読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

また差別の話

頭が良い人でも知識が無ければ問題に気付くことはできない。

ニュートンがリンゴが木から落ちるのを見なければ万有引力についての発見をし得なかっただろう、ということだ。

重要なのは気付き、閃き、アイディアであって、どれだけの賢さがあっても、知識、情報が足りなければ、何らかの答えは引き出せない。

どんなに頭の良い人も地球が球体だと信じていなかった。逆説的に言うと、頭の良い人でも全てに考えが至る訳ではない。

何が言いたいか、というと権威に人格が伴うと我々は素朴に期待しがちだが、そういう道理は無いということである。

権威でなくとも、健常者はまともな道徳を備えていると思いがちで、そうでない人間は頭がおかしいと思いがちである。けれど、それは違う。基本的に道徳やまともさは教育の結果の後付けで、元から備わっている性善説的産物ではないから、知らなければ備わっていないのが道理である。

だから、重要なのは知るということであって、健常者で心身が健康なら誰でも考え方に問題が無いという訳ではない。極端なことを言えば、そもそも、まともな人なんてのはいない。重要なのは、まともだと考えている人はいるということである。というか、基本的にみんな自分はまともだと信じている。それは別におかしなことでは無い。ただし、善悪とは別だ。まともだと信じているからと言って正しい訳ではない。それは異常者も健常者も同じことである。ここで不満を感じて欲しいが;健常者はそんなことはない!と。そこで文頭に戻るが、健常者で心身が健康なら誰でも考え方に問題が無いという訳ではない

別に、まともじゃない、と思えと言う訳ではない。ただ、完全に正しい人間はいないし、成長してもやはりいないだろう、ということである。まともさ=モラルということだが、これは時代と場所によって変わるものである。

要は、地動説しか知られない時代に天動説を知っている人はいないので、皆、地動説を唱える自分が正しいと信じていた。まぁ、道徳もそれと同じである。例えば、どんなに健康で問題ない人でも奴隷を当たり前と思う社会では奴隷という存在を肯定するのが当たり前である。健康と善悪は関係が無い。そして、我々はそんなことはないと思いたがる。

逆に言うと、だから自分は差別などという悪いことをしないと信じようとしていて、悪いことを知らずにしてしまうこともあるという可能性を打ち消すようなバイアスが掛かるのである。自分が良い人である、と主張する人は、自分が悪い人である、と思わない。だが、人は生まれつき善も悪もなく、善悪は環境と流れに左右される。タバコが推奨された世の中で育ち肯定してきた人が社会の変化でタバコは悪だと言われるようなもので。その人が悪人みたいにされるが、それは別に善悪の問題ではない。

そういう人は目の前の現実に顔を覆う可能性があるんじゃないか。性善説を信じているので、自分の常識を変える必要はないと信じているのである。そして、変えることは悪だとさえ思う。恐らくは常識を変えたくないという強い抵抗感を感じる訳である。それは多分、常識が善性の礎だと信じているからだ。

しかし、常識というものは時代と環境に左右されるものだ。善性もまた相対的なものである。それらはよく吟味されなくてはならないものだ、というと何を寄る辺にしていいのか困惑するのかもしれない。存在論的不安というか、そんな感じで。だから、精神の自由とかそういう自分を守るのに都合の良い理屈を持ち出して善悪や常識が決して確固としたものではないという可能性に目を瞑ることを選ぶ。

思うに、自分は差別しない、と言っている人に対する私のイメージは、自分は善だと信仰し、よく吟味することからは目を背けている人なのではないか、というものなのだ。それは良く分からないから勉強したくないというのと同等である。差別しないと言い対等に付き合うというのだが障害に対する書籍の一冊も彼らには読む気が無いのである。

女性差別をしない、という人の中に、女性差別について具体的に論じた著書を一冊でも問題意識をもって自主的に手に取って読んだ人が割合的にどれだけいるだろう。少なくとも私は読んでいない(ぁ

私が書いたような信仰が根底にあって、自分の常識で誰とでも「それが善人なら分かり合える付き合えるはずだ」という風に思い込んでいるのである。その口で「歩み寄り」などと言うわけだから「歩み寄れる」訳が無いのである。だから、口先だけでは自分と異なる常識を持つ他者に対して論理的に歩み寄れる未来などは帰結できない。

人間の善性を信じているだけでは世界平和も他者と手と手を取り合う未来も多様性宇宙船地球号も実現される訳は無い。それはもう論理的に無理である。異宗教を全て討ち滅ぼし残った同族とだけ手を取り合う未来しか見えない。実際、大雑把に世界情勢はそんな感じにしか見えないが…。

そういう根拠のない人間賛美の信仰が理性の上に立つ賢明さを害すると思われる訳だが、それは生まれながらのごく自然な健康な結果なので、猶更、ありのままの自分やら素の自分やらを持て囃す私たちには、それが間違いだと自然に気付けない。自然な感情に逆らうということが間違いだと思うからだろう。

人間という存在に欠陥があるなどと思いたくないのである。健常者は。人間の思い描く社会は自然状態ではなく人工的に作られる理想郷なのでそういうずれが生じるのだ。理性的な存在というのは所詮、理想の人間である。理想の社会に合わせるには人間も理想に合うように知的に教育しなければならない。

実際、現実は自然な感情に逆らわなければならない状況はあり触れている。溺れた人を助けようとして感電死したという痛ましい事故なんてのは、素朴な感情からの判断ミスだ。責められるものではないが賢明ではない。中国での事件でも素朴な感情に突き動かされて犠牲を増やす事故が多かった。知識を持っていて、それを優先させれば防げたことで、人間の感情が必ずしも最善の結果を導くわけではない、ということである。

そのことを私たちは今一信用していない。だから、感情を優先させて、他人を差別し排除することになるのである。それが人間的な動物的な行動だから差別し排他する。賢明になるには理性を優先させなければならず意志の力を要する。だから集団としては社会問題として払拭しがたいのだろう。その差別しないという理性的で賢明であろう選択は不自然なことだからだ。

地動説を信じる人に対し、慈悲と思い遣りと優しさの心だけで天動説を理解させることはできないだろう。じゃあ、何が必要か、というと証明である。知識である。考えである。

差別を無くすのに必要なものが何か、というと、それは啓蒙だろう。タバコがなぜ社会から消えていったのか、と言えば、根気強い信じられないような啓蒙活動があったからである。そうした行動が必要なく誰の目にも見えないままに何時か分かり合えるなどということは無い。

自分と異なる他人のことは知識を得なければ到底理解することはできない、と肝に銘じたい。私は他人にそれを求めないが、モラルなんてものは知識を蓄えて頭を使い日々よく考えなければ到底身に付かないと心得ていた方が良い。天然に自分がそれを有しているなどと思うと永遠に更新されないので常識も含めて時代遅れになるだろう。

それらが優しさや愛という形のないもので、どうにかなると思うのは、単なる勉強嫌いの言い訳である。