LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

なろうの気持ち悪さについて

気持ち悪いのに探してしまう「なろう小説」という矛盾…

最近は途中リタイアする作品が多いので、特に批評者として自分は本来、相応しくは無いのですが。という前置きをしてみる。いや、何にしても「相応」しくなければ、批評してはいけないということもないのですが。

 

さて、まずハーレム要素ですね。気持ち悪い。じゃあヒロインが一人でもキャッキャウフフしてるのは気持ち悪い。そういう共同体のあり方が気持ち悪い。

 

まぁ、どう気持ち悪いか、というのは過去に幾度か触れてるとは思いますが。ハーレムの場合言わずもがな、主人公上げの集団が形成される。他の男には見向きもしない。そのくせ、主人公は次々にハーレム要員を増やしたりもする。まぁ、これは「奴隷」所有系が流行った頃のものとも関係するだろう。要は本質的にハーレム要員というのは奴隷であり、主人の言うことに反してはならない。そして「自分たち」というグループが世界の中心と化す。そして、物語自体がその目線からしか語られることがない。「自分たち」こそが正義で、貴族だろうが王様だろうが「自分たち」より正しくない、というようなことを言う。

 

最近のなろうの過剰なタイトルにも表れているが「聖女より偉い」「勇者より偉い」「王侯貴族にざまあする」「実は隠されたチートでハーレム」等「権威者に対して如何に自分が優越しているか」という感じのタイトルが溢れている。

 

 

そこに表れているのは「評価されない自分」であろう。そして、権威者というのは必ずしも愚かではない。寧ろ、エリートというのは大抵は他者より長じている者である。例外的なのが政治等であろうと私は思う。「評価されている権威」より「評価されてない無名の自分」が実は偉い、優秀、凄い、とこういう感じのタイトル。要は社交界的なものの上でも無双する。

 

けど、それを満足に描ける作者がどれだけいるか、という話であり、畢竟、閉じたコミュニティの中の話として、語られる分には良いけど、世界が広がっている場合には、主人公が「ざまあ」するほど、頭が良い作品を見たことはあまりない。そもそも何かに「ざまあ」しようという発想自体が負け犬の発想である。

 

とはいえ「なろう作品」はそもそも「負け犬」の話であった。「負け犬」のやり直しの話であった。「負け犬」をどう調理すれば「救えるのか」という話であった。それを徹底的にやったのが『無職転生』である。『REゼロ』も同様と言える。そういう成長物語だった。

 

最近のものはそういう葛藤を失くしている。なぜかといえば愚かな主人公を書くことがストレスフルだからだろう。その結果、愚かな主人公が愚かなまま無双するという物語が量産されることになった。

 

中世王侯貴族社会等というものを設定すると、平凡な主人公がどのようなチートをもったところで、エリートと渡り合うことは難しいように思える。というより大抵は物理チートなので腕力で捻じ伏せられるだけだったりする。

 

最近読んだものでは、通りすがりに拾った哀れな女子高生が依存してきて、それに対して共依存してしまうものの、自分は外で無双している、というものがあったが。これは仕事している自分に対する専業主婦の相方のような対立では無いだろうか。仕事しているからお前より偉いというわけである。

 

非常に卑近と言わざるを得ない。発想が抑圧された自己とそれを解消する家庭というものに分かれている。それは前世紀的な家族観である。要は価値観が退行しているように思われる。強い男に惹かれる女という構図のハーレムでも良いが、そこにあるのは家父長制及び一夫多妻制というものへの退行である。

 

そうでもしないと自己肯定ができないような主人公には魅力なんてものは微塵もないであろう。そして「家族が大切」と宣う主人公も、要するにそこで自分がヨイショされるから「大切」というだけの話。「家族は自分を全肯定してくれる場所であるはず」という感じの考えが透けて見える作品が多い。

 

『REゼロ』でレムのスバルに対する励ましの描写から、レムというキャラクターが持て囃されることになったわけだが、スバルの夢というのは実に20世紀後半のイメージに束縛されているといって違いない。「家族」という概念が「情緒」という概念とか「本音」という概念だとかと理想的に結合しているのが日本の病気的な家族観だと想う。

 

「家族」というものは「他人の集まり」に過ぎない。と言ったほうが現状に近い。誰も私を肯定してくれないし、私の味方になってはくれないし、私のことをわかろうとしてもくれない。これが基本的には「家族」という概念の実際と内実だと思われる。

 

近代的自我は非現実的であり、理想の自己を追い求めさせるアイデンティティであった。言わば「近代的家族」概念というのも非現実的であり、理想主義をそこに求めたものと言えるだろう。

 

それはもはや21世紀にやるようなものではない。要は古びた価値観である。他人に自分を肯定して貰おうとしてもそう上手く行くものではない。夫婦間に関していえばこうなる。夫婦とは赤の他人である。ハーレムとは赤の他人の集合である。ここにおいて、各自依存的な態度を求められる。自分をあるいは自分たちを肯定してくれない相手は敵となる。そうした要求から夫婦というものを形成するのであればそれは必然、瓦解するのだと推測し得る。相手の自分への肯定を要請するためである。

 

そんな関係は歪だし上手くいくわけもない。アイデンティティをそうした不安定な場に望むことは賭博である。私のことを理解してくれる。分かってくれる。そういうことを究極に求めても、それは単に重い。

 

閑話休題

 

あと一つの気持ち悪さは「クズだから殺しても構わない」という理論である。なろうでは「クズ」は殺して良いことになっている。例えば野盗などは殺して良い。あるいは高慢な貴族であれ最終的には殺していいとか思っている。その価値観を要は転生した日本人なりという者が「慣れてしまう」ということ自体が冒涜的である。

 

更にいえば上述したような自己肯定感を自身が持たないような、ただチートだけ持っている人物が私刑的に敵を蹂躙する。そして、そのことが肯定される。まぁ、正直、ゲーム的なノリなのだと思うわけだが。戦争において3割の兵士がトリガーを引けない、という話を聞く。人を殺すというのはそういう問題である。個々の事例に対する善悪ではない。自身の信念の問題である。故に近代人は殺人を否定してきたのであり、故に裁きは法に委ねられる。死刑の執行もまた直接的な裁きを避けようとする仕組みである。

 

「なろう」世界でも大なり小なり法があるはずであり、私刑は見過ごされるべきものでは無いだろう。にもかかわらず「殺されても文句言えないよね?」という状況を作り出し、割と容易に主人公なりを超大量殺戮者にしてしまう。そういう主人公をよくみるが、自分の中で気持ちを飲み込んで終わり、となっていることが多く、外から指摘されることが少ない。「流石に無慈悲だろう」とか「やっていいこととやってはいけないことがあるだろう」とか、そういうことを言ってくれる人がいない。いないことで行為が正当化されていると考えてしまう。作者も話をそうした次元に広げようとしない。本質的に主人公が否定されるのを恐れるかのように。

 

まぁ、魔王とか魔族とか魔獣とか悪魔とかなら殺していいよね、という問題もあるわけだが。それは要するにゲームチックな小説であると言っていい。ならまぁVRにしておけよ、と思わなくもない。その辺の説得力をどうもたせるのか、という点に関して「なろう作品」が面白いか否かという点を左右すると思う。

 

ロトの紋章』に現れていると思うのだが、バトルものを描くことはそもそも難しい。内容が無いバトルものはすぐ飽きられてしまうだろう。畢竟、物語をよく編むことが必要とされる。『ワンピース』にみられるところである。物語の上に戦闘がある。戦闘の上に物語があるわけではない。これを逆転させてしまうと、作品は面白みを消失するように思う。

 

ただただ新しい必殺技を次々に繰り出し続けても、どこかの地点で白けてしまうのが普通だろう。だから、きちんとした物語を描くべきだし、その上で必要に応じて戦う等すれば文句はない。

 

要するにハーレムのための物語であるとか、戦闘のための物語であるとか「ざまあ」のための物語であるとか、そういう風に順序が逆転した場合、それはマッチポンプ的となり物語にならなくなっていく。

 

ドラゴンボール』が典型的であろう。バトルものが長期化するとバトルのための物語という形式に転ずるため物語性は失われる。