LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

否定

あらゆる努力に意味がなく

永遠に空虚で

他人と交わる道などない

あらゆる感情は私に伝わらず

故に他人にも響くことはない

叩く壁は音がせず、向こうへサインは伝わらない

だから壁を叩く行為に意味はなく、何れ誰もが叩くことをやめる

響かない壁を最初は面白がるが、後にはつまらなくなり、そして去っていく

私に届くべき音は、私にも誰にも届かない

目の前に一枚の壁があって、それは不可侵で、誰も通ることはできず、取り除くこともできない

東西を二分する壁は死ぬまでそのままで、互いの顔を見る術がない

東には私一人で、西には沢山の人たちがいる

私は遠くから指を咥えて見ていることしか許されない

参加したらと問いかけられるが、横たわる絶壁を越えられない

参加したらと問いかけられるたびに、私は壁を登ろうと試み、そのうちに疲れ果てる

私が蹲っていても、参加したらと問いかける声はやまない

私が壁をよじ登ろうとする姿さえ壁に阻まれて見えないのだから仕方ないのかもしれないが

そのうちに私は何もかも諦める。参加したら、という声だけが私が一人蹲る広場に時々響いてくる

そうして何千何万という夜が過ぎ去った

人々の笑い声や、参加したら、という声が時々聞こえ、壁が登れないのだと言っても壁の向こうには伝わらない

壁を見上げてみる日々にも声をかけることにも、絶望して、うんざり、

私が耳を塞いでも、楽しそうなその音を遮断することはできないようだった

私はやっぱり広場で一人座っている

色々調べてみたけれど、永遠にこのままだろう

それはまるで砂漠の果ての井戸の底に一人取り残されたみたいで

井戸の底から見上げると、蜃気楼のオアシスが見えるのだ

井戸の壁は高く、つるりと滑って、あがることはできず、

うまく魔法で隠されて誰も訪れることはない

助けを求めてみるのは容易だが、蜃気楼の幻影に助けを求めても無駄だ

叫べば山彦が返ってくるが意味を持たない反響に過ぎない

そんな毎日は昼間の喧騒より夜の静寂の方が私には優しい

夜には手の届かない幻影は見えず、星が見える

陽は落ちて、闇に閉ざされるが、幻もまた消え失せる

決して登れないだろう壁も闇に隠れ、星の光だけが遠く見える

私にとっては昼より夜が、光より闇が優しい。

太陽の熱に無差別に焼かれるより、冷たい月に無視され遠くに見る方が良い

排他の苦しみより孤独の苦しみの方がマシである。

あるいは生より死の方がマシだろう。

生の時間の半分以上私は死の夢を見る

否定されるべきものを好み肯定されるべきものを否定する

そんな矛盾した私の行動を私の理性は肯定する

他者は

否定するだろう 否定されて生きてきた

私が狂っていても良いが、私は私の味方をする

自分の思考を疑うことは混乱を招くからだ

それこそ発狂の原因だろう 他者に理解されないから自分が間違っていると言い

私を否定して 他者は尚も私を否定する 私が私を否定しても 他者は私を肯定できない

私は自分が間違っていると言い、それでもまた否定される

自分が間違っているという自分もまた間違っているといわれ、その自分も間違っているといわれその自分もまた…

そうやって何れ気が狂うのだろう

自分の中に異質な障害物があることは私以外に理解されない

カサンドラ症候群とかいう症状があって、カサンドラは誰からも理解されない預言者だそうだ

誰もカサンドラの存在すら信じないのだ

信じられないからそんなものはいないと否定を繰り返すばかり

私も他者も誰もがそんなものはいないと否定を繰り返すばかり

繰り返し繰り返し

そうして馬鹿みたいに何十年も過ぎ去って

自分の頭くらいはとりあえずまともであれと漸く自分を信じることにしたのだ

狂ってたら狂ってたで構わないが

それはそれでうんざりするだろうと思う

神様はきっと私が嫌いなのだろうと思う

それとも前世で何をしたのやらとか…?

生は原罪だと言って、キリスト教に転向でもしてやろうか

はぁ

孤独を良いという酔狂ではないが、まだマシなこともあるのだと知って欲しいと思っている

世界は広いから誰かと分かり合えるはずだ、と信じるのも結構だが、

誰とも分かり合えない人もいるのだろうと考えて欲しいと思っている

それが狂った殺人鬼や犯罪者ばかりではないのだ、ということも…

例えば物心ついた瞬間に死んだり、四肢が欠損したり、成功を掴んだ瞬間に死んだり、人間じゃなくてアンドロイドだったり…

私はそんなに悪いことをした覚えは無いが、別に罪が無くても残酷な運命が自分に覆いかかることもある

まぁ、自閉症の結果招かれる予定調和のカサンドラ症候群による家族の絆破壊に身に覚えがあるとしても、

そんなものは不可抗力だろう、きっと。

その気がなくとも

存在がそのまま他人の不幸となることもある

だから

生まれてきた意味が無いとか

生まれてきたことが害悪だとか

生きていても誰かの負担にしかならないとか

そういうことを否定できない

だから私は死ね

死んだ方がマシだ

という理屈を否定する根拠もない

なら死ねばいいのか

そこから先は我儘で生きているだけだろうと思うのである

生きていくということはエゴである

・・

だから生きていても良い

そもそも誰かの許可が無ければ生きていてはいけないのだろうか

まぁ、そういうこともできる

社会の許可があって生かされているのだから?

死ねと言われれば明日にでも死んでしまうだろう

けれど、一応言っておくと、みんな生きてる価値なんてないのである

人間なんて今すぐ滅びた方が他の動物のためだろう

けど、宇宙全体からすると意味は無い

誰が生きて死んだところで意味は無い

だから、別に生きても死んでも良いのである

私が生きている専らの理由は、

今地球上で生きている誰かしら他人の迷惑になるという程度で私は死ななければならないのだ、

という理由付けが単に不服であるからだ。癪に障るからである。

私は単に他人という存在が嫌いだから、そんな人のために恐怖や痛みを被って死んでやる謂れがない。

好きな人や大切な人のために命をかけるとかなら良いのだが、見知らぬ他人のために死ぬなんてのは詰まらない。

生きてても苦痛だろうとも、そういう形で私には生きている価値が無いから、とは言えないのである。

今時、匿名の社会のために死ぬ人間がいるだろうか。なのに私に死んでほしいと言われても。

死んでほしいなら安楽死や身辺整理のサービスくらいつけて欲しい。

せめて病院のベッドの上で安らかに綺麗に死ねるなら考えてみても良いくらいには死にたいと常々願っている。

そういうものを付けられずに追い詰め続けられて耐えきれずに惨たらしく汚らしく潰れてくれることを期待されても困るのである。

私が死んでも誰も困らないだろうが、唐突に死ねば後処理には誰かしら余計に困るだろう。死んでくれと言うのなら歩み寄りは必要ではないだろうか?

そのくらい社会が譲歩してくれるなら死ぬことも吝かでは無いと思う。

ただ今の社会はだめだ。尊厳死に対する人権意識が欠けてる。

死が即物的でそこに人間的な名誉や尊厳への感性が欠損してきてると思う。

生きてりゃなんでもいいでしょ、ってのは貧困なものの考え方だ…。

自尊心を破壊されれば人間が自殺に追い込まれるってことをよく考えてほしい。

ま、とりあえず散骨できるように手続きした後じゃないと死にきれない。

もはや、詩じゃないが…

発達障碍者カサンドラ症候群を自ら発症するのだと考えた方が良い気がする。

そういう話をまだ耳にしていないが、どこかには指摘しているものもあるんじゃないだろうか。

wikiでは専ら障害者に関わる人間側の話で、対処も避ければ良いと言うのだが、

発達障害者は避けようがなく、しかも社会参加を求められるので二次障害に追い込まれるのだ、と思う。

引きこもることを認めて貰えなければどうしようもない人もいる、という理解が少なくとも私の周りには殆ど見受けられず、

他人と関わることが良いことだと信じる人が多すぎる。

カサンドラ症候群の譬えでASはワシだと良い、シマウマである普通の人と長く時間を共にできないというが、それは関わるだけでも負担になることを意味してると思う。イルカを陸に揚げるようなものだ。ちなみにワシとも長く同居はできない。本来関わらない方が良い。具体的にいうと情緒の交換を要するコミュニケーションに参加させるのはそもそも負担でしかない。腕の無い人に手芸をさせる時間を作るようなものだ。発達障害の障害を優しさで何とか出来ると思い込む民間療法的考えがまだ一般的だと思う。

社交が必要だと言ってるのは私から言えば健常者側が偽善で心を満たすために言っているだけである。ワシとシマウマがわざわざ交流する必要はない。トキを動物園で保護してトキのためにやってると言いながらトキは天井にぶつかって死ぬ訳である。外に出られないだけなら在宅の仕事でも作ってくれた方が良いだろうに、外に出なけりゃいけないと言い続けている。

彼らはそれが当然だと思っているが、そんな当然は健常者のエゴである。イスラム過激派と手をつないで笑顔で微笑みあって自分が考える神について意見交換してきたら良いと思う。それも定期的にやった方が良い(と健常者は言う)。互いに健常者なら人種が違ってもきっといつか分かり合うことが出来るはずだ。

私には、そもそも情緒を理解するためのセンサーが備わっていないそうだ。にも拘らず、似たようなことをやらされ理解しろと言われてもとりなしに疲れるだけだ。異宗教同士が能力があっても分かり合えないのに、そもそも能力が無いのに分かり合えるはずもない。理解しようという気が無い人間にコミュニケーションを無理強いされ続ける程、苦痛なことはない。そして、そのことを説明しようとすると「これだから精神異常者は困る」と婉曲に言われるわけである。彼らは自分が異常だと思っていないから…。

「狂人は自分を異常だと思っていない」という言葉があった。例えば、震災ではき古した靴を被災者に贈った人々も指摘されるまで自分を異常だと思っていなかったわけである。戦争のころ、戦争に加担した市井の人々もそう。別に脳に障害があるから狂人なのではない。認識が足りていないという無知と妙な思い込みで原因なんて十分である。例えば所謂サイコパスである必要も無い。普通の人は犯罪を犯さないと思いたいだけである。ネットなんかでは主に在日やらアスペやらのせいにしたいようだが…。

正直、発達障害者はその障害から精神が二次障害で悲惨な状態になりやすいので、おかしくなりやすい、ということはあり得るとは思うが逆に言うと発達障害がメインで事件を起こすわけではないだろうと思っている。なんというかある意味では発達障害というのは耳が聞こえなくなって、相手の表情や身振り手振りが見えなくなるようなものじゃないだろうか。生まれてからずっと。恐らく五感に類する機能が害されてる感じというか。二次障害は健常者でも条件を満たせばなり得るのだろう。

発達障害者に対する理解が足りていないと私は思うし、特に障害者支援の場に心理の専門家が少ないのは問題がある。しかも、学歴のそう高くない人がこういう場に来ることが多く、そうなると素朴な感性で障害者を見るので、内部障害に対して知識をもって当たらない。身体障害者だろうが精神障害者だろうが知的障害者だろうが障害者という一括りにしている節が見て取れる。正直養護学校で見たお母さんたちと同じレベルの人が多い。愛情より知識の方が重要である。愛情は花。知識は団子。

発達障害者は異星人や異文化人と例えられるが、英語の知識が無い人が英語圏の交渉に当たらされているようなものである。その上、相手の方が優位なので発達障害者側が何かと不利益を被りやすいのである。私が(やんわり)精神異常者扱いされるように。別に言葉にしなくても不愉快さをアピールされれば伝わる。気づかないと思ってる人もいるようだが…。知的障害者はそんな感じで馬鹿にされるのだろう…。なんか前にそういう事件があったと思うが。発達障害者も正直、そんな感じに舐められている…。そして、同時に普通扱いされて障害のせいにするな、みたいな扱いを受けることもある。都合よく無理解に振り回されるわけである。

発達障害者は精神異常者ではないらしいが、一般人の中では同じ括りである。実際にあうと普通と愚者扱いの間をいったり来たりする。関係者の都合が良い方向で。それは曖昧な知識と無知からくるものだろうが理解を促す意味は無い。対等に話すのは彼らのプライドが許さない気がする。障害者は可哀想でなければならないのだ、と。生徒が教師に教科の内容について対等に意見しようとするようなもので、鼻で笑われるのがオチだ。そういう意識がどうも一般的で私たちは理解されないという状況に甘んじ振り回されなければならない。

前にゴミ屋敷の住人がtvでクレイジーだと笑いものになっていたが、あれを精神障害の疑いがあると感じた精神科医がいて苦言を呈していたが放送倫理の協会だかには取り合わられなかったらしい。恐らく彼はADHDで正直自閉症発達障害と近似だが障害と名付ければ可哀想で、そうと分からなければクレイジーで笑いの種にされるのだろう。

基本的に私たちを支援の場で可哀想と思っている人は、同時にtvを見てクレイジーだと笑える人でもあるのだろうな、と私は思う。そして、彼らはそんなことはないと耳を揃えて言うだろう。実際にそう思っているかもしれない。本質に違いが無いのに違いがあるはずだと思っているから。よく考えないと分からないレベルの話だから。あまり考えない人というのは自分の反応の仕方に言語的な説明も一々つけたことがない。少なくとも私はそう思う。健常者は発達障害者ほど日常を疑問に抱かずに過ごしているので、自分の感覚を一々言葉で説明しようと試みたりしない気がする。悪く言えば大雑把で細かいことを気にせず繊細さに欠ける。よく言えば、細かいことを気にせず生きていける。

私はそういう状況では精神が耐えられず、狂う人間も出てきて当たり前じゃないかと思う。犬や猫がストレスから問題行動を起こすのが当然であるように。人間は犬猫と同じである。環境が十分で無ければストレスでおかしくなる、というのは。カサンドラ症候群のwikiを読んでほしいがこれは健常者が陥ってしまう症状だ。私は同様に発達障害者も陥ると思う。自分の障害が原因で陥るのは避けることもできないし馬鹿みたいに思えるが馬鹿みたいな酷い障害なのだと思う。

この障害のせいで人生の楽しみの大半が犠牲になっていると思う。ある心理テストによると私は惨めであるらしい。

そう客観的に言われるほど酷い。