LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

デフォルトマン(基準とする人間像)を考える

デフォルトマンという言葉が目に入って、その記事を読んだ。記事では、その人は「イギリスの中流階級より上」をデフォルトマンとして想定し、これに劣等感を抱く…みたいな話だった。

 

発達障害に関して使えると思い、この概念を借りてきた。この記事のように特定の階級ということは言わないが、そのときに話している(仮定された想像上の)人物像がデフォルトマンであると定義し直した。

 

そうすると、発達障害者が定型を語る時には、それが抽象的な人物であるとすれば、それは彼の「デフォルトマン」に関して言っているのである。「定型にも色々な人がいる」という部分は大抵省略されている。

 

この時、話し相手の相手側が健常者であるとするなら、彼が言う「そんな人もいるよ。辛いのは君だけじゃないよ」というのは彼の作り上げた「デフォルトマン」に関して言及しているのであり、私の話している「デフォルトマン」に対する言及ないのである。

 

通常は、互いの「デフォルトマン」はある程度、共通する。それは互いに同じ属性を持つ日本人だからである。健常者で右利きで男性で日本語を話し、同年代である等、も含まれる。

 

彼の「デフォルトマン」は私より能力的に同じか下かで人間のていを為している他の健常者である。それは障害を持つ者ではない。彼の「デフォルトマン」には、精神障害者は組み入れて無いからである。

 

畢竟、私と彼との会話の間には齟齬が生じる。私は普通の人というとき障害を持たない私の「デフォルトマン」を語っているのに対して、彼は彼の中の「デフォルトマン」に私を嵌めてしまえる、と殆ど無意識に考えてしまう。だから齟齬が生じる。

 

彼は私ではなく「私のような属性を持った仮想の人物」に関して考えなければならないところを、無意識に放棄しているのである。

 

この時、差別が生じているのだ。重要なのは、互いに「デフォルトマン」に関して語っているのであって真には「互いに関する話ではない」と了解することだろう。

 

私は健常者の「デフォルトマン」を仮想する。

彼は障害者の「デフォルトマン」を仮想する。

ここに議論の前提が形成される。

 

私が定型と呼ぶ時、これは定型の「デフォルトマン」を指す。

彼が私もと呼ぶ時、これは定型の「デフォルトマン」を指してしまう。であれば、それは私の「障害」の話をしているわけではない。したがって、私は彼の言う「デフォルトマン」から外して貰わねばならない。

 

あるいは、彼の「デフォルトマン」の中にその仮想の人物が「生まれながらに発達障害であること」を規定して貰わなければならない。ここに難色を示す人とは話しても無駄である。私を理解して特別な配慮を行う気が無いのだ。

 

「普通の人は◯◯で」というとき例えば「アフリカの黒人の子供」等が脳裏に過ぎる人はいないだろう。「私は違うから◯◯できない」とは「私の中の定型のデフォルトマンでは無い」ということである。

 

彼(定型の他者)は「そんなことはない」というが、彼の「デフォルトマン」に、この時、私が入っていると彼が思うことこそが偽りであり、間違いの元なのである。ここでいう私とは、私自身ではなく、発達障害を持って生まれてきた仮想の人物像の私のような者である。

 

私達はこのデフォルトマンに対して語らねばならない。私と彼が互いにどういったデフォルトマンを見ているのかということが「差別」の瀬戸際であり、相互理解の要の地点なのだ。

 

相手を理解する時には、相手の仮想人物像をデフォルトマンとして想起することだ。相互理解はここでは重要ではない。黒人差別の時に白人を理解しても仕方がない。黒人差別について考える時には「黒人のデフォルトマン」を用意して互いに「差別される黒人の仮想人物像」について共通認識を作ることが重要と思われる。

 

重要なことは、それがいつどこの誰のような人なのか。出来るだけ具体的に細かく要素を追加して、本当に相手の「想像上の人物像」と出来る限り近い人物像を描けているかどうか確認することだ。

 

例えば私はLGBTだからこう考える。と言う時、そこには「LGBTのデフォルトマン」という共通する人物像を描くはずだ。しかし発達障害の時にはこの意識が欠如する。「この人は私とは違うのだ」ということがLGBTという語に込められた意味から察するのだ。

 

発達障害者に対する時の過ちは、ここで彼が「デフォルトマン」とするのが発達障害者という属性を持たない、ことである。

 

彼はあくまでも「普通の一般的人間」を脳裏に描いているのであり、ここに過ちを指摘できる。LGBTを語る際に「LGBTの仮想人物像」を共有しようとするのが本来あるべき「差別」問題に対する姿勢である。

 

 つまり「発達障害を持つ仮想人物像」を共有しようとしなければ「そんな人もいるよ」論になる。それは同情を装った無知を晒しているだけである。

 

重要なのは問題を語る以前に、これから話そうとする話題に、認識の形に、差異があると確信することである。そして、その差異を話題の中に溶かしてゆき、命題に対する自らの共通見解(姿勢)が正しいかどうかを明らかにすることである。

 

LGBTの人間に語る時、私達は相手の立場に立って、自分だったら、と想像してみるだろう。同様に、

 

◯◯の人間に語る時、私達は相手の立場に立って、自分だったら、と想像して見るだろう。この時に、依拠するベクトルが相対的に変わることこそが重要なのである。問題に対して、属性を加えていき、ディティールを出来るだけ盛ることによって、問題と自分の認識との相対的な立ち位置が次第に適当な位置へ動いていくのだろう。

 

この時、動くべきは相手ではない。理論が相手であれば、相手は自ら動かないのだ。学びを考える時には、動くのは自分である。著者との認識の齟齬を埋める作業を行って初めて、自分がどのような仮想人物像を共有しているのかが分かるようになるだろう。

 

相手の「デフォルトマン」を仮定する…これが上手くなれば、相手の立場に立って対話が成立する。一方で、それが上手く出来なければ、対話は同じ目線(論点・視点・テーマ…等)に立てていない以上、成立しない。