パナマ文書というのが公開されて、節税だの合法だのと言う人がいる。それは詭弁に過ぎないと思う。
法律が十分で無いだけ、である。合法だから良い、悪いことはしていない、ということを本気で信じているのだろうか。単なる自己正当化で悪いと意識している?
世の中にはいろいろな人がいるので一概には言えないが、私は自分は善くなろう、と思うし、悪いことはしたくない、と思う。
日本で目にする欧米系のゲームはゴア表現=リアルさ=良いゲーム、自由度=犯罪みたいなものが多いが、例えば『GTA』をやっても犯罪を冒して楽しいと思う神経が私には無かった。
何というか、性善説があるとして、それは論理的な理論上の善ではなく自分の知能レベルで到達し得る善である。悪もやはり自分の論理上の悪である。だから性善説・性悪説を信じても、それは個々人の思う程度の善悪にしかならない。
都市伝説だが、濡れた猫をレンジに入れたのは、善的行為である。別に破滅願望があった訳では無く無知であっただけ。
合法ドラックに手を出すのは、気持ちよくなりたかったからであって、悪いことをしたかったからではない。そして、悪いことという認識も無い。
税金逃れは脱税ではなく節税であって、金持ちはみんなやっているし、合法でスマートな方法である。合法だから悪いことじゃ無い。そして、悪いことという認識も無い。税金を払うことの意義なんて彼らは知らないし、興味も無い。金稼ぎと贅沢と節約にか興味が無い。
自分のお金を増やす(取られない)という意味では善い方法だったし、悪いことじゃ無い(合法)からやる。その程度の認識だろう。
善くなりたい、悪くなりたくない。それはその程度の話に過ぎない。だから、タバコは吸わないし、止められないから悪いことと知りつつやってしまう。罪悪感を感じても。
一昔前はタバコを吸うことに罪悪感なんて無かった。悪いことだと知らなかったからである。今でもタバコは合法である。なのになぜマナーを守っていても罪悪感を感じるのか…。
それはタバコが悪いことだから。私は善い方に立ちたいから、タバコを止めようとする。それは私の中の善悪の判断に基づく。まぁ、だから社会の善悪に追従し迎合する人もいるだろう。
性善説やら性悪説やらは、真理を志向するものではなく、個人の判断における善悪を志向するものだろう。だから、殺人が善いと思えば殺人を冒す。
私は他人と上手く付き合おうと思ったが断念した。善を志向したが、そうなれなかったので仕方が無い。他人に合せられないことが悪だとしても悪であらねばならない。そうすると自己正当化し仕方が無いということになる。
これは節税だから( 一一)これは合法ドラックだから( 一一)これは生活のために仕方ないから( 一一)これは私には出来ないから( 一一)これは夫婦間の問題だから違法じゃないから( 一一)
そうして仕方ないので善を諦めたり。こじつけて悪では無いことにしたり。まぁ、善を目指して、悪を避けても、自己正当化なんてどうとでもできる。ただ、その中で露見して世論に晒されたら自分が目を逸らしていただけで許されなかったわ…ってことになったり。
私もコミュ症は決して許されてはいないし。ただ仕方ないだけ。他人は許してくれてないですよ(苦笑)人生で何度も苦言を呈されたけど私が私である限り無理だと思うょ。…でもコミュ症は違法じゃないから(笑)発達障害やコミュ症が違法になったらお縄に付く。悪いことだからね。善くなりたいわ~…|д゚)
レイプ魔が自分を釈放しないで欲しいと言った。性欲を抑えられる自信が無いから。善悪は分かっている。けれど、仕方が無い。私は許されて彼は許されない。それは時代や社会の都合。
時代や社会が違えば私は檻の中で電気ショックくらっているかも…。コミュ症は悪だから。許されているのは社会がそれを許してるから。
発達障害だから仕方ねーな…はぁ…。っつって今のところ許してる。
私が善悪を決めているわけでは無い。ただ善くなりたいとは思う。仕方ないから悪いままいざるを得ない。かと言って、治療されたいとも思わないが…^^;だから、善くなりたいよ?出来れば。
だって社会が死ねと言ったら私は死ぬしかない立場なわけだからね。こんな立場でいることは負担。だから辞められるものなら辞めてる。
脳味噌を交換する?(苦笑)
合法だからと開き直る。確かに間違ってはいない。私の場合は善くありたいと思うが、善く在れないだけ。実に多いですね。こういうのは。善くありたい、悪くなりたくない…と思っても、僕らは正解を知って生まれて来るわけじゃないから。
私の両親の話。悪い人じゃなかった。努力もしていた。私は彼らと極力関わらないが。「悪くしてやろう」という人じゃなかった。彼らの失敗は善くする方法が分からなかっただけで。まぁ、自己防衛のために咄嗟に悪を行ってしまうものである。
飲酒運転の隠蔽みたいな類は、殆ど誰もがしてしまう自己防衛的な所作なのだろう。だがそれは悪であり、善では無い。けれど、そういう利己心がわりと善悪に優先する。で善でありたいので、悪を成しても悪では無いと詭弁を吐き自己正当化する。見苦しいものである。
産後鬱の殺人。児童虐待。介護疲れによる暴力。善くありたくても、悪くなりたくなくても、善悪は最も先立つものではない。自己防衛的な欲求が咄嗟には先立つ。そして自己正当化し、善悪を曖昧にし、自己を偽り、自分の欲求を成立させる…とか。
理性と知性と忍耐と慎重さに欠ける親は問題解決能力に乏しい。まぁ、だから育児放棄したりするわけである。問題を解決もできなければ、可視化もできず、解決できない状況に耐えることもできないから。結局、メルトダウンするわけである。
そういう風に人間は善く在りたいと思っても自分の愚かさ故に上手く行かないもんである。時に悪く在ってしまう。
努力の話を前に書いたけど、努力というのはエンジンであり、操作能力とか他の能力が問題解決能力には不可欠。だから「努力した」だけじゃ何にも成らない。
清〇さんが「頑張る」って言ってるけど、私の親も「頑張った」って言ってるけど「頑張る」なんて意味の無い言葉。何をどのようにどうするのか…そういう照準の当ての無い「努力」は無意味。エネルギーの無駄。
残酷な事実だけれど、ハンドルの無い車を「頑張って」運転するくらいなら運転しない方がマシである。そのことを理解せず「頑張るから」だけで満足している人間をよく見る。「頑張って前に進むんだ!一歩でも先へ!」そして一寸先は闇。「頑張ったのに」失敗する。
私は実にそういう失敗ばかりだった気がする。
親が善人でも「頑張って」もそういう風に駄目な親は駄目である。別に私は鬼畜ではない。事実を言っているだけだ。発達障害もあの頃はまだよく知られて無かったな~とか。だから、そういう諸々を考えた時に、親を憎しむだの恨むだのという気にもならないが、愚かな…とは思う。
悪意がある人は存外少ない。けれど、行為が結果的に悪くなってしまう人は多いのでは無いだろうか。「善かれと思ってする」ということでは無く、善悪を問う能力が欠けているから善も成せない…。哀れ。
私の身内は大概そういう感じに見えたが…^^;私は彼らが嫌で距離を置く。他人は「悪い人なの?」と問う。「悪い人では無いが…」と私は言うが、この件に関して説明し難いのである。ここで書いた内容を説明する?面倒臭い。
両親はどちらかと言えば善人の類であろうと思うが、その行為が私に対して善く働くわけでは無いから嫌うのである。特に発達障害的な傾向のある親は思い込みが激しく善かれと思ってイカレた真似をする。
犬に人間の飯を与え太らせて殺す飼い主の如く。人間、善良ならばそれで良いというわけでは無い。全てそれで上手く行くわけ無い。その辺を我々は3歩歩くと忘れる。だから「悪い人なの?」と聞くのだ。