発達障害は障害だから治しましょう。分かっていない人が多い。
同性愛は障害だから治しましょう。これと同じことを言っている。
同性愛は社会の都合で障害に分類されていないだけ、発達障害は社会の都合で障害に分類されただけ。それを抱えている私にとってこれが私の人格なのだ。
それを切った張ったし、治る治らないの、という。外野が。あるいは同性愛者が異性愛者になりたいという風に、発達障害者も健常者になりたいと言う者もいるが、それは自己否定。もし全体に関して言うならば同じ障害を抱える他者否定だ。
能力の無さも同性愛と同じ問題で社会の許容性の無さの問題であるのに、本人の努力の問題に転換されてしまっている。なまじ健常者の視点で測れる能力であるから、そうなってしまう。
努力と社会的なサポートの半々という人がいたが理解が足りていない。そうじゃない。自分の求める分だけの努力を自分が決めて自分で努力するのである。他人が目標を定めるものではない。
同性愛者に異性を愛するように命令する、とか、そういう問題になってくる。異なると思うだろう、異なりはしない。能力の大小にケチを付けるのも同様に、その人の個性を否定し迫害する。
健常者も努力しているから、というのは、男も努力しているから、女も努力しろ、というのと同じだ。所詮、男は男の視点で命令しているだけに過ぎない。その人の立場に立ててはいない。努力したいのならばすれば良い、しかし、努力しないのだから死ね、と同時に言っていることを弁えて欲しい。
その努力は健常者と同じ努力ではない。男としての違い女としての違いという風に、質の違う問題を含んでいる。支援者から見た時、その質感の違いは男女平等を謳う時のようにスルーされる。
しかし、それはスルーして良い問題では無い。そこにその人らしさがあるからである。そこをスルーした途端、それはその人の個性の否定に繋がる。広義の個性というのはマイナスを含む。
「生き難いから努力して変えましょうね」というのは「生き難いから性別を変えましょうね」という風に容易に転じる。この危険性が上手く伝わっていないように見える。
障害者の個性とは、社会的障害によって表現できていない禁止されている区域にこそある個性である。まだ社会の中で形にされていないものを見なければならない。社会の中に押し込めて詰め込んでしまおうというスタイルには私は反抗心を掻き立てられる。
基本的にそれは「同性愛を否定して性転換させる」所業と同質である。本人にとっての困難が、社会の苦言に摩り替えられてしまいやすい。健常者も我慢しているのだから、等と付け加えれば完成するのだろう。
健常者社会も又問題を抱えているがだからと言って、復讐的に障害者も同じ枠に嵌めてやろうという精神には関心しない。健常者の個性の枠組みは健常者自身が自ら広げなければならない枠組みだからである。その個性を発揮できるようにだ。
私には私の芸術的なあるいは文化的な可能性が見える。それは広義の個性で言うように経済的社会的な価値は測れないものだ。しかし、健常者社会に擦り寄ればそれは見えなくさせられるだろう。それは私を殺すことだからだ。私はそれを良しとしない。私はそれが見てみたいのだから。
我慢というのは個性を殺す。生きている実感を奪うだろう。私には未だに発達障害者に対してロボトミーをやっている風にしか見えない。特に親も健常者であれば発達障害の持つ可能性を困難毎握り潰しても構わないと思っているように思える。
普通の幸せは無いかもしれないが、別種の個性を発揮した幸せはあるだろう。見えないだけだ。それが分からないから、友達がいない。結婚ができない。恋愛ができない。子育てができない。だけで塞ぎこむ。それはあくまでも健常者の一般論的な幸せに過ぎない。
各々、大切にするものがあり、私には私だけの唯一性があるはずだ。それを見出す努力が必要だが、命は本来、型枠に嵌るものではない。型枠に嵌めているのは文化と人間である。
文明は今日、発達障害者を生かしているが一方で知識と言う後付けの常識による先入観が私の生き方を縛り不幸に釘付けにしている。その自分自身に対する自分や社会からの呪縛を解いた場所に、不可視の、フロンティア的な生き方が転がっているはずだ。
21世紀に入り16年。様々なものが新たに可視化されてきた。つまりは可視化されていない領域がそれだけあったということを意味しているのだ。では、なぜ現状の常識に確固として囚われる必要があるのか。
命綱を繋ぐために、過去と言う大岩に自分を拘束しているのだ。
私は無能かもしれないが、これは死に至る病では無い。なのになぜ治す必要がある。働けないだけで困ってはいない。どうせ仕事なんて無くなっているのだろう。
同性愛者は自分を誇れば良い。自分の形を認めれば良い。
発達障害者も自分を誇れば良い。自分の形を認めれば良い。暴力性だとか他者に危害を与えるわけでは無い本当に支障が無い部分に関して、社会の言いなりに全て変える必要は無い。