LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

人生というのは人が自分の善性を追い求める過程である

FF8のスコールという主人公がとても好きでした。批判されるくらい内向的で。

思春期の頃、私はとても内向的だったので(今もまぁかなりですけど)、自分の中でのみ様々な物事を考えた。

私の中でのみグルグルものを考えるということは批判される。もっと、外へ出て他人と会話しろ、と。

そうすることで世の中の考え方を知れ、ということですが。ただ、見ている感じ日本人は議論を戦わせることは嫌いで、

「だよねー」と女子的に意見に賛同して共有意志を作り上げ感情的に一致することを好む、という感じる。

そうすると、外に出ても一定以上は意味が無い。異なる意見を日本人は嫌がるし、同質の人間と繋がり合おうとするから。

旅をする意味は同質性の空間から出て異質な意見に触れることだろう。

だから、外に出て行っても、近所なら、発展性が見えないな、という気はする。

それよりは読書をした方が得るものが多い。ただ読書というのは思考のトレースであり、習字の練習に似ている。薄く書かれた字の上をなぞって、字の書き方を練習するのである。大体、一度しか読まないような読書は、その考え方をするなら身に付かないだろう。意味が無いわけではない。そういうものもある、と頭のどこかに引っ掛けるくらいの意味はあるだろう。それが割と重要だと思う。

全てを身に付けることはできないのだから。要はインターネット検索を掛けるにしても、検索用語を思いつけなければ探しようが無いのである。その程度の取っ掛かりが必要になるということは実際、多いだろう。その取っ掛かりを作ることにおいて読書は向いていると思う。身に付けたいとすれば、流し読み以上のことをする必要があるのだろうが。

ちなみに、思考する時間を、人と会話したり趣味で使ったり仕事で使ったりすると、人と差が付く。『ソフィアの旅』では人はみな哲学者だと言っていた。『モモ』の床屋だって彼なりの人生哲学を持っている。けれど、それは暇な時間にふと考えを巡らせたり、悩んだ中で獲得してきた言語的な考えであって、時間を取らなければ、自分の中にそうした哲学は根を張らないだろう、と思うのだ。

だから、余暇を全て何かに割り振って時間を潰してしまい、思考を巡らせない人は、それ以外の空いた時間で考えた程度のことしか考えた経験が無く、その分、他の人よりも思慮できる範囲が浅いだろうと思われる。科学者は科学については考えても他の道徳や哲学について考えないなら、それは知らないフロンティアである。人間的に深みがある考えを持つかどうかは人文的な思考に関して彼らが独自に学習し検討し深めた結果であり、他の能力に優れたところで代替できないものだろう。

研究室の中で四六時中、専門の科学のことばかり考えて生きてきた研究者より、人生について関心のある床屋の方が哲学や思想的には優れているのかもしれない、ということである。勿論、研究者も道徳的興味関心を持つ人はいるし、何かしら人生の哲学を持っているだろうけど。そういうレベルで尊敬できる人間を測るなら職業や地位は必ずしもあてにはならないだろう。

炭鉱で長年働いてきて人生を消費してきた人が自分がタイムスリップしてしまったようだ、と語るように、長く生きていればハリーポッターの学長の賢者みたいに人生に対する哲学が豊富になるというわけではない、と思うのである。特定の思考と経験の多寡がそうしたある種の叡智に結び付くのであり、人間なら誰しも辿り着くわけでは無い。

とは言え、政治的、経済的、科学的な専門知識から見た観点が我々が如何に振舞うべきかという指針を与えることはとても多いわけだが…。要は宗教的教えだけでもまたあてにならないだろう。茂木健一郎とか一部の科学者が時に哲学的方向にぶれて行ってしまうのは、科学が宗教的手段の延長としてある面があるからであろう。神学的な。真理を探る目である。例えばヴィトゲンシュタインは後年神秘主義者になるわけだが、科学を手段にして哲学的、宗教的な模索をしたい、というのが彼らの原点なのだろうから、そっちの方向へ飛んで(?)行くのは必然なのだろう。マックス・ウェーバーとか。学者の少なくない人たちが好奇心より哲学的な動機からその道に入る。ホーキング博士の提言とか「どうしてそうなった?」と首を傾げる話だが、こうして考えればSF風の話も理解できよう。元々、彼にとっては自分の研究と地続きの話をしているわけだろうから。

哲学は無為で科学は有意だという人がいるが、何れにせよ、真理を究明したいというような同質の動機に基づくものである。宗教もまた。生活のガイドラインというか…当時の知識ではそのように考えられる、というのが多いと思う。宗教というのはきっと「要するにどうすればいいか」という話であろう。それとこれとは違うのだが、ただ真理=「要するにどうすればいいか」である、とが一致するはずだと我々は思いたい節がある。科学と哲学と宗教とは遠いように思えるかもしれないが歴史的には同根であろう。好奇心だけではなくて生活苦とか世の中の無常だとかそういう問題とも無関係では無い。

私はそういう意味で文系教育が必要ないみたいな風潮はダメだと思っている。文系的なものと理系的なものの知的好奇心は同根である。どちらかというと文系的な疑問に引っ張られて理系的な発見に発展する。まぁ、そうでなくとも、人々が哲学的に思考を巡らせるのは奨励すべきだろう。国語教育や道徳教育の意味が分からないという人はいるが情操教育は重要である。国語と英語が対比されるが別に言葉を操る能力だけのために国語があるのでは無いと思う。まぁ、語彙を知るというのは感情を表現する考えを表現するということから人間の知的能力を向上させるわけである。であれば様々な考えに触れることで感情を表現することができるようになる、ということもまた知的能力を向上させていると推測できる。それは文学的なものに触れる効果である。

じゃあ、それが実益にならないのだろうか。私はなると思う。日本はサービス業の割合が多いし、必ずしも理系を出る必要があるとも思えないが…。理系という手段があっても「じゃあ、その技術で何をするのか」というアイディアは誰が出すのか、という話で。文系の興味関心というのは、そういう部分で役立つと思えるのだが…。理系の進学を推奨するくらいならまだしも…と思うが。それと文系の大学に行く意味が無い、というのも私は疑問である。

というのも義務教育中はモラトリアム的な自由が利かないので、日本人としては大学生活は人によっては初めて自由に伸び伸びと考えられる時間でもある。そこで自由や人生について考えるという人もいるだろうし、個々人の視点で考えれば唯一共同生活から切り離せられる時間でもあり大学進学は個人主義的に有益である。教育も大事だろうけれど時間と空間の余裕からくる心理的な利益も計られるべきである。まぁ、端的に個人の幸福に資するだろう。国や企業の視点では人材を作り上げるのに無意味な時間なのかもしれないが。

私としては義務教育なんかよりも非常に有益な時間だった。図書館に通い様々な映画や音楽を聴いたり、本を読み、旅をして、興味の赴くままに講義を取り…。まぁ、人生にさしたる目標の無い私にとってはそうした緩い模索的な生活が充実して有益に感じられた訳である。空っぽな人間にとっては空っぽの自分の中身に少しは綿みたいな何かを詰められる時間になるんじゃなかろうか。大学まで来て空っぽなのがオカシイという人もいたけれど。義務教育を逃げるように過ごす人もいる。でなくとも、多分、大学に来る人間の半分くらいは空っぽなのではなかろうか…。

まぁ、義務教育も余暇の時間の人間形成の意味みたいのを考えて、もう少し長期休みを長く取れると良いと思うが。夏休みを2か月、冬と春を1か月くらい。私は全部通信教育にして欲しかったが…(汗)私は発達障害なので他の人にとって大学生活がどんなもんか分からないけれども…。昼間大学夜バイトみたいな自ら時間を埋め立てている人もいましたし。モラトリアムが大切!という論は、そういう人達から見ると断罪されそうですね(苦笑)理系の学生や例えばアメリカの大学も必死に勉強しなければならないようなことを聞きますからね。私が特殊だったような気もしてきたな…。確かに大学も職業訓練的な何かと就職予備校みたいな何かに侵食されてるからな…。

まともな人間はモラトリアムとして楽しめるのか疑問が湧いてきた…私が愚か者だっただけなような…。まぁ、目指すものによるかな。高いハードルを設定しなければ大抵3年の秋くらいまでは余裕があるだろう。私は普通のハードルも飛べない人間だけどね。ホント悲しくなってきましたが…。普通はそうできるだろう、という話を普通じゃなくてできない人間がするのは色んな意味で心が痛いな…。普通の就職は圧倒的なハードルですよね。だいたい、面接、集団面接、面接、とかいう。処刑ですよね。断頭台に向かえと言われてる感じ。私(コミュ障)を弾くための仕組みでしょ(苦笑)ホント義務教育の次に社会的現実に絶望する場面なんですよ。実際、大学は上手く通えるのに就職できないという人が問題にされている。自立できてないとか欠陥がどうとか個人の努力が云々、甘えがどうの…と持論を述べる大学教授みたいな人の話があったんですが、少なからず発達障害系の問題がある人たちだと思うな。被虐待児童とか。

自殺島』で作家志望の少年がコミュニケーションの壁から挫折して自殺…というのがあったけど、同感でした。日本の会社の面接というのは多分、問題のありそうな人間を事前に弾く仕組みだから、発達障害者にとっては処刑台だな…と(´・ω・`)米の選別を風を吹いてする機械があるんですけど、処分米に吹き飛ばされるわけですね。200社くらい(汗)私はそんなにメンタル強く無いので。教授の推薦だとかある程度その辺をスルーして受かる手段があって少なからずそうした手段で入るんだろうけど、入った後もやってけるのかなぁと考えるとね。大阪で公務員が能力が無いと首になってましたけど、窓際族になって閑職に回され辞職を強要される系統の人たちって…と思ったり。

まぁ、発達障害者の話はいいとして。

職業生活にはさしあたり問題が無いけど、日々が空虚でというタイプの人は私は救いようがあるかな、と思う。要は(これは別に人から馬鹿にされたり苛め、否定、無視はされていない前提ですが…)人から顧みられたいと思わず、孤独のグルメ的に日々の中にささやかな幸福を探して満足したら良いんですよ。勿論、労災みたいな状況にいる人の話では無いですよ。ブラック企業に勤めているが俺はもう限界かも…って人は転職してくださいよ(´・ω・`)ホワイト企業なんだろうけど無気力でリア充自己実現の夢を見ちゃうみたいな人の話ですね。

コミュ障なら実は人から顧みられたいという強い気持ちがあるかもしれないけど、ある程度、寂しさというのは孤独でも満たせる。他人とすれ違うくらいでも人の存在は感じられる。他人と比べて自分が惨めだと思うとか、そういう心理が働くのであればアレですけど。ウィンドウショッピングに行ったりスーパーに買い物に行く、くらいでも孤独は少し癒える。人のいる時間帯に公園を散歩するとかね。何気ない他人の存在を感じるというのでも代替になるのです。私は苦痛も感じますが。

恋人とか結婚したいという気持ちは自分に無理そうなら捨てといた方が楽になれると思う。「普通の人は当たり前に~」というのは。私からすると普通の人のレベルは高いです。お前はそうなんだろうな、と言ってくれても良いですけどね。

恋人、結婚に執着する人もいますが、独身も今の時代は進んで選ぶ人すらいるくらいでそんなに悪く無い選択ですよね。将来は老人ホームに入るようにしとけば病院で死ねますよ。子供がいる人だって少なからず老人ホームに入るんだから。

趣味を持って人と関わろうという気が無ければ、演劇や映画を見に行くのもお勧めですね。人間嫌いで無ければ。コミュ障じゃなくて人と関わることはできるならば地域のサークルみたいなものに関わって人と接して友人を作れば良いと思うんですよね。私は嫌ですけど(ぁ。演劇や映画ってのは他人を近くに感じられるから少なからず孤独は癒えるかもしれない。クリスマスは逆効果かもしれないが。

漫画家になりたい、ゲームを作りたい、目立ちたい、まぁ自己実現がしたい系は、人から顧みられたい、というのが多い気がします。どんな漫画が描きたいの?どんなゲームが作りたいの?何をして目立ちたいの?と聞いた時に答えられない人ですね…。とにかく描きたい、作りたい、というのですが、嘘ですよ。本当なら趣味でやってるはずだから。自己承認欲求を満たしたい人が多いと思う。その気持ちに気付くべきだし、人から顧みられたいという気持ちでやらない方が良い。

「友人が欲しい、恋人が欲しい、結婚がしたい、子供が欲しい」というのと同じだから。じゃあ、それは何故かというと「みんなやってるから」というわけです。アイドルも声優もゲームプログラマーも「みんなやってるから」なりたいんですよ。リア充はそうしてるから。「みんなやってるから」私にもできるはず。

そういう考えは他人と比較して自分が不幸になるので捨てた方が良い。本当は漫画を描くのもゲームの作るのも目立つのも別に好きじゃないんですよ。ただ自分にそれらの機会が無いことが惨めで許せないだけ。友人を作ったら、恋人を作ったら、結婚したら、子供ができたら「きっと私は幸せになれる」と考えて、そう言うんですが、それらは「幸せの条件ではない」のでやめた方が良い。

自分が苦痛じゃない環境で安心して暮らしていける条件が整っていれば人は幸せになれると思う。逆にいうと、それで幸せになれない場合、足りないのは外的な要因ではなく、内的な要因だと思う。要は他人と自分を比べること。「普通は~」ということ。自分は足りなくて惨めだと思うこと。それは平等で無ければならないという逆差別的に起こる不公平感だと思う。

私たちは平等なはずだ

私と彼は同じはずだ

私と彼は同じ幸せがあっていいはずだ

彼と比べて私にはあれが無い

それは平等ではない

それは不公平だ

私には彼と比べて足りていないから私は不幸だ

私の人生は足りないから空虚だ

私が空虚なのは彼と比べて私の権利が平等じゃないからだ

実際には労働状況が過酷で余暇が無いとか疲労を残してしまうとか、そうした労災的状況と実生活の孤独や充実感の無さの相乗効果で「何の意味があって生きてるんだろう」と思う人が多いんじゃないかという気がする。主な要因はその場合、疲労感だろう。けど、ここでは前者のように労働自体は大きな負担では無い場合を想定している。

とすると、私が「普通の」誰かと比べて顧みられてない、ということで不幸だとか不全だとか感じると思う。けど、本当にそうなのかな?と考えて欲しい。世の中には友人がいない、恋人がいない、独身、子供がいない、趣味が無い人もいる。表現の手段を持たず自己実現とかしない人もいる。

では、それはダメなことで不幸なことなのだろうか…。私は書いていて少しもそんな気はしないが…。私が枯れ果てていて諦めの境地にいるからだろうか…。私はこれらの条件が当てはまっていても一向に不幸とか絶望感は無いが…。というかここに挙げた全てが私にはハードルが高い重圧である。寧ろ、これらを得ると高い確率で負担になる予感がする。趣味くらいは良いかもしれないが何の趣味かにも依る…。私が「普通なら」これらは良いものなのかもしれないが…。

本当にそれらを望んでいるのだろうか?もっていないということを盾に、現実ではなく理想と比べて羨ましがっているだけでは?私は彼と同じ「普通」なのだろうか…。何というか…それらに付属して付いてくるはずであるところの「幸せ」になれるというオマケが欲しいだけだろう。けれどそれらを得たところで「幸せ」は必ずしも付いてこない。それらは別に幸せの条件では無いからである。

どちらかと言えば、羨みと不満の気持ちが他人との平等という幻想に基づく比較が自分を相対的に不幸に思わせていると思う。別にだから本当は幸せなはずというつもりも無いが。ニュートラルな感情でも不幸の側に寄せているというべきだろう。他人との比較で、0をマイナスにしているわけである。0なら不幸では無いし、些細なことで幸福を感じられるはずなのだが。敢えて不幸になろうとしているような気さえする。もっと幸せになれなければ嘘だ、という気持ちが自分の現実を否定し自分を不幸だと規定してしまっているのかもしれない。

例えば、人間は四六時中、幸福物質が脳から垂れ流されている訳では無い。不幸も幸せも一時的な感情に過ぎない。毎日、不幸な目に遭うとか、幸せな目に遭うとか、イベントがたて続くから不幸だとか幸せだとか言うのである。大抵、不幸の側だろうが。それにしても不幸も一時的な感情に過ぎない。ただ貧困とか紛争地帯にいるとかハラスメント的労働環境にいるとか、切れ目なく不幸な目に遭ってるなら不幸が常態だと思うだろう。けれど実際はダメージ床から離れられずにずっと立ってるようなものである。

そういう人にとって幸福とはダメージ床から離れることを言うのであって、薬中になって快楽物質漬けになることではない。けれど、後者を夢想するようである。どちらかというと不幸と不幸で無い状況を想定して、日常が後者であることを望み、幸福な時もあると良いな、と望むくらいが「幸せ」だろう。私は不幸で無い状況にいるのに、それが空虚だからと言って、幸福を望み、他人を羨んだり嫉妬することで自分を不幸だと定義して不幸だと感じる人がいると思うのだが…。

勿論、本当に不幸な状態にいるのに、例えば日本に住んでいるだけで幸せだと思え、と言っているわけでは無い。

思考において、その取っ掛かりは重要だ。論文を読むとき、頭の良い人は、引用した論文の内容を暗記しているかのように詳しいが私は一々隅々まで暗記してはいない。私の基本的な考え方は万事が万事「そんな感じ(ニュアンス)のことを言ってたので多分~だろう」という具合である。だから文脈を履き違えていたりして信頼性は保証できないが、思考は論文では無いので、エビデンスを一々検証してまで重視しない。

STAP細胞の有無は多くの研究者が再現実験を繰り返して存在しないことを確認したが、日常的思考で科学的正当性(再現性)を一々確認したりはしない。証明は難しいし時間がかかり過ぎるからである。日常の意思決定はだいたいそのくらい軽薄に行われるだろう。けれど、それに反して私たちはなるべく正しい意見を持ちたいと思う。批判され間違っていると詰られたく無いし、間違った判断の上に行動したくないためである。まぁ、何かしら賢くなりたいと思っているのであり、馬鹿になりたいと思う人は少ないだろう。

ただ「賢くなりたい」という意志は一般的な善を目指すかというとそうではない。その人にとっての善を目指すのである。要は経営者にとってより利益を上げる手段を考えつく能力が「賢いこと」なのかもしれない。難民にとって今より良い暮らしをするために手段を問わずに結果にしがみ付くのが「賢いこと」なのかもしれない。ある程度充足している人にとって人類や自分の幸福について良い考えを得ることが「賢いこと」なのかもしれない。

何れにしても、自分が自分にとって善い道に進もうとするのが人間だろうという気がする。仮にそれが自己犠牲だとしても息子のためとか家族のためとか何らかの自分に返る利益を見込んでいるのだろう。判断が正しいとか間違ってるとか善悪はさておき、その人にとってこうすべきと思う選択をするわけである。だから、

人生というのは人が自分の善性を追い求める過程である 

と言えるかもしれない。自殺でさえ自分にとって良い選択である。例え、それが「死んだ方がマシだ」というネガティブな気持ちによるものだとしても…。まぁ、自分と異なる他人を理解するときに使える考えだろう。科学的に正しく無いのに、なぜ宗教的正しさに拘るのか…とか。客観的正しさではなく当人にとっての正しさに対して突き動かされているためだろう。

私にとっては客観的・科学的正しさ、とか人道的なモラルなどを追うことも自分の追い求めるべき善性だが、そうでない人たちもいる。客観的・科学的正しさなんて分かり難く理解できそうもない問題は考えるだけ無駄で、富と権力と力などの実益が全てだ、と真実を探す行為を無駄だと投げ出している人もいる。例えば、それが明日の食べ物にさえ困る生活をしている人たちならそうなるだろうなと思う。お腹が空いたときに食べ物のことを考えるのは当然だろう。

何というか、ナウシカに対する前文明の人々という感じ。平和で文化的で穏やかな生活を夢想する私に対して、現実は血生臭い争いなんですよ、とナウシカや王はいうわけである。読者はナウシカに感情移入しているから、前文明の人たちを非難して滅ぼすことに賛同するかもしれないけど、私は前文明の人々に同情した。自然と人工という対立だとして、平和で安全な暮らしも人工的に築かれ守られたものだからである。

確かに後者が放蕩貴族のようなごく潰しだけなら…。けれど、科学文明が人々の生活を豊かにしてきたのであり、牽引したのは大抵、豊かな知識人だったりするわけで…。真実と知と余裕を否定した場合、私たちは今日より貧しくなるだろう。自己保身を図る当然の考えを理解するのと、真理を追及することの利益とは別である。何というか…「無駄は必要だ」という論であり、

障害者や老人が文化を拡張しているように、裕福な層も文化を拡張していると言える。私は基本的に能力の高い人間を評価している。ある種の高等な能力を持つ人たちが自分と対等だとは思わない。蔑視されたり迫害されない限り、彼らが私より高い待遇を得たところで問題だとは思わないし当然だとさえ思うだろう。まぁ、生れの不平等、教育機会、環境格差や貧困の連鎖のシステム等は問題視するとしても。

アフリカには食事も満足にできない人がいるから…的な論調で、じゃあ「遊ぶな」みたいにすると文明が衰退するだろう。結局、金を使う人がいないと経済も回らないし豊かにもならないのだろう…と。例えば、ミニマリストという人々が出てきたが、必要なものを少なくする工夫が開発されるかもしれないが、かといって全員がそれじゃ問題があるだろう、と。