑話休題