嘘か誠か…という風に私は物事を測ることが多い。
他人にしても正直か偽りかみたいな。
ISI○は嘘か誠か、シール○は…。
彼は間違っていると言う時、彼は出鱈目を言っているわけでは無い(もちろん、そういう場合もあるだろう)。
彼にとってはそれがありのままを伝えたのだと思う。
一つの客観的な事実を観測する(描写する)時、我々は全てを見通せない。
主観的事実A
主観的事実B 客観的事実 主観的事実C
主観的事実D
万事が万事、このようになっていると思う。
物事は三次元的で、我々の認知は二次元的である。
一つのリンゴをキャンバスに描くとしても一度に全てを描写することはできない。
月を見る時、常に見えるのは表だけであるように、裏側を覗くことは容易ではない。
私というのは、主観的事実ABCDの何れかに立っている個人である。
意見が対立する時に起こることは、大体この立場の違いから起こってくるので、
他人の立場に立ってものを考えるというのは、Aに立ってる人がBとかCとかに立ってみることを指す。
それは物理的な移動である。
立場自体を物理的に変えなければ他人の境遇は見えない。
自分から見た他人は幾らでも「そのまま」で見えるが、他人から見た自分は「そのまま」では見えない。
他人に同情するときには、大抵、前者の、自分から見た他人に同情するわけである。
世論の形成も、そうした自分の立場を替えてみようともしない同情から形作られることがとても多いので、
実際には他人の視点になってものを見ようとすること自体殆どなされないだろう。
立場を入れ替えるということは中々難しい。
けれど、他人を理解しようとするなら、そこまでトレースしなければその人に迫れない。何が見えて何が見えないのか、というその人のカメラの写す光景(主観的現実)を想像しなければ、「自分から見た他人」を延々と語って知ったような口を利くだけに終始する。それは観光旅行みたいなもので、住んでみないと分からないことが多いのである。
勿論、容易ではないし、やりたがる人間も少ないと思うし、そのように思い遣れと主張するわけでもないが。
他人と自分の違いを想像するときには、そうした観点を持つと有効だろう、という話である。
でないと変な人間、自分とは違う人間、頭のオカシイ人間、常識の無い人間、…関わらないでおこう、で終わりである。
別にそれも個人の自由だが、私は私と異なる人間が周りに9割くらいいるらしいので多すぎて辛いし、そういう事情からも他人に対する想像力を持ちたい。他人が何を考えてそうしているのか理解したいので、まぁ、こういう風に考えている訳である。
分からない、という問題はしばしば致命的である。そうした問題を少なくしていくこと自体がストレスを減らし、あるいは対応を可能にし生き易さに繋がる。特に発達障害者にとっては。
相手が何が分かっていないのか、が分かれば、フォローできるし、相手の立場に立ったことで、自分が間違っていると気づくかもしれない。
現実の話を持ち出せば、欧米の捕鯨に対する見方、日本の説明下手さは、何れにせよ両者共、他者の視点が見えていないのだ、と感じる。