LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

サイコパス2期終了感想

道中はさておき、最後は綺麗にまとめてきたなという感じ。まぁ、落着点を決めて制作したアニメなんだと思った。

シヴュラが自身を含めて裁いていたのは、犯罪係数がオーバーした脳を断罪した、と見て良いのか・・・。その辺が分からない。殺されたカムイ君の脳を取り込んでた?みたいな気がしたけどじゃあ気のせいかな。

集団を裁くという結果になったら茜ちゃん責任取れんの?とか言ってたけど、茜ちゃんは一緒に地獄でも付き合うよって言ってたけど、それって時が来れば自分の脳をシヴュラに取り込ませるってことなのかな。シヴュラシステムと法とは別と茜は考えてるのかな。シヴュラ法>シヴュラシステムであるということかな。サイコパスで裁くこと自体を許諾しているのか、あくまでそういう法律だから従っているのか??第二期の話ってのは突き詰めて言えば

システムであるシヴュラが矛盾して機能不全だったので正しました

ってことだよね。ということはシヴュラの概念自体を茜は肯定していて、そのシヴュラ法に自分は則ってますよ、ということ?作中で感じるのは、法律守る=正義みたいなだけなんだけど、それがシヴュラ法というこのSF世界の基幹を指して言っているのか、人間が定めた法だから守るよ!と言っているのか分からない。

シヴュラ法の概念が正しくあれば秩序は完全!→茜

シヴュラ・システムがOKと言えばOK→霜月ちゃん

という構図なのかな。何れにせよ歪んでると思うけどね。法律も変えられる訳で。まぁ、茜ちゃんは概念に基づいて正しい警官・裁判官をやっていて、霜月ちゃんは現場のマニュアルに乗っとってやってる、という感じだろうか。過去の判例に無いから裁けません、みたいな。

でその上で己のエゴとどう向き合うかみたいな話で、法律を破ると黒く染まっちゃうのかなーという理解をしている。茜のエゴ=法の中で出来るだけ救ってやりたい。霜月のエゴ=エゴを通そうとする茜を危険視。要するにエゴを通すなというエゴを通そうとしてる子なのかな・・と。原理主義者だよね。

まぁ、あくまでも法の許す範囲で自分のエゴを通しましょうよ、という立場なのかな。でシヴュラは法を犯したからお前裁くわ、と。そんな感じだろうか。

その結果、大量虐殺をせざるを得なくなったらどうするん?→その時はその時でしょ。その時は私も付き合うから呼べよ。まぁ私は人類を信じてるからb!→あれ?・・・うん。テンプレだなーと思った。人類を信じてるってのはお約束の台詞だよ。

逆襲のシャアだよね。アムロ「俺は人類の可能性を信じている!」と言いながらアクシズをひょいって・・・。まぁ、いきなり隕石落としするのもなんか過激だから良いけどさ。

ただ現実にIS〇Sのこととか見ると、あぁいう集団はそれこそ隕石落としたら?って思っちゃうかな。話しても分かり合えないからね・・・。紙とペンを用意してる間に吹っ飛ばされるからね。なのはさんクラスの戦闘能力が無いと無理だと思う。「ちょっと頭冷やそうか・・・」と。冷えるかどうかは分からないけど。

原理主義とかは、とりあえず一人でやってて欲しいな・・・。巻き込むなよ、と。映画で人類は野生に帰るべき!って言って、一人サバイバルするのがあるけど、一人でやって死ぬ分には良いと思うんだけどね。無謀なことに付き合わされるのはちょっと。私も一時は「人は原始へ還れ!」って思ってたけどさ。うん。気持ちは分かるんだよ。あの映画の少年の。

でもね。結局は人工的な手段にしたって自然の営みに包括されてるわけだと思う。私は。人工的ー自然的という二項対立を作るけど、そもそも二つは分けられないわけで。どうやったって、全て自然の中のもので賄われているというのが事実。科学的なアレコレを使っていたとしても。人間が人間を殺したり、環境を破壊して、星を住めなくしたとしても、その事実自体自然に包括される。人間を産んだのは自然だから。そして自然を人間は超越し得ないから。寿命がどれだけ伸びても宇宙が滅びたら人間は死ぬだろうし。その前に太陽辺りの寿命が尽きたら詰むと思うけど。

自然だから=良いという訳でも無いというのは映画で分かりきっていると思う。それと同じで人工的だから良いとか悪いという訳でもなくて、それらは私たちが経験や頭を使って考えて分別して選んでいくべきものだろう、と。だから自然=良いもの、という論理は結局、現実から目を背けて思考放棄したいだけなんだと思うんだよね。

いやね。漫画やアニメみたいに、それは弱さだ!バーン!って跳ね返せるか、というと、実際はそういう訳には行かない。高所恐怖症の人が高層ビルの屋上からバンジーさせられたら身が竦むと思うんだけど、身体的な反射というか、生理的な反応というかね・・・そういう耐え難さが実際襲い掛かってくると簡単に打ち負かされるものだと思う。我が身にならないから、弱さだ!吹っ飛べ!ドッカーン!って出来るような気がするだけで。関節極められたら我慢じゃどうにもならないから強靭な格闘家でもタップするんですよ・・・。身近な話をすると鬱系な本や漫画とかね。読むに堪えなくて読めなくなるものってあるし。現実から目を背けて思考放棄したいだけと言っても、その衝動や耐え難さというのは「だけ」と言い捨てられるのは言葉だけを捉えているからで、実際に生身に圧し掛かっている感情や感覚や欲動を理解しないと分かってあげることは厳しいかもしれない。

裸族みたいな人たちがいるし、女性のトップレスを肯定すべきだという派閥の人とかいるよね。あれも自然肯定派なんだと思うけど、実際は自然を言い訳に使ってるだけなんだろうと思う。その言い訳に騙されてる人が大概なのだろうけど。私がヌーディストを嫌っている訳では無いけどさ、多分萎えると思う。

開放感とかはあるんだろうけどね。正直そういう世界はそういう世界で羨ましい気はする。一方で初心っていうのは結構得難い資質だと思うんだよね。女体に耐性が無いということは、それだけ興奮出来るんだからさ。逆に見慣れてしまうと「ふーん。それで?」ってなるわけだし。あと女性の恥じらいとかね。恥じらうから可愛いんであって脱ぐことに慣れてる子とか私は萌えないので。若干あられもなく脱げてしまえることに羨ましい気持ちはありつつ同時に何か失う気もするんだよね・・。感性とか。

少なくとも私の生きてる現実では、その辺を恥じらう空気があるからこそ良いというか・・・。芸能と現実とでダブルスタンダードな世界に生きざるを得なくなって少なからず混乱するんだろうけど、例えばね、乱交パーティ=リア充とかさ・・・それは無いなと思うよ。彼らは私には羽目を外した馬鹿にしか見えなかったし・・・。私は少なくとも周囲が性に奔放過ぎたら引くかな・・・。多分それなりにまともな?世界にいたと思うんだけど。ちゃんとお付き合いしてからプライベートでそういうことはしましょうっていうね・・・。まぁ、まともって何だろうね・・。

女優の菅野さんが脱いだ時に泣いちゃったらしいんだけど、そういう感性とかさ・・・捨てちゃうと思うんだよね。泣いちゃった菅野さんの感性は素敵だと思うけどね。普段からヌードモデルとかしてたら泣かないと思うし・・・。感性が違っちゃってるからさ・・・。そうやって色々スイッチが切り替わっていって、子どもや大人とか立場の違いから分かり合えなくなっていくんだろうなー・・・と思いつつ。

まぁ、それも宗教チックな話だと思うけど。スイッチが切り替わるように常識が変わってしまうから元に戻れないと思う、というね。それを可とするかどうかという話なんだけど。何でも経験すればいいか、というと、そうは言えないと思う。麻薬とか殺人とかね。一線を越えてしまうと戻れないような経験は、すれば良いというものでは無いと私は思っている。

中東辺りの情勢はキチンと決着付けないとホントきついと思う・・。聞いてるだけで具合の悪くなる現実だなーと思う。だからこそ巻き込まれていない内に対応した方が良いよーと。頭の良い人たちは、あの辺の決着の付け方って・・どう考えてるんだろう。