LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

幸せに生き、幸せに死ぬ難しさ

歴史上、幸福な人生を送った人…とか調べてもあまり出て来ず、参考にならないのであった。

 

幸福な人生とはなんぞや?と言って、具体例には乏しいのであった。「幸福に生き、幸福に死ぬ」とはどのようなことを言うのであろう。

 

とらドラ!の感想2である。

女性作者というのはなるほどで、確かに竜児や北村の男性キャラの性格が単細胞に出来ている。一方で女性キャラは妙にディティールが深い。要するに、この女性作者は「男性心理はわからん」と言う感じである。

 

まぁ、それは男性作者が女性キャラを描く時も一緒である。

 

健常者と発達障害者のように、男女の間の相互理解も「平等」「同じ」の建前を取り払わねば一歩も進まないだろう。男女の脳は違い、生理も違い、生活も違うのだから。それは男という生物であり、女という生物である。例えば、遺伝子のXXとXYとの違いから、差異が生じているだろう…とか。

 

別に優劣を測りたいわけでは無く「自分と異なる相手」の意味を、輪郭を描きたいだけである。要は概念のデッサンであり、正しい素描をしなければ間違った絵ができるだろう。

 

まぁ、とらドラ!について言えば、竜児や北村には作者の理想の男性像が少なからず投影されており、女性像は作者の「人間とはかくあるものである」=「人間(女)はこうである」という考えが投射されていると感じた。

 

アニメの後半の大河の台詞は非常に内面的なものが多い。表面とはかけ離れており「こんなに繊細な乙女心を理解して欲しい」的にも感じられる。要するに大河というキャラから浮いている。

 

大河は内面を掘り過ぎているし、竜児は内面が見えなさすぎる。それは作者が大河の内面は女性として表現したい、が竜児の内面は男じゃないからわかんないし…という印象。

 

作者自身を投影し過ぎているので、精神年齢が大河と竜児でかけ離れてしまった感がある。少女に大人の考えの代弁をさせてる感が無きにしもあらず…と。

 

要は「転生系主人公」みたいに非リア充実おっさんが、幼児だか美少年に転生するのは、作者の精神年齢を投影しやすいからだろう。だから「見た目は子供、頭脳は大人」と言いつつ、実際には子供心が(最早)描写できないだけ…。

 

まぁ気軽な作品が量産されると、そういう系の漫画やらラノベやらが多くなると思う。人間観察に興味の無い人が、単なる「俺の考える最強美少女」とかを溢れさせるだけなので…。要するにそんなものは精神的ダッチ〇イフに過ぎない。

 

まぁそうなるとリアリティが云々と私の不満が募るわけである。その手の同人誌には正直ウンザリである。私も作家になりたいと思ったことはあるが思うに他人と触れ合わないコミュ障は作家に向いていない(´・ω・`)人間を観察する機会に乏しい。

 

思うにラノベ、漫画界隈は、直接的自慰用本を書くか、精神的自慰用本を書くかの違いしかない作家で飽和している。そういう慰謝用本ばかり売れる。そういう本というものはタバコや酒、麻薬の類である。娯楽、嗜好品というべきか。まぁ、しかも安酒である。

 

とらドラ!で褒めるべきは、女性の心理描写だが、舞台や年齢と心理(精神年齢)が一致しなければ所詮「大人のままごと」に過ぎない。それは大抵のラノベが抱える問題だと思う。

 

青春を描くなら、この作品よりも「TariTari」が上手い。作者には作品と自分の間に距離を置いて客観する姿勢が不可欠である。

 

でなければ…自分の妄想を垂れ流すだけなら、それはネットで自慰行為を配信するような連中と同じである。「小説家になろう」で自作小説をアップロードするのも、RPGツクールフリーゲームを創作するのも単なる自己満足の自慰行為配信に堕してしまっている場合が多いと思う。

 

人間の生きる価値がクリエイティブな活動にあるとか、クリエイティブな活動こそ至高だとか、自分の唯一無二の才能が云々とか、人生は一度きりだからあらゆる体験を云々とか…うるさいのである。代〇ニ的広告に釣られて夢を見る連中は所詮、自分が気持ち良いことをしたいだけ。「気持ちよくなるお薬あるよ」と言われてホイホイ釣られてしまうお馬鹿さんばかり。

 

世の中の大人の多くがグレーゾーンの麻薬を売って、お馬鹿さんから搾取し「これは犯罪では無い」と言い逃れ、自身をも偽り目を背け、商売しているのである。

 

 世の中馬鹿ばっかであり、アイドル業やガチャ関連等、馬鹿が馬鹿であることを利用して「飛んで火にいる夏の虫」と思って商売している連中が目に余る。私は人間なんてものは半分は馬鹿なんだから守ってやらないと生きてけないと思うのである。

 

人間に滅ぼされた人を疑うことを知らない平和的哺乳類の如く、馬鹿な人間がロクデナシ人間に搾取され死んでいくだけ。「大人の怖さを知らないね」とか馬鹿で阿呆な劣等成人が言うわけである。大人になることは難しく、誰でも大人になれるわけでは無い。

 

私は「私が優しい人で良かったね」とか「私は大人だから」という人を信用しない。プラトンは勇気ある将軍に勇気とは何かと尋ねた。将軍は答えられなかった。まぁ、そういうものである。優しさとか強さとか大人とか答えられると思っている人はお馬鹿さんである確率が高い。将軍は答えられなかった時点でそれだけ賢明だった。プラトンはアスペっぽい。

 

 子供が成長したら大人になると考えている人はまだまだ純粋である。経験が足りない。頭も足りない。子供は年齢を重ねるとただ成人するだけである。肉体的成長が止まるだけだ。そして老い、死へと折り返すだけである。大人とはイデアであり、円のようなものだ。あるいは三角形のようなものである。概念上は存在するが完璧な「そんなもの」は実在しない。

 

まぁ、だから「大人の癖に」とか言ってる時点で、そいつは自身の未熟を露呈している。

 

歳を取る程、経験が増し、洞察が増える。だから、良い本が書ける、という風に成熟している傾向はあると思う。年齢が若いほど、経験は限られる傾向にある。但し、その年齢の感性は唯一無二である。

 

世界は複雑系である。全てを知ることはできない。足の付かない海中に放り出されたようなもので、底も見えない。

 

とらドラ!」には碌でも無い大人が何人か登場する。主人公の父母はロクデナシである。「ロクデナシから生まれてもまともな人間になれるよ」 と言いたいのだろうか…。

 

彼らは「大人未満」である。大人になれる能力が無かった人たち。失礼な話だがそういう人間は有り触れている。「大人」の方が希少なのかもしれない。夜回り先生は言っていた。大人になっても人間というのは子供のままなのだ、とか。おそらく。

 

昔、私は「格好良い大人」になりたい、と思ったが、なれなかった。私という発達障害者は「大人」にも「格好良い大人」にも残念ながらなれなかった。今後なれる予定も無い。残酷な話である。

 

どちらかというと、カフカの『変身』の境地。

 

ある朝、私が気がかりな夢から目覚めると、自分が一匹の虫になっていることを発見した…(適当)

 

精神鑑定?のフリーソフトで自分を評価した時に「惨めである」と書かれていた。血液型診断の理屈なのかもしれないが、まぁ大体当たっている気がした。

 

その虫は虫として埃に埋もれて死ぬのである。シュールな話だが現実的でもある。人間は虫じゃない(笑)確かにそうだが。けれど、あの日、津波で一瞬にして大勢の命が奪われたように、人間もか弱い小さな命であるに過ぎない。健常者の脳味噌は割と楽観的に出来ているらしく、自分が吹けば散るタンポポの綿毛のようなものだ、ということを日頃、忘れている。忘れているから強く生きていけるのでもある。

 

とらドラ!の話に戻そう。最終話辺り、竜児は母に「俺に自分の人生の肩代わりをさせるな」と反発した。母は自身が頭が弱く底辺だから竜児には勉強してちゃんとした人生のレールに乗って欲しかったわけである。竜児曰く「お前が努力して、お前が大学にいけばよかったのだ」と。

 

まぁ、竜児が言うような親もいるわけだが。ただ「医者になるには医者の才能がいる」のであり、普通の人間になるにも「普通の人間になる才能がいる」のである。前者は頷けても、後者は腑に落ちない人が多いような気がする。私には「普通の人間になる才能」は無い。

 

例えば、原爆で小頭症を患った場合にも、その才能は無くなる。だから、そういう人達は、竜児が言う様に努力して「普通の人間」になることもできない。日本では「普通の人間」であることが「当然」のように思われる世論(常識)が支配的だった…と思う。

 

その中で才能の無い私も「普通の人間」になろうとする。そしてなれないと嘆く。その日々は合理的じゃなかった。正しくも無かった。そして無駄であった。私の人生は無駄だった。取り返しも付かない。そうして、

 

私はある日、自分が一匹の虫だったことに気づくのである。

 

虫は埃に紛れて、誰にその意識を気づかれることもなく、人知れず屍になる。村上春樹が言うには、日本人の感覚でいうなら、そういう自然の運命に対して、私たちは「無常」と言ってきた。

 

私は運命論者である。人間には運命がある。努力が全てを解決してくれるわけではない。

 

竜児の母が竜児に抱いていた気持ちは「お前は私のようにならなくていい」ということだろう。私には可能性が無く竜児には可能性がある。親として「その可能性を伸ばしてやりたい」と思う。まぁ、それが生き甲斐になってもいるわけだが。『僕だけがいない街』の母親もそんな感じである。まぁ、気持ちが重い。

 

私は健常者になれない。あなたは健常者になれる。けれど、あなたは健常者にならない、という。私と一緒にいる、という。私はあなたに健常者になれ、と言うだろう。

 

どちらかと言うと、健常者になれるのにならない、というのが自分のせいだというのが親にとっても重いのかもしれない。

 

ニュー・シネマ・パラダイス』という映画がある。傑作と言われるが。この映画の老人と同じ感じかなぁ、と思う。要は主人公の人生が上手く行くように背中を押したいわけである。

 

勿論、世の中、そういう親ばかりではない。自分の介護をさせるために仕事を辞めろと言う親もいる。竜児が言う様に自分の勝手な人生に対する復讐の道具にしようとしている親もいる。一方で自分から姥捨て山に入っていく老人もいる。

 

何が言いたいのだろう。。。

 

人生の幸不幸について。平等や対等について。人間ではない人間について。自分がそうであるかもしれない、ということについて。

 

私なぞ言葉を操る似非人間に過ぎない。例えばダウン症児は人間で無いという者がいるが、人で無いから何だと言うのだろう…。世の中が私を否定しても私は私から逃れられないのだから。仕方が無いなと思うのである。

 

ある日、自分が一匹の虫であることを発見した。で、どうすると言うのか…。如何ともし難い。朽ち果て死ぬとて運命を受け入れる他あるまい。私は人間では無いのだから、ここには人間しかいないと言われてもなぁ…困っちゃうなぁ(´・ω・`)

 

まぁ、そういうことがあるんだよね、という話である。明日夢から醒めたら『猿の惑星』にいる自分を発見するかもしれない。多分、それは夢だが。

 

子供は特に平等・対等の価値観の中で育てられてしまうと「同じ人間であるかさえ不確実である」ということに気づかない。だから、自分が違うことに必要以上に悩んだりとか…(´・ω・`)

 

子供たちは自分と他人の違いがせいぜい「肌の色(見た目)」「成績」「言葉」「性別」くらいだと思っている。だから僕らは「同じ人間」なんだ。まぁ、そう信じてられるのは君が人間だからだろうさ。

 

最低限「同じ人間だろう」なんて思ってたら私は違ったもんで。ある意味、胡蝶の夢でね。自分が人間だというのは夢だったんだよね。

 

みんな自分が「普通の人間」だという夢の中にいる。結構多くの人たちが。でも違うんだよな~…。そんなことは無いんだよな~…。

 

もう誰かがイルカだとしても驚かないかな~…。

 

 まぁ、だから「同じ人間」だから分かり合えるはず、なんて言ってる宗教じゃ…人間じゃ無いんだから。

 

寄生獣』を思い出すんだけど、あの漫画はそういうことなんだな…と思う。寄生獣とも共存してくっていうEDでしょ。あれ私は寄生獣だから(苦笑)みんな「駆逐せよ」って言う側なんだろうけど。私は寄生獣側なんで(笑)

 

みんな「人間に生まれることを自分で選べた」と思ってんのかな、っていう。私とか人間未満の人は明らかに選べてないからね(´・ω・`)そういう人でも「似非人間」として生きざるを得ない現実なのさ。そういう運命がとてもシュールなんだよな、と思うんだけどどのくらい伝わるのだろう。