LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

人はなぜ歳を取るとゲームをしなくなっていくのだろうか/RTAという思考訓練法

ゲームは非常に無駄が多い。RPGにせよ、多くの時間がストーリーを読むことよりも戦闘や移動といった作業に当てられる。

 

普段、仕事をしていて、休みも限られている…そういうルーチンワークが嫌な人は、ゲームはコスパが良くないから、ということで敬遠していくのかもしれない。

 

もちろん、歳をとってもゲームをする人もいる。ただ、そこに時間をかけるだけの価値を見出したい、という人は、ゲームよりも本を読むとか、自分を磨くことに時間をかけるのではないだろうか。

 

あるいは、ただ疲れるから嫌だとか、休日はゆっくりしたい、貯まっていた家事を片付けるだとか、そういう必要なタスクをこなしているのかもしれない。

 

私は歳をとってもゲームしているが、最近は、あまり時間を割けていない。まぁ、一過性の状態なのかもしれないのだが。

 

ゲームをするといっても、漫然とプレイする人と熱中してプレイする人との間の差異というものがある。前者はプレイしただけで満足して終わってしまう人で後者はプラチナトロフィーとか取るまでやり込むようなモチベーションがある人である。私は後者になりたいなぁと思う前者なのだがゲーム終了後には最近はあまり達成感や感動を覚えない部分がある。「そこにゲームがあるからプレイするのだ」という登山家のような気持ちである。

 

思うにRTAをする人たちの中にあるモチベーションのようなものを展開したときには、そのゲームの中に繋がりを発見していく面白みがあるのではないか、と推測している。そのゲームの構造を考えなければ、様々なやり込みは自律的に出来ないからである。

 

つまり、RTAをする人たちのように、あるゲームを把握しようと務める態度が、ゲームというものを楽しむ中では大きい違いを産むのだと思う。もちろん、ゲームだけを対象にした話ではない。

 

自分の中である何らかの繋がりを持って構築されていくものを獲得するために、何らかの行為に取り組む、ということ自体が主体性を発揮し得る態度に繋がっているのかもしれない。

 

「主体性を持って取り組め」と言うのは容易い。しかし、これは「行うは難し」ということわざに繋がるわけである。何事にも「主体性を持って取り組め」というが、主体性とは何なのか、どうすればこれを持てるのか、どうやれば実践出来るのか、という点に関して「この文章から」答えることは難しい。

 

私はその一つの答えがRTAに観察されるテクニックやそれを可能にする脳内の地図(繋がりや構造、ロジック)の中に発見できると思う。つまり、彼らのようにすれば、それは結果的に主体性を発揮することになる、のだと思われる。

 

主体性というものは結果である。逆説的に観察される状態を「主体性がある」と述べており、それがあるから優れているのだから「主体性を持たなければならない」と言う。逆説というものは順番が逆なのだ。

AならばBが成り立つ時、しかしながら、

BならばAが成り立つ、とは言えないし、本質的に正しい論理展開でもない。例えば、赤ん坊→少年→青年→老人、は正しいが、老人→青年→少年→赤ん坊は、正しくない。順序を逆転した際には、そこにあった論理は欠けるのである。

 

そこにあった論理とはこの例でいうと「人はこうして成長する」という時間的な過程である。逆転すると「人はこうして成長する」という論理はそこから失われる。

 

「能力がある人には主体性が見られる」が正しい時、だからといって「主体性があるから能力がある」と考えるのは論理展開的に妥当な流れではない。つまり正しく無いのである。

 

要するに「主体性を持てば良い」という主張自体、論理的にはそう言い切ることが出来ないのである。能力がある人にとって「主体性」はその人の1側面を見ているのに過ぎない、と言うこともできる。

 

「藤井さん」や「羽生さん」や「イチロー」や…まぁとりわけ優れた一流の人たちには「主体性」が観察された、としよう。しかしながら、彼らと競争している相手方も「主体性」を持っている、としよう。では、能力の多寡はどこで差が付いているのだろうか。

 

つまり、そういう話である。主体性は逆説的に観測された、というだけの理由から鑑みると、(例えば)才能や実力を構成する要素の一つに過ぎない、ということが十分あり得るのだ。

 

また「主体性」というもの自体、何らかの現象の結果として表面に浮き上がってきた状態の観察された状態の形容、であるということも考えられる。

 

まぁ、ここで言いたいことはそうではない。そうではなく、ゲームに熱中する態度はRTAを観察し参考にすれば、再現可能なのでは無いか?という話である。RTAをする前提でゲームをしているから、その状態(高い動機やモチベーション・(繋がりや構造を考える)ビジョン)が得られている、とするなら「RTAを模倣する中で、その体験が直に得られる」と考えるのはロジックの道筋としては合っていると思う。

 

「どうすれば主体性が身につくのか」と考えるのは、恐らく問いとして正しい手順を踏んでいない。「なぜ主体性と言われるようなものがある個人に表出したのか」と問いを立てた方が真っ当な順序である。

 

そもそも「主体性」は勝手に問題だと決めつけているだけで実際は本質的な問題ではないのだ。恐らく「主体性」は行為の副産物(そもそもそれは後付された解説みたいな実体の無いものだ)に過ぎないのである。

 

要するに、抽象的な概念である「主体性」は身につけることは出来ないし、そう問う事自体がロジックをきちんと展開出来ていないという証左である。

 

じゃあ、どうすれば「ある問題」に対して心から集中していけるか、と言うと、私の解答で言えば、RTAなのである。それを抽象化して言うなれば「問題への態度(切り込み方)が結果として、そうした展望(繋がり・構造・全体把握のビジョン)を与える」のである。

 

あるゲームを出来る限りショートカットをしようと考える場合、何が必要で何が省略出来るのか、という最適化を自分なりに行う過程で、シミュレーションや計算を行っているわけで、結果として、そこには自分の頭で考えるための情報の入力、といったインプットの問題も入ってくる。そこには明らかなデータと計算された道筋、という言わば「情報を知識に変える」必要性もあり、それを試行錯誤して実証する(アウトプット)、そして最適化する、という行程が、どうしても入ってくるわけである。

 

それは要するにそのルートを通るためには「考えること全般が必須だよね」ということになる。つまり、RTAというのは「考えること全般」を必然的に課される「やり込み(ジャンル)」なのである。

 

勿論、RTAだけが思考の訓練になるわけではないが、少なくともRTAは多くの読書法において必要と言われている過程を網羅しているように見える。

 

要するに「自分の頭で考える力」が付くと考えられるのである。つまりは、RTAを一種の実践可能な知的訓練法だと捉えることが可能になるのである。

 

「考える力を養いたい」と思った時にするのは「訓練」や「修行」である。要するにどうすれば良いのか?というのは「考えれば良い」のである。という話なのだが、じゃあどうしたら「考えられるのか」という袋小路に嵌るわけだ。その回答の一つが「特訓」「訓練」すること、である。

 

とはいっても、複数の本を読んでも、具体的にどうすればいいのかわからないよ。というわけである。複眼思考だの抽象思考だの具体思考だの用語だけで実際にどうするのか、ということは問われないか複雑で実行出来ない。だから、分からない。

 

まぁ、そういう中で具体的に一つ提唱出来るのがRTAなわけである。別に教育過程でも、部活活動でも、趣味の石集めでも、芸術全般においても「考える力」が何かしら結果として高まるトレーニングを探すことは可能だろう。

 

私が言うRTAは「結果として」「考える訓練」になってしまう、というものの一つの例である。しかし、それは「主体性を身に着けろ」というような逆説で言われる抽象的でとらえどころのない課題をあてもなく考える(砂漠で一つの指輪を探すようなものだ…)よりは、直ぐに実行可能で論理にも適っているし分かりやすく、訓練可能で、結果も目に見えるし、そして多分やっていて楽しい(かもしれない)。

 

そういうゲームなら頭は良くなるだろう_φ(・_・

 

いや、最初の問立てからかけ離れてしまったが、ゲームは実に頭の訓練において有意義にもなるのだ、という証明が完了してしまったようである…。恐らく、脳死プレイしているから詰まらないのだろう…。

 

まぁ、とは言え、訓練法は一つではないはずである。私たちは何事からも何かしら学ぶことが出来るし、あらゆる物事は幾らでも深い洞察を与えてくれる。

 

重要なのは逆説というものはゴールからスタートを逆算して目指すようなもので、実際に行われる場合にはきちんとスタートからゴールを順を追って目指さなければならない、ということである。

 

「過程で見いだされ得られるもの」が得たい場合には、少なくとも順序というものが重要である、と思う。過程を逆から追うのではダメである。少なくとも、過程を1(最初)から順に終わりまで踏まなければならない。