私は両親に対して複雑な感情を抱いている。
私の両親は私を愛してくれようとしたようだが私が発達障害だったために上手くやれなかった。
彼ら自身も私から見れば発達障害的な部分があり、私の社会不適応とそれらの摩擦が関係を悪くしてしまった。
例えば、エジソンは子供と機械の素晴らしさを共有しようとして出来ず、関りを諦めたようだが。
エジソンは子供と関わりたいと思ったのだが、価値観を共有できず、彼自身が妥協できなかったため、
それができなかったわけである。
最初から愛そうという気が無かったか、というと、そうではなく、試みが上手くいかなかったのである。
子供が親から、愛されていない、とか、愛されなかった、と思うとき、自分や親の不能力、欠失が問題であることが多い。
私が他人とうまくいかないとき、それは私の発達障害に起因することが多い。好き嫌いとか、善悪の問題ではなく、やり取りがスムーズでなくて、非常にストレスを感じることが忌避する原因になっていると思える。性格の良し悪しではなく、その忌避感が嫌いの感情である。
インターネットゲームが通信速度の問題で途切れ途切れであるとき、ゲーム自体が悪いのだと投げ出すような感じである。関わることに耐え難さを感じる。親子の好き嫌いも、そういった気に障る耐えられないノイズが問題で生じることが多いと思う。
愛のあるなしよりも問題であることが多いのは、互いの間にある耳障りな通信障壁である。それは互いに異宗教であることが原因であることが多く、何れの主張も互いに対して「改宗しろ」と要求するものだろう。キリスト教徒とイスラム教徒が同じ家の中で暮らしているようなもので、互いに顔を合わせる度に「私のルールで生活すべきだ」と主張し合った結果、互いに関係が悪化する。
親は隣もキリスト教徒だから改宗するのが当たり前だ、というわけである。さて、ここでエジソンを引き合いに出そう。彼は「私のように君も機械が好きであるべきだ」という主張を変えられなかった。彼には社会から認められているという正当性があった。けれど、その一面の事実に対する思い込みのために、子供との関係は上手くいかなかった。
私が思うのは、この例では「宗教的多様性を受け入れられないという価値観」が悪いのであって、親自体が悪いわけではない、ということである。勿論、悪の否定とは無であって善にはならない。だから「親が悪いわけじゃなかったんだ…」と言ったところで「親が善人だったんだ…」と勘違いしてはいけない。善良であったかどうかはまた別の問題である。
昔は出来ちゃった結婚が非人間みたいに叩かれた時代もあったし、その頃の人間ならそうした他人を軽蔑しただろう。その時代の人間の世俗の社会常識がどうであるか、ということと、子供に対する見方は関係している。良い親・悪い親というのは自分と親の宗教的価値観の差異の問題と関わり合うことが多い。
何かのスレで見たが、昔は障害者が生まれると産婆が絞殺したらしいが、そういう時代に生まれていたら、親にもやはり私は殺すべき存在として見られることもあるだろう。そうした関係は、今の世の中で、引きこもりやニートがごく潰しで死ねば良いのに、と思われるのと同じである。子供であれ誰であれ親からすれば社会不適合者は死んで当然で軽蔑されるべきだ。とまぁ、必ずしも、その人の社会常識から特別枠で大目に見て貰えるわけでは無い。
結局、親子関係は守り守られる理想より群衆的な力学に基づいて、世相に左右される。子供にとっては唯一の両親だが、子供も親も、世の中から見てキリストやブッタではなく大衆という集団の中の一人に過ぎない。
そういう風に考えて、
私の両親は私を愛してくれようとしたようだが私が発達障害だったために上手くやれなかった。
彼ら自身も私から見れば発達障害的な部分があり、私の社会不適応とそれらの摩擦が関係を悪くしてしまった。
と思う。私の両親は子供を大切にしようという気持ちはまだしも強く持っていた方の人たちではないかと思う。
けれど、そのことと実際に上手くやれるかどうかは別で、
結局、私は今日でいう虐待の憂き目に遭ったし、家に私の居場所は無かった、と感じた。
それは私の立場の話であり、実際は子供を大切にしようという気持ちすら無い親もいるだろうし、
そんな親の元で育てられて「親に愛されなかった」と考える人もいるだろう。
一方、私の親のように子供の問題に対処しきれず暴力的になってしまった親もいるだろう。
だから、私は親に対して「愛している」とも「恨んでいる」とも言うことはできない。
彼らを悪と断じるよりは不足していたと表現するのが適当である。
子供を愛していても愛し方が間違っていたり、愛し方が分からなかったりした時に、
誤った育て方をされて人生に損失を抱えた子供は親に対してどういう風な感想を持てば良いだろう。
彼らの人生も労力も子供に少なからず注がれていて、20年くらいの時と機会を奪われているわけである。
そして彼らは道徳的であろうとしたのである。そして失敗した。
まぁ、そういうことを考えると溜息が出る。私が発達障害でなければ恐らく彼らも育てきれていただろう。
というくらいには酷過ぎる環境では無かった。発達障害者にとって普通のハードルが飛べないだけで。
発達障害以外に5つくらい小さな身体的問題は重なって更なる困難を増していたが…。
いじめ自殺は理解できても、(子供に)いじめられなくても自殺する人間がいることはまだ一般的では無い。
発達障害者にとっては一般児童にとって普通の環境でさえ過酷であり死を考えるに足る環境になる。
発達障害者でなくても自信が微塵に砕かれれば死ぬかもしれないし。
だから、私が障害者じゃなかったとするなら、
彼らが抱いた標準的な家族の理想や希望を叶えられただろう。せめて「社会で普通にやっていける子」という。
発達障害は割と高確率で遺伝する。
私の親は観察するに両者共、発達障害の気質だった。
彼らは自分が普通だと思っていた。
私が生まれた当時、発達障害は一般的に知名度が低かった。
また、遺伝という考えも恐らく当時そこまで問題視されていなかったのではないか。
両親からすると、そういう子供が生まれてくる可能性を考え難かったのかもしれない。
とは言え、他の問題でツッコミどころは多くあるが…。
私から見れば、子供を持つことが相当リスキーな試みであり「普通の子」を求めようとする行為も確率的に低い。
「せめて普通の子なら」と望んでも「普通の子」が生まれる確率は恐らく2割程度だっただろう。当て勘である。
まぁ、遺伝の問題を考えると大雑把な計算でも5割より低い確率になる。
その他のリスクを考えても「普通の子」が生まれる確率はより低くなるだけだ。
逆説的に、そうしたことを指摘することはできる、というだけだが。
あぁいう人は先のことをよく考えずに庭付き一戸建てに犬と数人の子供という夢を描いてそこに邁進するのである。
子供を大切にする自分達を夢見て。まぁ、落ち着けと言いたくなるが。一種の躁状態にあったと想像できる。
だいたい事故を起こす前には気分が大きくなっているものである。
アドバイスするとすれば一人産んでから3~4年は待つべきだろう。
後から障害が見つかることもあるのだから。
基礎の不安定な積み木をそのまま積み上げるから破綻するのである。
なんだか話がズレてきたが…。人間は喜劇的であり悲劇的である。
私や私の家族の運命を考えた時、無常だと思う。
地震→原発事故のコンボを喰らったようなものだが、原因が子供である私自身が生まれてきてしまったことだ、
というのは、やりきれないようなしんどい気持ちのするものである。「お前がいると世界が滅ぶのじゃ」みたいな。
『烈火の炎』の忌子の紅麗みたいなものだな(笑)
誰かに福島原発を擬人化して物語を一本描いて見て欲しい。
原発は滅べ、お前のせいでオラたちの生活が、私たちの幸せを返して、って言われるわけですよね(苦笑)
彼自身は真面目に電力生産という仕事をしていたが、津波という(当人にとっては)想定外の事故でパニック・暴走・挫折。周りの生活を破壊。そのまま彼自身、自分を立て直せないまま落ちぶれて…。
『嫌われ松子の一生』みたい。
まぁ、そういう複雑な気持ちなんですよね。「どうして産んだの!」「生れてこなければよかった!」「ねぇ、お願いだから私を殺してよ!」「もう生きていたくない!」そういう人たちがいるわけですよ。世の中には。で電車に特攻したりね。電車はともかく、私はそういう気持ちを持ったことはある。今もまぁ自分の中でぐるぐる回ってる気持ちですよね。子供の頃に戻れればと言う人がいますけど、私の場合、何度戻っても同じだと思う。
『ひぐらしの鳴く頃に』くらい袋小路だから。梨花ちゃんは300回くらい殺されてリトライしてるし『まどかマギカ』のほむらちゃんも無限ループしてますよね。そのくらいやり直せないと無理。死んで覚える死にゲーみたいな感じだから。そして、普通は心が折れてリセットボタン押しますよね。書いてて気づいたけど、『シュタインズ・ゲート』とかループものって、その回が袋小路であることを前提にそれでも何らかの希望を描きたいという類型の話なんでしょうね。人間関係は1億年やっても苦痛だと思う。というか、もう植物か海月みたいになってそうだ…。自殺頭痛を抱えて生まれて来たら一億回やり直すというのは「もう殺してよ」と思うだろう。発達障害も大凡そんな感じである。
思春期の頃、人生とは地獄行脚かと思っていた。この集団生活という地獄巡りが一生続くのだろうか…と。問題は別に熾烈な苛めを受けていたわけでは無くともそうだったということである。それは発達障害の場合には自分の内部の問題が原因でそうなるわけであるから。性同一性障害なら普通の人にも想像しやすいだろうと思うが発達障害の場合にも集団生活の場で生じる最も大きな問題は「自分とは違う人間を無理に装って生き続けることに耐え切れなくなる」ことである。そして、集団生活の場にいる以上、どうしてもそう振舞わざるを得ない。健常者でも日本の同調圧力の中で多かれ少なかれ感じる問題だと思うが、だからこそ、猶更耐えられない人間がいるということはそんなに想像できないものだろうか。テンプレの回答は「みんな耐えてるんだから…」である。
そのような耐え難い状況では弱者から倒れていくわけである。
私が弱者だ!(ドン)
弱音や言い訳は昔よりは言いやすくなってきたのかな、と思うのですが、○○ハラスメントとかね。
まだこれを嫌う風潮は根深いですよね。甘えだと断じるのが割と発達障害系の上司だったりするんですね(´・ω・`)穏健派が過激派に足を引っ張られる感じというか。自分が辛い努力をしている人ほど他人もそうして当たり前だと思うんだろうな。それが巡り巡って勤勉じゃなければいけない日本人を作り上げてる気がする…。でも他人もあなたと同じようにしなければいけないと心理的に圧力を掛けて強要しないで欲しい。それは私が決めることなので。まぁ、そういう個人のよくあろうという気持ちを信じられず尊重してないんですよね。
まぁ、やり直せない絶望的な状況に生きている人の気持ちは、厨二っぽく言うと「赤い月が昇る夜には昔日を思い出す。エロスを覆い尽くすような不可解なタナトスが溢れ私を甘美な死へと誘う」という感じですね(意味不)
…寧ろ、自身の文才に絶望した。赤い月め、どこから出てきた(´・ω・`)
「ねぇ、お願いだから私を殺してよ!」「もう生きていたくない!」そういう人たちがいるわけですよ。(風鈴)
なるほど。「黒歴史─Black・History─」が日の下に出ることによってね…。
まぁ、そういう複雑な気持ちなんですよね。(風鈴)