何か一つの概念に正解を見出そうというよりは、何かの物事の距離を測るように心掛けると良いのかもしれない。
「中庸」というが。これは「二元論の真ん中」ということでは無く、問題と距離を置く、距離を常に測るような立ち方という意味で使いたい。
現実は常に選択と決断を求められて、私のような人間は動けないのだが。それでも、やはり常に測って行きたいように思う。だから、他人にもそうせよ、とは言えない問題である。そうすると他人も私のように動けなくなり困るかもしれないのだから。
これは厄介な私の特性かもしれない。だからそんな問題の無い他人は真似ることは無い。
信じるというのは一時的なもので、とりあえずそう決めて動くという風に使うことが多い。あてを付けて、確認する。
あてが外れれば、それは調整して良い。生に於いてはそのように探っていく作業が多い。日向ぼっこをする猫が太陽の動くのに合わせて寝る場所を移るように、何事かに於いては一か所に留まることは適当では無い。
そういう類の物事を我々は見過ごしていることが多く、結果として行動が的外れになってしまう。最早、太陽が照っていない場所で日向ぼっこを続けているということがとても多いようだ。
そういう行動に関して良く気づき、適当なものへ評価し直していくようにしたい。
現実は答えさえあっていればよい、ということがあるが、私は式の意味の把握や過程の考え方や、その合理性を注視したい。
術理の把握である。型は把握のためになぞりはするが、最終的にはカラクリを理解したい。正直、そういうことへの適性はイマイチであるように思うのだが。