LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

一日自由に使える時間が3時間だとした場合について

ということを考えていました。

 

一日3時間を自分で使えるとしたら、1年間で1068時間使えるということですよね。過去のネトゲでは私は1年間で1500時間くらいプレイしてた訳ですが(´・ω・`)

 

まぁ、そう考えると、1000時間かぁ…とちょっと少なくね?と思う。1000時間と言えば、50時間くらいのゲームを20本プレイしたら終わるレベルである(´・ω・`)

 

一日8時間を自分で使えるとしたら、2848時間である。16時間勉強するという人がいるけれども、私は現実的じゃ無いと思っている。そもそも12時間位私は寝ている(´・ω・`)

 

二度寝しないとパフォーマンスが復帰しないので、私は基本的に充電完了までとにかく寝る。要するに体調が正常値に戻るまでは寝るのである。だから、調子が悪い日はもっと寝るだろう。

 

この時点で一日の1/2を使用している。食べたり飲んだりすれば3時間くらい使うだろう。そうすると残時間は9時間である。私の場合、実際自分で自覚的に有効利用している時間は3時間くらいだと思う。

 

そうすると、年に1000時間しか何かをしてないわけで。10年で10000時間、あと50年仮に生きるとすると、5万時間が私の残された時間である。(´・ω・`)少なくね?1000本のゲームをプレイしたら終わるレベルである。

 

まぁ、仮に一日16時間活動可能な人がいるとして、その人の残時間は284800時間である凡そ30万時間だ。その差6倍である。

 

…時は金なり

 

最近は15分単位で生活している。発達障害の思考はよく飛ぶので15分という短い周期にすることで、逆に集中しやすくなる。一日に15分活動するとして仮にこれを読書にあてる。一日10分読書する、という活動が昔学校であったが、似たような習慣である。

 

すると

1週間の読書時間は15x7=105=1時間45分

1ヶ月の読書時間は15x31=465=7時間45分となる。本を1冊3時間で読むとすると、月に2冊半読める計算である。1年間に読める冊数は30冊となる。ちなみに一日1冊読む人は365冊読む訳だが_φ(・_・

 

10年で3650冊読み、50年で18250冊読む計算になる。1万8千冊である。案外少ない。

 

まぁ、私の場合、6時間くらいかかることもあるから、そうなると15冊とかになってしまうわけだが。余談だが、Amazonセールで50冊くらい一気買いして積んであるので、一日30分くらい当てないと無くならないのだが…_φ(・_・

 

デフォルトマン(基準とする人間像)を考える

デフォルトマンという言葉が目に入って、その記事を読んだ。記事では、その人は「イギリスの中流階級より上」をデフォルトマンとして想定し、これに劣等感を抱く…みたいな話だった。

 

発達障害に関して使えると思い、この概念を借りてきた。この記事のように特定の階級ということは言わないが、そのときに話している(仮定された想像上の)人物像がデフォルトマンであると定義し直した。

 

そうすると、発達障害者が定型を語る時には、それが抽象的な人物であるとすれば、それは彼の「デフォルトマン」に関して言っているのである。「定型にも色々な人がいる」という部分は大抵省略されている。

 

この時、話し相手の相手側が健常者であるとするなら、彼が言う「そんな人もいるよ。辛いのは君だけじゃないよ」というのは彼の作り上げた「デフォルトマン」に関して言及しているのであり、私の話している「デフォルトマン」に対する言及ないのである。

 

通常は、互いの「デフォルトマン」はある程度、共通する。それは互いに同じ属性を持つ日本人だからである。健常者で右利きで男性で日本語を話し、同年代である等、も含まれる。

 

彼の「デフォルトマン」は私より能力的に同じか下かで人間のていを為している他の健常者である。それは障害を持つ者ではない。彼の「デフォルトマン」には、精神障害者は組み入れて無いからである。

 

畢竟、私と彼との会話の間には齟齬が生じる。私は普通の人というとき障害を持たない私の「デフォルトマン」を語っているのに対して、彼は彼の中の「デフォルトマン」に私を嵌めてしまえる、と殆ど無意識に考えてしまう。だから齟齬が生じる。

 

彼は私ではなく「私のような属性を持った仮想の人物」に関して考えなければならないところを、無意識に放棄しているのである。

 

この時、差別が生じているのだ。重要なのは、互いに「デフォルトマン」に関して語っているのであって真には「互いに関する話ではない」と了解することだろう。

 

私は健常者の「デフォルトマン」を仮想する。

彼は障害者の「デフォルトマン」を仮想する。

ここに議論の前提が形成される。

 

私が定型と呼ぶ時、これは定型の「デフォルトマン」を指す。

彼が私もと呼ぶ時、これは定型の「デフォルトマン」を指してしまう。であれば、それは私の「障害」の話をしているわけではない。したがって、私は彼の言う「デフォルトマン」から外して貰わねばならない。

 

あるいは、彼の「デフォルトマン」の中にその仮想の人物が「生まれながらに発達障害であること」を規定して貰わなければならない。ここに難色を示す人とは話しても無駄である。私を理解して特別な配慮を行う気が無いのだ。

 

「普通の人は◯◯で」というとき例えば「アフリカの黒人の子供」等が脳裏に過ぎる人はいないだろう。「私は違うから◯◯できない」とは「私の中の定型のデフォルトマンでは無い」ということである。

 

彼(定型の他者)は「そんなことはない」というが、彼の「デフォルトマン」に、この時、私が入っていると彼が思うことこそが偽りであり、間違いの元なのである。ここでいう私とは、私自身ではなく、発達障害を持って生まれてきた仮想の人物像の私のような者である。

 

私達はこのデフォルトマンに対して語らねばならない。私と彼が互いにどういったデフォルトマンを見ているのかということが「差別」の瀬戸際であり、相互理解の要の地点なのだ。

 

相手を理解する時には、相手の仮想人物像をデフォルトマンとして想起することだ。相互理解はここでは重要ではない。黒人差別の時に白人を理解しても仕方がない。黒人差別について考える時には「黒人のデフォルトマン」を用意して互いに「差別される黒人の仮想人物像」について共通認識を作ることが重要と思われる。

 

重要なことは、それがいつどこの誰のような人なのか。出来るだけ具体的に細かく要素を追加して、本当に相手の「想像上の人物像」と出来る限り近い人物像を描けているかどうか確認することだ。

 

例えば私はLGBTだからこう考える。と言う時、そこには「LGBTのデフォルトマン」という共通する人物像を描くはずだ。しかし発達障害の時にはこの意識が欠如する。「この人は私とは違うのだ」ということがLGBTという語に込められた意味から察するのだ。

 

発達障害者に対する時の過ちは、ここで彼が「デフォルトマン」とするのが発達障害者という属性を持たない、ことである。

 

彼はあくまでも「普通の一般的人間」を脳裏に描いているのであり、ここに過ちを指摘できる。LGBTを語る際に「LGBTの仮想人物像」を共有しようとするのが本来あるべき「差別」問題に対する姿勢である。

 

 つまり「発達障害を持つ仮想人物像」を共有しようとしなければ「そんな人もいるよ」論になる。それは同情を装った無知を晒しているだけである。

 

重要なのは問題を語る以前に、これから話そうとする話題に、認識の形に、差異があると確信することである。そして、その差異を話題の中に溶かしてゆき、命題に対する自らの共通見解(姿勢)が正しいかどうかを明らかにすることである。

 

LGBTの人間に語る時、私達は相手の立場に立って、自分だったら、と想像してみるだろう。同様に、

 

◯◯の人間に語る時、私達は相手の立場に立って、自分だったら、と想像して見るだろう。この時に、依拠するベクトルが相対的に変わることこそが重要なのである。問題に対して、属性を加えていき、ディティールを出来るだけ盛ることによって、問題と自分の認識との相対的な立ち位置が次第に適当な位置へ動いていくのだろう。

 

この時、動くべきは相手ではない。理論が相手であれば、相手は自ら動かないのだ。学びを考える時には、動くのは自分である。著者との認識の齟齬を埋める作業を行って初めて、自分がどのような仮想人物像を共有しているのかが分かるようになるだろう。

 

相手の「デフォルトマン」を仮定する…これが上手くなれば、相手の立場に立って対話が成立する。一方で、それが上手く出来なければ、対話は同じ目線(論点・視点・テーマ…等)に立てていない以上、成立しない。

 

 

 

 

自己と他者を分けれぬ社会

老後ということを考えると、人は惨めに死んでいくものなのだろうか…と思う。現代社会はそれなりに進んだ社会であるが、途上と言わざるを得ない。色々な問題に対する解決が今の時代のテーマかと思う。ICTの発展により、多くの人のニーズを満たすこと、が求められているようだ。

 

若いうちは、そういうことに考えが向かないから気楽にしているが、老いて自分で何も出来なくなっていく、ということは日々の生活のQOLが減っていくことを意味している。人は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という具合に、過去の問題は忘れてしまうものだから、苦難の道の途上に居る時は、その時の辛さ・惨めさ…そういう実は一時の感情が永遠に続くかに思えるだろう。特に老いて、再び賦活することが無いことが分かっていれば、重い荷を負ったまま沈んで死んでいくのかもしれない。最早、希望は無い。

 

そういう死へ向かう時間をどういう気持を持って生きていくのか、というのが人の課題の一つじゃないだろうか。老人の書いた俳句の中にはシュールさが滲んでいる。有終の美を飾ると言うか…朦朧とした状態においても確固としていられれば、それで死んでも良いのではないだろうか。

 

粋の哲学者というのをやっていたが、きっと意気地と諦めの中で死までの過程を生きるのが、イキな生き方なのでは無いかと思う。身体は重く、頭は痛い、目は霞み、耳は遠く上手く聴き取れない…そうした強いテンション(思考が肉体に引っ張られてしまう)と衰弱の中で如何に最後を迎えるのか…

 

迎えるというのは、招くということでもある。出迎えることである。死を出迎えるのだと思う。まだ生きていたかったと嘆くか、そろそろお迎えの来る頃合いか、と思うか。

 

まぁ卑近なことを言えば、それは精神衛生の問題と言えるだろう。イキの哲学の中で参考になるのが、意気地と諦めの中にイキがあるということである。複雑な状況の中でどう意地を張り、どこで葛藤を諦めて耐える決意を持つか…まぁ、そのような感じかと思う。イキというのは老人の書く俳句に滲むシュールさのようなものだろうか。厳しい現実をあくまでも喜劇的に振る舞い乗り越えてしまえるとすれば。

 

閑話休題

 

その前にやっていた番組では今の子が常に他人と繋がっていなければいけないような心境になっていることに対して「一人の時間を大切にしよう」という話をしていたかと思う。今の社会というのはスマホに支配されているのかもしれない。

 

テレワークなんていうのもカメラで他人を監視しあっている(繋がり合っている)。それは翻って言えば「独りで活動する」時間を奪っているのかもしれない。私は人の個性は「一人遊び」の中で発展すると思う。個人的な時間が、私と他者とを切り分けるのである。その中で私はわたし、あなたはあなた、という個の概念が形成される。個人というのは具体性の極地のようなものだ。抽象された時には共通点が関連性を持つが、具体化の特徴は関係が無くなっていくことである。つまり、SNS等で繋がり合い関係を持ち続けている時点で、個に至るような断絶する経験を持てないのだと思う。

 

SNSの問題は常に繋がり合わねばならない状況に追いやられること、自体のストレスより、独りの時間を独りで過ごす、という体験を奪っていることが決定的に人を脆弱化させるように思える。それは個性を剥奪すること…とさえ言えるかも知れない。

 

趣味はと聞かれると流行り事を答えるとか。繋がって、シェアして、Youtuberとかであくまでも他人に見せることで反応を貰うためだけにアクロバティックな/個性的なことをしてみせる…というように「自分だけの世界」を持ち、それを大切にする人が減れば、大衆は没個性化し個人主義は瓦解するのでは無いだろうか…。要するに、他人に媚びる人間ばかり増えるのではなかろうか。それはニ心を持っている、という風に捉えられる。「他人に対する私」ばかりが強調されてしまう。その中で私に対する私は狭苦しいものとなるだろう。

 

事実、言いたいことも言えないこんな世の中じゃ…みたいになっていると思う。本当は中傷したくても、言うことが出来ない…そういう部分で本心と世論との間に確執が生じる。自身の納得は他者のロジックで上書きされ、自身の言葉で、世の中を理解していく過程が省かれてしまう。

 

本来の流れとしては、失敗を繰り返す中で、徐々に弁証法的に昇華していくと思うのだが、他人から解答が押し付けられてしまう場合には、自己の中で噛み砕く、時間が与えられることがない。それは自分の頭で考える、という経験を奪っていると考えられるのではないだろうか…。

 

閑話休題

 

 

 

 

 

 

 

 

親を語る時、そのバックグラウンドを考える

発達障害者にとって、多くの親は毒親であろう。カサンドラでそうなったのか、親にも発達障害のような性質があったのかは分からない。

 

ただ現在において発達障害を問う時に、親に対する私達の非難は正しく機能しているだろうか。

 

私の親の世代は、19xx年の生まれである。だから、19年の後半辺りで成人しているわけである。そうすると、発達障害に関する情報は手に入らない。それが表に出てくるのは日本だと1999年頃の話である。

 

現代のように早期発見と養育でサポートするという時代では無かった。また、そうした常識も知識も無かった。自閉症というのは知的障害を伴うものがメジャーだったのではないだろうか。だから、発達障害は固い人、とか奇特な人という感じの「変わった人」として認識されていたのではないかと思う。当時は同調の時代で、みんなが中流階級になれると考えていて、年功序列が強く、少々使えない社員もそれなりの場所が与えられたりしていた。

 

それでも自殺率は高く、その中には同類が居たであろうことは想像に難くない。その時期の引きこもりというのは今よりも厳しい世間体に晒されていただろうし、世紀末的な空気も世の中にはあった。

 

けれど、それは一部の人の趣味であって大衆は右肩上がりの経済的成長と変わらない経済世界を信じていた。だから、将来は家庭を持ち、子供を作り3世帯住宅を作り子供に介護させ…という感じの家族観・人生観があったと思う。丁度、私が学生の頃に、就職氷河期とか右肩下がりの経済とか核家族化と言った概念が出てくるのである。

 

それはつまり私の親の頃の教育では無かったものである。それに何れにせよ、私の親は高卒である。当時は高卒で就職列車に乗り、サラリーマンをやって、子供は大学に行かせよう、みたいなノリだったのではないかと思われる。

 

将来に対しての考えは甘く、現実がそのまま続いていくことを幻視していたから、子供は一姫二太郎が良い等という絵空事を本気にして、家族計画を立てて、それなりに子供を育てようと苦労したが、結局その子供は発達障害で、普通に育てることは難しかったわけである。

 

過去を鑑みれば、そこには試行錯誤というかまぁ苦悩と戦いの日々があったわけである。けれども、例えばペニシリンが無い時代に、免疫系の病気に掛かるようなもので、解決の糸口を掴むことは容易ではなく、結果として厳しく躾ける、とか、愛情を注ぐとか、民間療法のようなレベルの対応をしたわけである。

 

その辺が毒親という所以であろう。過去の所業を許せないと思いつつも歴史的背景から已むを得ないと考えるのもまた正しい了解であるように思える。功罪という言葉があるが、まさに何れかと切り離すことが難しい問題である。

 

結局の所、私を救ったのは親の愛ではなく、時代の進歩と医学の進歩…そうした外的要因である。たまたま発達障害に関する進歩があり、私が発達障害だと感じて受診し、そうだった、という話である。

 

要するに、他者を計りに掛ける時には、その文化的背景も勘案しなければ誤解するということである。体罰が是とされてきた時代と現代とではその常識に開きがある。モラハラパワハラは最近の概念である。つまり過去には罷り通っていて、だからこそ、個々人に対する同調圧力が強く、パーソナルな問題は内に秘めたまま吐き出すこともままならなかった。だから自殺者が多かったと考えられる。

 

現代は科学においてもモラルにおいても随分進歩した時代であることをまず根底に置かねばならない。そのうえで過去に遡行した時に、現在の常識が一つ一つ欠けて行った時に、どのような社会像が浮かぶのか、ということが重要である。

 

どのような社会常識の中で生きてきたのか、ということが、その時代に生きた人を理解する上で大切な前知識となる。勿論、自分の親等に関しても、現在と過去を比較する中でどのような展開をして今の形にいたったのか、という想像力を働かせることが重要である。

 

ナチスが政権を握っていた頃、精神障害者は全員ガス室送りだったと聞く。その頃の常識と現在の常識には差があり、それに関する想像力が無ければ、その時代の人の思考をバカにして終わってしまうかもしれない。一方で限られた情報の中から最善を尽くそうとする人々の苦心もその中には顧みられるはずである。

 

人間を理解したいと思うなら、歴史を紐解く必要があるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

バイキング化というのを考えた結果(~放題サービス)

読んでいる本の問題でバイキング化出来るものをあげよ、ってのがあって、割と良い案が出たので書いてみる。

 

幾つかあるんだけど、その辺は割愛する。ずばり買い物代行サービスである。

 

ウォーターサーバーを例にしたんだけど、そこからペットボトルの毎月配達サービスに転用して、更に冷凍食品・レトルト・保存食品・缶詰・米といった品を月額◯◯円で配送して提供する。◯◯円は主に配送料・サービス料(選んで入れて計算する)となる。

 

そうすると独居でスーパーが仮に潰れてしまったり遠くても、コンビニとかスーパーでこういうサービスをしててくれたら、毎月配達されるもので食べてけるので良いと思う。何をどの程度買えるのか、というのはサイトで入力して毎月変更可能とする。まぁスーパーがこういうサービスしてくれて品物の料金はスーパー価格ってのが理想。配送料とサービス料を払う(月額◯◯円固定)。

 

ちなみに、そういうのが既にあるかどうかはこれから調べる…考える力を養うのがこのブログの真の目的なのだ…(´・ω・`)

 

 

ミニマリストを考えてみる

部屋に何も置いていない、っていうのをミニマリストというらしい。ビジネスホテルの一室…みたいな。TVで見たのは暖房使わない生活~とかだった。

 

SNSで見たのが、全く生活感のない、不動産屋さんで部屋の見学に行った時の何も無い状態、みたいなやつ。よく芸能人のお家見学みたいのでも、非常に綺麗でしかし生活感が全く無いというのがある。

 

一方で、ゴミ屋敷寸前みたいなやつが例えば「ウチくる」みたいな番組では良くある。それは要するに対極だと思うが。例えばADHDのような片付けられない人の部屋はそうなるだろう。一方で、行き過ぎた潔癖症みたいな人はミニマリスト的な部屋になってしまうのでは無いだろうか。

 

中庸がいい、と昔は何かと聞いたものだが、私も同意である。全くものの無い部屋は「帰ってきて寝るだけの部屋」みたいな感じだろう。私が見たものでは「ベッド」さえ無かった。床に寝てた。流石に嘘だろ…という話である。まぁ、嘘なのだろう。

 

断捨離というのも流行ったし、現在も実行している人はいるだろう。私はとりあえず書物は残しておこうかな、と思っている。確かに自分の生活範囲において増えすぎた物は減らした方が良いこともあるが、許される限りは残して置くと良いと私は思う。

 

まぁ、勝手に捨てられてしまったので幼い頃のものは残っていない。でもそれらは私の履歴書のようなものであり、今の私と切り離すことも出来ないものなのだ。それを捨ててしまう…というのは酷い話であった。

 

本なんかは増えてしまうものだが、今は電子書籍があるので、本に押し潰されるような家にしなくて済む。ただフィギュアとか玩具とかはそれなりに場所を食う。電子機器にしてもそうだ。ゲームソフトも溜まっていくが、これもダウンロード版にした方が良いのかもしれない。

 

古いメモ等は残しておいた方が、振り返った時に省みることが出来る。それらはアルバムのようなものなのだ。そうしたものを自分の中にあるからいい、問題ないという人もいる。

 

まぁ、ものには捨てていいものと捨てると勿体ないものと捨てていいものが存在する、という話なのかもしれない。デジタルで残せるものは残す、というようにバックアップはしておいて損はない。

 

 

知識が無い状態で差別の如何を問う

まぁ、主題は黒人差別に関してなんですが、私は深い知識は持っていないことを明記しておきます。じゃあ、書くなよって話なんですが、「何でもそれを語るには専門知識が必要」ってなって、論文100本読んでから出直せというのでは結局じゃあやめとくか、ってなって考えないわけです。

 

なので私としては「知識無いけど、考えて見るわ」ってのが自分のスタンスです。後で知識を得て認識が変わるとしても、今考えるのと後で考えるのと、何れも経験にはなるかな、と思います。

 

黒人差別は根深い、ということをある方のブログで知っています。ただ、ここでは、そういう歴史的背景は持ってこず「肌の色で差別するな」というシュプレヒコールを持ってきて語ろうかと。

 

私自身黒人差別はあります。なんとなく「怖い」印象。暴力的な印象を抱きます。ただそうでないタイプの人もいます。有名な俳優等ですね。私はまず外見で判断し、その態度で更に判断します。

 

見た目で差別するな、という話ですが、人は見た目で判断します。見た目で判断するな、と言うと例えば、相手が子供、女性、老人、盲人等の判断もするな、ということですよね。逆説的に言うと、そうした判断はしているし、する必要もあるということです。

 

勿論、そうした判断をしても、それはまずは私の頭の中に保留しておきます。必要がある時だけ、そうした情報を参照し、どういう行動をするか判断します。私から見て、白人・黒人というのは、まず「会話が成立するか」という辺りからスタンスが始まります。

 

黒人差別が朝鮮人差別と類似のものという意見を見ましたが、理解出来る話です。今でも外国からの実技研修生に対する現状にも、そうした差別を見ることが出来るかもしれません。

 

あるいは先日見た終身刑の老人達の話等も微妙な話です。別に黒人だから犯罪の話をしたわけでは無いのですが、彼らの場合、見た目ではなく中身を差別されるわけですね。犯罪者→その心理の異常さ、という類推です。黒人→暴力的傾向、という風に考えてしまう人もいるかもしれません。

 

とは言え、私は日本人でも怖そうな人は無理ですね。主に男性となるわけですが、暴力的な雰囲気がある人は無理です。所謂、男らしい性格の人も難しいですね。そうすると、私の接しうる人は軟弱だったり柔和な人、となるわけですが。

 

ガンダムで例えるとドズル・ザビリュウ・ホセイは駄目で、カイ・シデンガルマ・ザビはOKという感じでしょうか…。「この軟弱者!」って叱られるような人の方が私はシンパシーを感じます。

 

有名人で言えば、ボブ・サップみたいなイメージが威圧的な黒人という感じです。ゲームで言えば、FF7のバレット辺りも私は無理だなぁと思います。彼を見てアバランチってやばい連中なんじゃ…って私は思うわけです。要するにそこには黒人差別があるわけですね。まぁ、黒人の中でも厳つい人に対する差別と私は思うのですが。

 

日本人の中ではそういう暴力的なステレオタイプと、ファンキーなステレオタイプが主に存在すると思います。まぁ、主に後者は、山寺さんの演じる黒人ですね。なんかジーニーみたいな。

 

まぁ、そういうわけなんで私は「男塾」みたいなのや「龍が如く」みたいなヤクザっぽい人は普通に差別します。日本人でも日本人に差別するわけですね。そこには黒人に似たものを感じます。要するに、反社会的であるような雰囲気を感じると駄目、みたいなやつですね。

 

じゃあ、反社会的な人物に対して差別は良くないよ、といったらどう反応するでしょうか。そうだな、と思うか、いや差別はすべきと思うか。警察ならプロファイリングするでしょう。そういう傾向がある場所は洗うし、人を穿って見るでしょう。コナンだって、見た目でものを判断しています。

 

問題は黒人に対してそういう傾向を読み取った場合です。黒人だから差別したのか、犯罪係数が高いから注意して身構えたのか。件の黒人は犯罪歴がありましたから、そういう虫眼鏡で見られても仕方ないのかな…と思う部分がありました。

 

勿論、そこから人種差別問題に行ったのは飛躍しているのかもしれません。黒人を結果的に死なせてしまった白人が、彼を人種差別したのか犯罪係数を測って対処したのか、それによっても、事件の見方は変わるはずです。最初「反抗的だった」というような情報も耳にします。

 

そこから暴動に発展し、被害者の弟という人がデモに対して声を挙げるまで、色々な人が勝手をしたわけですが…。まぁ、リアルの炎上という感じですね。一方で同じ白人に対する警官の暴行というニュースも私は見ました。警官の性質の話なんだろうか…という気もします。警察の中にも、やはり暴力的な雰囲気の人はいますし、私はそういう人はやはり無理です。

 

私は正直、朝鮮人と黒人が同レベルかと言われると、どうかと思います。また韓国と北朝鮮でどうか、と言われればまぁ韓国かなとも思います。韓国人と黒人なら比べられるのかもしれません。ただ韓国の国としてのスタンスは友好的では無いんだろうな、と思います。そういう意味で黒人が白人に対して対等であろうとする(国柄だと思う…)のに対して、韓国人はどうなのかな、という感じもあります。

 

まぁ、そういう大きな枠組みの差別は兎も角、日常レベルで言えば、分かり合えない人や、分かり合おうと思えない人はいるし、彼らと対等になろうとか理解し合えるとは思わないので、私は差別を語る資格ないかな、と思います。

 

人種差別←抽象レベルの差別の話

個人に対する差別←具体レベルの差別の話

 

という違いですね。抽象化というのは具体化からある要素を削ぎ落として成立する概念です。取り除いているのは個人レベルの性質でしょう。なので人種差別問題を語るなら、個人レベルでの差別も視野に入るのかもしれません。私は関わり合いになりたくない人には近づかない、ことを決めています。

 

駄目な人には近寄らない、これが真理だと思います。ただ現実にはそれが家族であるとか、近寄せてしまう要因があって、関わり合いになってしまう、という感じの不可避なことが多いです。

 

例を挙げれば「学校」「勤務先」等です。それらは「触らぬ神に祟りなし」とすれば近付かないで居られるかと言うと、近付かざるを得ないわけで。

 

そういう状態に対しては医者のような方々のセオリーを教えて貰うのが良いのかな、という気がします。特に精神科医は難しい患者でも対応しなければならない、という状況が不可避でしょう。

 

彼らの対応のエッセンスが学べれば、不可避な人間関係に関して、有効な対応と対策を考えることが出来るかもしれません。

 

私の黒人差別は具体的なものかな、と思います。同様に、具体的に人種差別している、という人もいるでしょう。結局のところ、オール・オア・ナッシングでは無いので、選り分ける必要がありそうです。