LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

マスクを忘れた現象からの推論

 マスクを用意して外出しようと思っていたのに、マスクを忘れてしまったことに気づいた。気づいたのは、コンビニに入ってからであった。当然のようにそこまでの往来でマスクを付けて無かったので、忘れていたのだが、コンビニで三密に関してふと頭を過ぎり、それで自分がマスクをしていないことに気づいたのである。

 

 その事象から分かるのは、注意をある注意で上書きしてしまう、という脳の特性である。発達障害に通底する特性なのかは分からないが、私にはこういう「不注意」がある。正確に記すなら「注意し続けることが出来ない」である。単に「不注意」と書くとニュアンスの多くが伝わらないためここでは以降「不注意」とは呼ばない。

 

 そして、その現象の例えとして私は落とし穴の話をした。

「あ、前方に落とし穴がある。気をつけねば」と注意している時、

「後ろからなんか来たな?避けよう」と注意し、行動する。すると、

「良し避けたぞ。さていくか。あっ」と落とし穴に落ちるわけだ。

 

 推測すると、ある出来事(1)に注意している時でも、別の注意事項(2)が出来てしまった時、(1)を忘れる、ということである。厳密には「無」になるというのが近い。そういう経験をまるでその時間が切り取られてしまった如く、全くさっぱり忘れ去るのである。

 

 ワーキングメモリという言葉がどこまでのニュアンスを指す言葉なのかハッキリしないのだが、仮にこれを「注意」やある思考・意志・意識を脳裏にTODOリストのように留め置くものだとする。

 

 この時、私(自閉症)は、ある「意識・認識(1)」を繋ぎ止めている途中で、別の「意識・認識(2)」が入ってきた時、(1)の「意識・認識」が消去されるのである。消しゴムで消したかの如く消滅するのだ。

 

 したがって、この現象を仮に「ワーキングメモリの消失」と呼ぶことにする。「不注意」ではなく具体的には「ワーキングメモリが消失」するのである。

 

 この特性により私は「自動車に乗れない」「自転車に乗れない」「危ないことは出来ない」と考えている。「不注意」なら気をつけていれば気付けるのかもしれないが「ワーキングメモリが吹き飛ぶ」場合には、事前に注意しているか否かは問題ではないのである。

 

 注意することが重なると、前の分から消えていくため、注意を自身に強いることが出来ないのである。「気をつけること」が成立しないのだ。本当に「気をつける」には、ずっと「気をつけろ」と念じ続けなけれならない。その結果、本来やることは手に付かないのである。なぜならば、本来やることに集中すれば「気をつけること」は意識から消失するからである。

 

 「発達障害マルチタスクが苦手でシングルタスクに向く」という言説は、恐らくマルチタスクが「WMの消失」により、出来ないため、シングルタスクしか出来ないのである。

 

 さらには「実行機能の障害や遅延」というような問題は「WMの消失」が一因としてあるものと想像出来る。健常者はある仕事について一連の流れを想像して行うものだとすれば、自閉症は一連の流れを想像して行うことが「WMが消失」するために行えず、逐次処理しか出来ないと想像出来る。

 

 健常者が「線」として働いている時、自閉症者は「点」として働いているのである。つまり「流れ作業」において「流れる」ことが出来ないのである。したがって、ここに行為と行為の間に合間というものが出来ると想像出来る。それだけのことでも「流れ」でやる健常者と「点」でやる障害者の間の作業の時間差が開くのは必然的と思われる。

 

 「想像力の欠如」とは要するに「WM」に色々な事象を同期・統合することが出来ないということだろう。WMをクラウド・ストレージと考えた時、それまでのストレージに置かれた記憶や意識は次の事象をそのクラウドにアップロードした時点で消滅するのである。

 

 したがって、複数の思考を積み重ねることに障害があると言えるだろう。短期記憶を複数持って居続けることが出来ないはずである。本来、健常者は知識をクラウド・ストレージにあげ、新たな知識をそこに共有し統合することで考えを纏めていく。

 

 私にはそうした機能が無いので分からないが、恐らくそうしたことが可能だろう。私は他人の案内でどこかへ行った時、再び、自分の力で帰ったり、そこへ行ったりすることが出来ない。そういうイメージを持てないのである。「そういうイメージ」とは具体的には「場所の繋がりを想像する」という能力である。

 

 それこそが構造化の能力である。その能力が恐らくは「WMの消失」「メモリのクリア」という認知機能の障害(無いこと)だと思う。そこは多分、1か0の世界で0なのだと思う。足が無い手が無いというように、「WMを一定の量を保持する」機能が無いのである。

 

 更に言えば、要するに記憶や意識を積み上げていくことも出来ない。AだからB、BだからCと論理的に話を展開していく時、「WMの消失」によって、Cの時点でAを忘れているし、Bも忘れかけている、あるいは忘れるため、Cという地点がどこから来た(導かれた)のか、ということが曖昧になる。経験上、少なくともA-B-Cという連結は忘れ去られていると思われる。意識はCにしかないのである。

 

 健常者はAとBの記憶が曖昧でも僅かにでも残っていて、意識が厚みを持つことが可能である、と想像するしかない…。自閉症の場合、メモを読まないと、AとBの取っ掛かり自体もまた白紙になっているのである。意識には常に1枚の用紙があるだけ、と比喩しておこう。メモを読んだところで、構造化されないため、また忘れるだけである。

 

 だから、会話のキャッチボールも前に投げた球種のことがスッカリ0(無/白紙)になっているため、それらの会話を前提にした返答、というものが出来ないのである。したがって、例えば自閉症が重い場合には会話が「オウム返し」になる、という事例も包括できよう。

 

 それは「WM消失」という認知機能の障害があるため「意識」をクラウド・ストレージ上に置いておくことが出来ないために、遂には言葉をそのまま投げ返すことしか出来なくなっている、とも考えられる。

 

 「ワーキング・メモリ」の機能がどの程度、障害されるのか、という質的な問いをあげることは出来るが、何れにせよ、具体的に障害されていると見て間違い無いだろう。要するに多くの具体的な事例が、「ワーキングメモリの瞬間的な消滅」というような認知機能の障害からもたらされている、と考えられる。「想像力が貧しい」とかいうレベルの話ではなく、これは実に一瞬の出来事・現象なのである。

 

 比喩するなら健常者は自分の考えを自分のノート(10pはある)に書いているのに対して、自閉症者はホワイトボードに書いていて、次に書く時にはホワイトボードをまっさらに消さなければならない。しかも何かしら行動すれば、直ぐにでもホワイトボードは消えてしまう。

 

 結果として、ノートを元に考えを蓄積させ構造化していく、という行為が難しくなる。

 

 ここが、この脳機能障害の問題である。普通の人が普通に当たり前に無意識にやっている構造化という高度な情報処理。それは人間が成長する上で非常に大切なものだと考えられる。

 

 しかし、その機能が自閉症の場合、障害されており、結果として、過去から未来へ自分の認識を繋げていくことが難しいのである。生きていくというのは、想い出/経験を抽象化し構造化していく、という行程を踏む。だから「人は過去の経験から学び成長していける」とも考えられる。その機能は強(したた)かさの条件なのだ。

 

 その能力が自閉症の場合、怪しい/覚束ない、かなりの度合い障害されているように思われるのである。だから、過去の経験はWMを中心に時間軸で統廃合されずに打ち捨てられ、打ち捨てられたまま未来へと進むため、経験から学ぶことが出来ないのである。

 

 結果として、精神年齢が低いとか、困難に対して脆弱だとか、人と上手く付き合うことが出来ないだとか、空気が読めないだとか、色々な問題に派生していくと考えられる。要するに「データを蓄積して上手く運用する能力」に欠陥があるために「そのデータを元にした応用的なあらゆる行動が上手く取れない」というのが自閉症の根本では無いだろうか。

 

1情報は抽象化・構造化されない。

2情報を上手く引き出して活用することも上手く出来ない。

 

インプットもアウトプットも障害されていて上手く機能していない。だから、色々なハードルに対して、自分を応用して、それを上手く飛び越えていく、ということが出来ない。

 

 ワーキングメモリというクラウド・ストレージの不調という問題は様々な生活課題に適応することを難しくしており、生活面に実に大きな影を落とす/影響を及ぼすもの…と考えられる。

 

 発達障害は4つの面の欠如した障害だ、と言われているが、実は一つの脳機能障害による「WMの障害」による、あらゆる面に影響する学習障害(インプット・アウトプットの障害)による結果では無いのだろうか。

 

 私の使っている範囲ではWMとはPCのフラッシュメモリに該当する。要するに「全てのプログラム」はこのメモリを使って機能するのである。だからこの箇所の異常とは「全ての行動」が障害されることを意味するのである。

 

 無論、ここには私たちの意識も通らざるを得ないわけである。「(意識的に)考えること」はWMというクラウド・ストレージを俎上として行われるものと考えれば、その影響が大きいことは明らかだろう。

 

 前提とする記憶が脳裏から「上手く引き出せない」「覚えていられない」「すぐに消えてしまう」という問題があるとき、私たちが「(意識的に)考えること」が難しくなるであろう、ということは論理的に明らかだと思う。

 

 WMとは「脳裏」の問題と言っても良いのかもしれない。

 

 WMに自意識の問題は絡まないと私は考える。したがって、WMがその人の意識を歪めている、とは言えないだろう。ここは重要な点である。あくまでもWMの異常は計算機(コンピュータ)の異常だと思う。

 

 私たちの今ある意識それ自体は計算機の結果ではない。しかし、学習障害に見られるように、経験から学び、思慮を深くし、見識を広げる…といった「学び考えていく過程」は明らかに障害を受ける。

 

 要するにどのような数字をインプットするのか/できるのか、とか「計算結果」をどのように処理してアウトプットするのか/出来るのか、という辺りの機能はWMを通らざるを得ないし、そこで判定されるものだろう。脳裏という俎上に上がらざるを得ない情報はそこを通らねばならない。そうした部分を経てフィードバックされた情報に、意識は影響を受けるだろう。

 

 それが単純に知能の差に至るのか、という点に関しては私には分からない。ただ、碌な経験をしない、という事態は多分招かれている。その結果を受けて、性格や行動が歪んだり、というのはあるかもしれない。しかし、性格や行動の歪みは「受け取った/受け取る情報」のせいだろう。もしかすると、そこには知覚過敏のような感受性にも影響を及ぼしているのかもしれない。

 

 その「歪められた情報」によって意識や行動が生じる。意識や行動自体は「歪められた情報」の影響を受けただけで自立していると思われる。これはそのように観測される、という私自身の主観的な判断に依る。

 

 しかし、自分が「まともな人間だ」と感じる点に関しては、私は自意識が脳機能障害とはまた別の場所に在るからだ、と思う。だからこそ、自閉症者の多くが自分のことを普通だと思っているし、また道徳性も獲得していることの証左であろう。

 

 「熟考する」等、意識的な思考に制限を受けていること、は考察から恐らくは明らかである。しかもそれはリアルタイムで影響を受けることも明らかである。それは言葉のキャッチボールが出来ないとか、想像力が欠如しているとか、そうした表象として現れている。テストでもしてみれば、その人の情報の受け取り方に何か問題がある、ということは観察出来るだろう。ただ「情報処理の仕方に問題が在る」けれども、その人の意識、それ自体が、始めから何らかのパーソナリティ障害では無いということも分かる、と思う。

 

精神障害という風に括られているが、自閉症は、実際は脳機能障害である。だからそういう意味における「まともさ」があるのは自明である。要するに自閉症だからサイコパスになったりヤンデレになったりすることは無いと思われる。個人の自意識自体が障害そのものの影響を受けて歪んでいる、ということでは恐らく無いだろうと思われる。

 

その意味では自閉症者は精神的には「まとも」であると言っていいと思う。精神的という言葉が微妙であれば、意識的には、と言い換えても良い。自意識…それ自体はまともである。ただし、普通に何かしら考えるだけでも思考の制約(障害)を受ける。

 

 経験されたことや経験することにより受ける影響等は障害される。生活上の支障が出てくるのも障害による影響である。そうした障害による軋轢がどんな場面においても生じてくることは免れないし、全体として人生に影響することも免れない。普通に生きていれば普通に障害の影響を受けているし、そうした経験から二次障害が残ったりすることも考えられる。

 

 障害があるというのはそういうことである。例えば、脳味噌だけが機械に繋がれて生かされている状態で、その人が「自分はまともである」と述べたとして、私たちはどう思うか。狂ってると思うだろうか?私は「まとも」である可能性も十分にあると思う。

 

 じゃあ、さらに推し進めて、それが「私/あなた」だった場合、私/あなたは自分が「まとも」だと思うか。あるいは正気だと思うか。私は今の私がそういう状態に置かれたならばその時点においては私はまだ「正気」だと思うだろう。後々、正気を失うのかもしれないが。

 

 発達障害自閉症というのは、要するにそういうイメージで捉えるとわかり易いのでは無いだろうか。どちらかというと自閉症というのは身体障害のイメージである。自意識というもの以外の脳機能が障害を受けている。その感覚は脳性麻痺等と通底している。知覚過敏を押し広げて、感受性や思考能力が影響を受け著しく障害されている。

 

 自分の頭で考える能力とは自意識とは別の場所にある機能なのだろう。それは携帯の中の電卓のようなものなのである。あくまで本質は携帯そのもの、である。通話機能ですら携帯の本質ではない。とは言え、通話機能が自意識だと考えても良いと思う。

 

 そういう例えで言うなら、電卓機能は壊れているけれど、通話機能は生きている、という状態が自閉症である。まぁ電卓機能が壊れている影響でもしかすると通話機能も文字化け?したりするのだろうということである。音割れとかでも良いが。

 

 その影響でアドレス帳の表記が文字化けしたりしているわけである。本質は変わらないから記憶を頼りにどうにか使えないわけじゃないが、記憶が曖昧では情報を再現出来ないため、自分の力では使いものになりそうには見えないわけである。

 

 そうした状況に生きているのが自閉症当事者かな、と思う。この辺で筆を置こう。