LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

久しぶりにガンツを読んだので再評してみる

とりあえず久しぶりに何か書こうかな…と。

 

ガンツをとりあえず読んでカタストロフィ前くらいまで読んだんだけれど。まぁ、なんというかヒカルの碁と同じくらい画力が変わってるなぁと。初期クロノと後期クロノの違いはかなりのもの。

 

描画にはだいたい3段階ある。西君も3段階くらいある。登場初期の西君は、まぁ彼のパーソナリティ的に逆に初期の方が良かったと思う。後期の西君は斜に構えている孤立者的な感じで格好良いので逆に良くない。そもそも「カタストロフィ後の世界で力関係が変わるから何やっても良い」という考えは幼稚過ぎたし、クラスの全員を殺した罪は免れない。実際、西君はSATみたいな部隊に射殺されてるしガンツスーツや武器があったからといってそれで何とかなると考えるのは楽天的過ぎる。

 

そういう意味では和泉も考えが甘い部分がある。吸血鬼に対して良く戦ったとは言え、結果としてミッション外で死ぬ羽目になってしまった。まぁ、吸血鬼自体もよく分からない存在ではあるが…。

 

物語の構成上、どうしても「ぬらりひょん」が頂点で、カタストロフィ編は余分だった感がある。というか、カタストロフィ編に出てくるモンスターが一番強かった感があるのが微妙である。軍隊自体より、あの謎生命体の方がヤバイという…。特に謎の光を放つ敵が最強に思えた。自分はシューティングゲームとか苦手である。人間、弾幕張られたらどうしょうもないのである。カタストロフィ編はどちらかというとクロノxレイカ組の活躍が良かったかなと思う。

 

イカの死は物語上、必要だったと思うし、クロノの死もやはり必要だった感がある。でなければ、クロノの同時存在が本編後どうなるのか、というツッコミが無くならないと思うので。逆説的に考えてクロノを一人に戻すにはレイカの死(クロノxレイカ組)が必要だったと言える。

 

ちなみに新宿篇で「ガンツ。まだ俺にチャンスをくれるのか!」ってとこが好きです。

 

まぁ何れにせよ、ガンツチームのヒロインはレイカであった。物語終盤にクロノを再生してしまったとは言え、チームにかなり貢献していたのも事実である。そもそも空気読んでおっちゃんを再生しようとしてたわけで、実際にそう口にしており、機器の故障によって叶わなかっただけで責められない気がする。

 

どこまでもガンツと関わりのない小島多恵というヒロインに対して、ガンツチームとしてリーダーを支えるヒロインがレイカだったと言える。非日常におけるヒロインも必要だった、というふうに思う。そういう意味では加藤に対する杏(大阪の子)もクロノとレイカの関係に近い。日常側にいる加藤の弟とクロノの恋人(タエちゃん)という図も似ている。まぁ、カタストロフィ編においてタエちゃんが全裸で逃げまくる…という辺りが必要だったのだろうか…という気はするが。スーツどころか全裸サバイバルである。カタストロフィ編はちょっと全裸率が高すぎるのが辛い。

 

アリエッティとかを見た後だと、巨人族の道徳観はどうなっているのか気にかかる。地球人がアリエッティを生で食おうとすると考えれば、巨人族の野蛮さが分かる。哲学や道徳が発展していないのかもしれない…。

 

カタストロフィ篇において、ヒロインやおっちゃんが再生され、肉片に変えられた辺りは衝撃的だが、あの辺はレイカに対するクロノの感情の精算という感じがする。まぁ、結果としてクロノ(2)はレイカの子供に転生してしまうようであったが…(´・ω・`)

 

あの辺に対するツッコミどころは、輪廻するにせよ、また人間になるんですか…という感じである。全体的に見たときのツッコミどころとしては「宇宙人住みすぎ」である。もう3人に一人くらいは宇宙人なんじゃないだろうか…。

 

あの宇宙人たちはもともと住んでいたというよりセバスチャン側が用意したカタストロフィに向けた練習台と言われた方がまだ頷けると思う。そうではなくガンツの舞台の地球が「様々な宇宙人が間借りしてる地球」であったとすると、今度は「文明に擬態しすぎ」となる。

 

大仏とか鬼とか妖怪とか西洋の銅像とか流石に文化系のものに擬態し過ぎである。まぁ、最もその辺を気にしてはいけないのだが。ワンピースでいう「ワノ国篇(等々)」みたいなものである。まず、テーマがあってキャラクターがデザインされるので仕方ないのである。

 

まぁ、他のツッコミどころもある。まず大仏編におけるボスの脱皮である。大仏ちゃうんか!…という感じである。そして加藤の耐久が半端ない問題である。雑魚の攻撃で格闘家の首が折れるレベルなのに、ボスの攻撃をスーツが機能しない状態であれだけ耐えしのぐのは流石にツッコミが入る。

 

次に「ぬらりひょん最強問題」である。サイコキネシスを使えるのに舐めプして殺された感がある。某ドラクエのボスくらい形態が変わるのでそもそも「ぬらりひょん」が何だったのかよく分からない。ここでも全裸過ぎである。基本的に裸書きすぎである。不良も書きすぎである。

 

あとはまぁ、天狗と犬神さんがZガンのハメ攻撃を喰らって、あんまり活躍できなかったなぁ…と思った。3人で強者感出してたのに、どちらかというと牛鬼さんの方が活躍してた気がする。

 

ぬらりひょん編で面白いのは実は侍対決かな。刀vs刀という同じ舞台で戦ってるので見応えがある。まぁ、大阪編はキャラクターがラリり過ぎである。

 

あとの疑問点は、鬼星人篇である。姿を変える鬼幹部がクロノに一刀両断されてあっさり死んだので、条件がよくわからなかった。炎の敵との戦いは見応えがあったし、岩男の人も中々良かった。あの辺が風のベストバトルである。

 

しかし、カミナリ様がちょっと残念だった。都合良くスーツが機能してた感が(´・ω・`)ガンツスーツはちょっと都合良すぎである。クロノとかぶっ飛ばされても耐久残ってたし。まぁ、そのへんがモヤッとするところである。実際、ガンツ強さランキングとかでカミナリ様は装甲が薄いよね、という評価になりがちである。全人類を滅ぼすんじゃなかったんですか…。氷川(ホスト侍)も持ち上げすぎであった。

 

まぁ、気になったのはそんなところだろうか。全体として面白いことには変わりない。ドラマを作るために設定が盛られてツッコミを受けるのは仕方ないだろう。

 

 

なろうの気持ち悪さについて

気持ち悪いのに探してしまう「なろう小説」という矛盾…

最近は途中リタイアする作品が多いので、特に批評者として自分は本来、相応しくは無いのですが。という前置きをしてみる。いや、何にしても「相応」しくなければ、批評してはいけないということもないのですが。

 

さて、まずハーレム要素ですね。気持ち悪い。じゃあヒロインが一人でもキャッキャウフフしてるのは気持ち悪い。そういう共同体のあり方が気持ち悪い。

 

まぁ、どう気持ち悪いか、というのは過去に幾度か触れてるとは思いますが。ハーレムの場合言わずもがな、主人公上げの集団が形成される。他の男には見向きもしない。そのくせ、主人公は次々にハーレム要員を増やしたりもする。まぁ、これは「奴隷」所有系が流行った頃のものとも関係するだろう。要は本質的にハーレム要員というのは奴隷であり、主人の言うことに反してはならない。そして「自分たち」というグループが世界の中心と化す。そして、物語自体がその目線からしか語られることがない。「自分たち」こそが正義で、貴族だろうが王様だろうが「自分たち」より正しくない、というようなことを言う。

 

最近のなろうの過剰なタイトルにも表れているが「聖女より偉い」「勇者より偉い」「王侯貴族にざまあする」「実は隠されたチートでハーレム」等「権威者に対して如何に自分が優越しているか」という感じのタイトルが溢れている。

 

 

そこに表れているのは「評価されない自分」であろう。そして、権威者というのは必ずしも愚かではない。寧ろ、エリートというのは大抵は他者より長じている者である。例外的なのが政治等であろうと私は思う。「評価されている権威」より「評価されてない無名の自分」が実は偉い、優秀、凄い、とこういう感じのタイトル。要は社交界的なものの上でも無双する。

 

けど、それを満足に描ける作者がどれだけいるか、という話であり、畢竟、閉じたコミュニティの中の話として、語られる分には良いけど、世界が広がっている場合には、主人公が「ざまあ」するほど、頭が良い作品を見たことはあまりない。そもそも何かに「ざまあ」しようという発想自体が負け犬の発想である。

 

とはいえ「なろう作品」はそもそも「負け犬」の話であった。「負け犬」のやり直しの話であった。「負け犬」をどう調理すれば「救えるのか」という話であった。それを徹底的にやったのが『無職転生』である。『REゼロ』も同様と言える。そういう成長物語だった。

 

最近のものはそういう葛藤を失くしている。なぜかといえば愚かな主人公を書くことがストレスフルだからだろう。その結果、愚かな主人公が愚かなまま無双するという物語が量産されることになった。

 

中世王侯貴族社会等というものを設定すると、平凡な主人公がどのようなチートをもったところで、エリートと渡り合うことは難しいように思える。というより大抵は物理チートなので腕力で捻じ伏せられるだけだったりする。

 

最近読んだものでは、通りすがりに拾った哀れな女子高生が依存してきて、それに対して共依存してしまうものの、自分は外で無双している、というものがあったが。これは仕事している自分に対する専業主婦の相方のような対立では無いだろうか。仕事しているからお前より偉いというわけである。

 

非常に卑近と言わざるを得ない。発想が抑圧された自己とそれを解消する家庭というものに分かれている。それは前世紀的な家族観である。要は価値観が退行しているように思われる。強い男に惹かれる女という構図のハーレムでも良いが、そこにあるのは家父長制及び一夫多妻制というものへの退行である。

 

そうでもしないと自己肯定ができないような主人公には魅力なんてものは微塵もないであろう。そして「家族が大切」と宣う主人公も、要するにそこで自分がヨイショされるから「大切」というだけの話。「家族は自分を全肯定してくれる場所であるはず」という感じの考えが透けて見える作品が多い。

 

『REゼロ』でレムのスバルに対する励ましの描写から、レムというキャラクターが持て囃されることになったわけだが、スバルの夢というのは実に20世紀後半のイメージに束縛されているといって違いない。「家族」という概念が「情緒」という概念とか「本音」という概念だとかと理想的に結合しているのが日本の病気的な家族観だと想う。

 

「家族」というものは「他人の集まり」に過ぎない。と言ったほうが現状に近い。誰も私を肯定してくれないし、私の味方になってはくれないし、私のことをわかろうとしてもくれない。これが基本的には「家族」という概念の実際と内実だと思われる。

 

近代的自我は非現実的であり、理想の自己を追い求めさせるアイデンティティであった。言わば「近代的家族」概念というのも非現実的であり、理想主義をそこに求めたものと言えるだろう。

 

それはもはや21世紀にやるようなものではない。要は古びた価値観である。他人に自分を肯定して貰おうとしてもそう上手く行くものではない。夫婦間に関していえばこうなる。夫婦とは赤の他人である。ハーレムとは赤の他人の集合である。ここにおいて、各自依存的な態度を求められる。自分をあるいは自分たちを肯定してくれない相手は敵となる。そうした要求から夫婦というものを形成するのであればそれは必然、瓦解するのだと推測し得る。相手の自分への肯定を要請するためである。

 

そんな関係は歪だし上手くいくわけもない。アイデンティティをそうした不安定な場に望むことは賭博である。私のことを理解してくれる。分かってくれる。そういうことを究極に求めても、それは単に重い。

 

閑話休題

 

あと一つの気持ち悪さは「クズだから殺しても構わない」という理論である。なろうでは「クズ」は殺して良いことになっている。例えば野盗などは殺して良い。あるいは高慢な貴族であれ最終的には殺していいとか思っている。その価値観を要は転生した日本人なりという者が「慣れてしまう」ということ自体が冒涜的である。

 

更にいえば上述したような自己肯定感を自身が持たないような、ただチートだけ持っている人物が私刑的に敵を蹂躙する。そして、そのことが肯定される。まぁ、正直、ゲーム的なノリなのだと思うわけだが。戦争において3割の兵士がトリガーを引けない、という話を聞く。人を殺すというのはそういう問題である。個々の事例に対する善悪ではない。自身の信念の問題である。故に近代人は殺人を否定してきたのであり、故に裁きは法に委ねられる。死刑の執行もまた直接的な裁きを避けようとする仕組みである。

 

「なろう」世界でも大なり小なり法があるはずであり、私刑は見過ごされるべきものでは無いだろう。にもかかわらず「殺されても文句言えないよね?」という状況を作り出し、割と容易に主人公なりを超大量殺戮者にしてしまう。そういう主人公をよくみるが、自分の中で気持ちを飲み込んで終わり、となっていることが多く、外から指摘されることが少ない。「流石に無慈悲だろう」とか「やっていいこととやってはいけないことがあるだろう」とか、そういうことを言ってくれる人がいない。いないことで行為が正当化されていると考えてしまう。作者も話をそうした次元に広げようとしない。本質的に主人公が否定されるのを恐れるかのように。

 

まぁ、魔王とか魔族とか魔獣とか悪魔とかなら殺していいよね、という問題もあるわけだが。それは要するにゲームチックな小説であると言っていい。ならまぁVRにしておけよ、と思わなくもない。その辺の説得力をどうもたせるのか、という点に関して「なろう作品」が面白いか否かという点を左右すると思う。

 

ロトの紋章』に現れていると思うのだが、バトルものを描くことはそもそも難しい。内容が無いバトルものはすぐ飽きられてしまうだろう。畢竟、物語をよく編むことが必要とされる。『ワンピース』にみられるところである。物語の上に戦闘がある。戦闘の上に物語があるわけではない。これを逆転させてしまうと、作品は面白みを消失するように思う。

 

ただただ新しい必殺技を次々に繰り出し続けても、どこかの地点で白けてしまうのが普通だろう。だから、きちんとした物語を描くべきだし、その上で必要に応じて戦う等すれば文句はない。

 

要するにハーレムのための物語であるとか、戦闘のための物語であるとか「ざまあ」のための物語であるとか、そういう風に順序が逆転した場合、それはマッチポンプ的となり物語にならなくなっていく。

 

ドラゴンボール』が典型的であろう。バトルものが長期化するとバトルのための物語という形式に転ずるため物語性は失われる。

 

 

 

ゴーストオブツシマ クリア感想

ツシマをクリアした感想です。

 

全体として、やはりグロテスク表現が過剰であった、という風に思いますね。首が串刺しにされてたり、とか。その辺はショッキングなゲームだったかなと思います。

 

あとは護符をもっと付けたかった、というのと、確率で発生、系は選び難い。また服の変更がショートカットキー等で可能であったならば、鎧毎の特色をより活かせただろう。

 

時代劇としてどうか、という評価をされる人がいたが、私はそもそも時代劇を求めていなかったし、侍ファンタジーであることは前提としてのプレイだったと思うので、歴史的考証をせず楽しめたと思う。

 

そうしたリアルさに対する考証に関しては、概ね同意できる。西洋のオープンワールドゲーに日本のサムライのスキンをかけている。その違和感に関しては、当たっていると思う。また、私の主観だと「誉れ」を批判し「冥人」を肯定しているように思えた。まぁ、この対立自体がリアルな思想ではないという批判を受ける的となったようである。

 

とは言え、志村のいう「誉れ」というものは、西洋でいう貴族の責務のようなものである。何れにせよ、民の模範とならねばならぬ、という思想である。仁の毒による殺害と蒙古の虐殺非道は鏡写しである。「やられたからやり返す」という思想は確かに正しくない。

 

要は、毒を盛った殺害というのは原爆投下による虐殺と同じである。

志村はそれを「非道」と呼ぶわけである。けれど、効率を考えてしまうと冥人に落ちてしまう。石川先生も割と「誉れ」寄りであり、冥人に堕ちるなと警告している。一方、政子に関しては仁は「修羅」になるな、と警告している。もうひとりは典雄である。彼は僧兵であり、僧侶と寺というものもまた物語上では重要な平和のシンボルである。仁は「誉れ」と「冥人」の間で自身の立場を模索しているように思われる。そして政子や典雄の立場を戒めている。つまり、仁のポジションとしては怒りや憎しみによる非道ではなく、あくまで勝つための策を弄する、という立場であった。合理主義とも言えるが。仁の価値観は西洋的なのかもしれない。故に志村を殺すにせよ活かすにせよ「誉れ」を否定する結末なのかもしれない。まぁ「武士道とは死ぬことと見つけたり」というのは正直、誉れと関係ないと思うが…。

 

そこでは寧ろ「誇りより地を這っても生きることを選ぶ」という感じである。そういう意味では私は仁の生き様が割と正しいと思った。とは言え、志村の規範という意識も分からなくもない。重要なのは義によって動いているか否かであろう。敵討ちとか仇討ちという表現が出てくるが、これもやはり「義」の問題であろう。

 

登場人物は誰しも己の「義」に忠実であったのかもしれない。

ゴーストオブツシマとりあえずの感想

進行度はクリアはまだで多分、中盤くらいです。絶賛されてるようですが、まぁ、たしかに面白いです。日本人の表情の表現も豊かです。

 

和の空気感をよく表している。しかし、トイレはない。

 

簡単に言うと対馬を舞台に蒙古軍と戦うアクションRPGですね。典型的なオープンワールドゲームです。もうこれはジャンルと言って良いでしょう。

 

だから、ファストトラベルを増やしながら進んでいく感じですね。オープンワールド系の気楽さがありながら、しかし単調さも微妙にあります。アサクリ的なアスレチック要素等もあります。何というか収集要素を満たすのが単調なんですよね。和歌や温泉は単調です。まぁ、ただそれぞれ各々違う和歌、温泉のテキストではあるのですが。

 

スロウライフ的にあるいは一人キャンプ的にそういう遊びが好きだと公言する人もいますが私は冗長さを感じる。

まぁ、そうした単調さはあります。オープンワールドアクション特有の部分は合わない人は合わないでしょう。とは言え私としては仁王とかセキロとかのように圧倒的なボスキャラを攻略してかなきゃならない、という攻略法ありきの高難易度ボスにストレスを感じるので、オープンワールドならではのボスのどう戦っても良いという意味のフリーバトル性は私的には楽しい要素です。

 

ただシナリオ上の一騎打ちでは暗器は使えません。残念。

 

一騎打ちシステムという独特なシステムがありますが、私としては、ちょっとこう射撃の「集中」という要素のように時間を緩やかにするスキルみたいのが欲しかったところです。モーションの短い武器種によって一騎打ちが失敗する可能性は高まります。総じて反射神経が求められるため、所謂パリィが苦手な人には一騎打ちシステムは合わないでしょう。

 

まぁ、其の場合、不意打ち(バックアタック)による必殺を使えば良いのですが。戦闘の冗長さを防ぐためにジャンケン的な強弱関係が取られていて、4つの構えをプレイヤーは切り替えることで、剣兵・盾兵・槍兵・重兵という兵種に合わせた型を使い分ける、というバトルシステムがあって、これが「弱点を突く」という面白みを与えています。

 

割と速い段階でスキルは極められるようなので、極めると良いです。特に防御系を伸ばして殆どの攻撃を受け流し可能にしておくとバトルの自由度が高くなると思います。後は型を全部出しとくと良いですね。やろうと思えば隊長を盗み見て1ポイント倒して1ポイントという感じで2ポイント取れるので型の習得が早くなります。

 

まぁ、普通に進めていても何れ習得出来るので急がなくても良いですね。特に槍兵と重兵は強いです。しかしながら風の型と月の型でハメ殺すことが出来ます。そういう意味では一番厄介なのは盾兵ですね。

 

基本的に素材を集めて武器防具を強くしていくと良いです。特に短刀は最大強化すると瞬殺出来るほどになります。侍の戦い方ではないのかもしれませんが、即死させるのは慈悲深いかもしれません。

 

素材の集め方としては、鉄は蒙古軍の野営地によくあります。玉鋼等も同様ですね。竹は弓強化で必要になるので、見たら取っておくと良いです。問題は暗器のリソースを増やす強化ですね。罠というカテゴリになってますが、動物の皮が必要で、これが意識的に集めないと中々集まりません。暗器の使用回数を増やすのは、それだけ暗殺出来るわけですから伸ばす一択です。

 

動物の皮は豚?・熊・犬がドロップします。鹿や狐はドロップしません。彼らは神聖な動物なので殺してはいけないようです。従って、豚を見たら射殺し、熊が出たら射殺し、犬が出たら射殺すと良いです。その際、素材数を増やす護符を付けるのがオススメです。

 

動物系は基本的に戦い難いですが、クナイ投げとけばどうにかなります。熊は赤いガード不能攻撃を2連続してくるだけなので、2回回避して斬れば勝てます。犬は噛み付いて来たら離れる時に切れるので肉を切らせて骨を断つ感じで良いです。豚が一番厄介なので弓で集中して射るかクナイを投げましょう…困ったらクナイ投げれば大抵のことはなんとかなります。

 

あとはまぁ、長弓は優先して取ると良いです。矢は野営地に幾らでもあるし、長弓はスコープ機能があるので遠くから望遠鏡的にスナイプ出来ます。

 

そんなとこですね…まぁ、あと防御系スキルの矢弾きは特に必須ですね。覚えておけば弓兵は無力化するので。

 

 

ゴーストオブツシマで一番良いと思うのが、様々な装備に対する装飾です。買うものや装備強化で見た目が追加されるものがありますが、色々な姿を楽しむことができます。これが一番嬉しかった。日本ゲーだとDLCとかにしてしまう部分が、対馬はゲームに全部入ってるのでそういう作り込みの姿勢が非常に良いです。これにより無課金ユーザーみたいな状態には陥りません。

 

要するに、非常に作り込まれたゲームだということが分かる点、評価せざるを得ない。ただ一つ不満を上げれば、時間を進める機能が無い(と私は思うが…)ところですね。夜になるとあまり見えないので朝や昼にしたいけれど、方法がない。ファストトラベルをとんで時間を進めるみたいな方法しかない。結果として、白黒というかほぼ黒というかそんな感じのプレイをその間せざるを得ない。精彩なゲーム体験がしたいのに時間の概念があるから夜になって精彩を欠いてしまう。其の点がどうにかなるなら、オープンワールドでは随一のゲームと言っていいと思います。

 

 

 

 

 

マスクを忘れた現象からの推論

 マスクを用意して外出しようと思っていたのに、マスクを忘れてしまったことに気づいた。気づいたのは、コンビニに入ってからであった。当然のようにそこまでの往来でマスクを付けて無かったので、忘れていたのだが、コンビニで三密に関してふと頭を過ぎり、それで自分がマスクをしていないことに気づいたのである。

 

 その事象から分かるのは、注意をある注意で上書きしてしまう、という脳の特性である。発達障害に通底する特性なのかは分からないが、私にはこういう「不注意」がある。正確に記すなら「注意し続けることが出来ない」である。単に「不注意」と書くとニュアンスの多くが伝わらないためここでは以降「不注意」とは呼ばない。

 

 そして、その現象の例えとして私は落とし穴の話をした。

「あ、前方に落とし穴がある。気をつけねば」と注意している時、

「後ろからなんか来たな?避けよう」と注意し、行動する。すると、

「良し避けたぞ。さていくか。あっ」と落とし穴に落ちるわけだ。

 

 推測すると、ある出来事(1)に注意している時でも、別の注意事項(2)が出来てしまった時、(1)を忘れる、ということである。厳密には「無」になるというのが近い。そういう経験をまるでその時間が切り取られてしまった如く、全くさっぱり忘れ去るのである。

 

 ワーキングメモリという言葉がどこまでのニュアンスを指す言葉なのかハッキリしないのだが、仮にこれを「注意」やある思考・意志・意識を脳裏にTODOリストのように留め置くものだとする。

 

 この時、私(自閉症)は、ある「意識・認識(1)」を繋ぎ止めている途中で、別の「意識・認識(2)」が入ってきた時、(1)の「意識・認識」が消去されるのである。消しゴムで消したかの如く消滅するのだ。

 

 したがって、この現象を仮に「ワーキングメモリの消失」と呼ぶことにする。「不注意」ではなく具体的には「ワーキングメモリが消失」するのである。

 

 この特性により私は「自動車に乗れない」「自転車に乗れない」「危ないことは出来ない」と考えている。「不注意」なら気をつけていれば気付けるのかもしれないが「ワーキングメモリが吹き飛ぶ」場合には、事前に注意しているか否かは問題ではないのである。

 

 注意することが重なると、前の分から消えていくため、注意を自身に強いることが出来ないのである。「気をつけること」が成立しないのだ。本当に「気をつける」には、ずっと「気をつけろ」と念じ続けなけれならない。その結果、本来やることは手に付かないのである。なぜならば、本来やることに集中すれば「気をつけること」は意識から消失するからである。

 

 「発達障害マルチタスクが苦手でシングルタスクに向く」という言説は、恐らくマルチタスクが「WMの消失」により、出来ないため、シングルタスクしか出来ないのである。

 

 さらには「実行機能の障害や遅延」というような問題は「WMの消失」が一因としてあるものと想像出来る。健常者はある仕事について一連の流れを想像して行うものだとすれば、自閉症は一連の流れを想像して行うことが「WMが消失」するために行えず、逐次処理しか出来ないと想像出来る。

 

 健常者が「線」として働いている時、自閉症者は「点」として働いているのである。つまり「流れ作業」において「流れる」ことが出来ないのである。したがって、ここに行為と行為の間に合間というものが出来ると想像出来る。それだけのことでも「流れ」でやる健常者と「点」でやる障害者の間の作業の時間差が開くのは必然的と思われる。

 

 「想像力の欠如」とは要するに「WM」に色々な事象を同期・統合することが出来ないということだろう。WMをクラウド・ストレージと考えた時、それまでのストレージに置かれた記憶や意識は次の事象をそのクラウドにアップロードした時点で消滅するのである。

 

 したがって、複数の思考を積み重ねることに障害があると言えるだろう。短期記憶を複数持って居続けることが出来ないはずである。本来、健常者は知識をクラウド・ストレージにあげ、新たな知識をそこに共有し統合することで考えを纏めていく。

 

 私にはそうした機能が無いので分からないが、恐らくそうしたことが可能だろう。私は他人の案内でどこかへ行った時、再び、自分の力で帰ったり、そこへ行ったりすることが出来ない。そういうイメージを持てないのである。「そういうイメージ」とは具体的には「場所の繋がりを想像する」という能力である。

 

 それこそが構造化の能力である。その能力が恐らくは「WMの消失」「メモリのクリア」という認知機能の障害(無いこと)だと思う。そこは多分、1か0の世界で0なのだと思う。足が無い手が無いというように、「WMを一定の量を保持する」機能が無いのである。

 

 更に言えば、要するに記憶や意識を積み上げていくことも出来ない。AだからB、BだからCと論理的に話を展開していく時、「WMの消失」によって、Cの時点でAを忘れているし、Bも忘れかけている、あるいは忘れるため、Cという地点がどこから来た(導かれた)のか、ということが曖昧になる。経験上、少なくともA-B-Cという連結は忘れ去られていると思われる。意識はCにしかないのである。

 

 健常者はAとBの記憶が曖昧でも僅かにでも残っていて、意識が厚みを持つことが可能である、と想像するしかない…。自閉症の場合、メモを読まないと、AとBの取っ掛かり自体もまた白紙になっているのである。意識には常に1枚の用紙があるだけ、と比喩しておこう。メモを読んだところで、構造化されないため、また忘れるだけである。

 

 だから、会話のキャッチボールも前に投げた球種のことがスッカリ0(無/白紙)になっているため、それらの会話を前提にした返答、というものが出来ないのである。したがって、例えば自閉症が重い場合には会話が「オウム返し」になる、という事例も包括できよう。

 

 それは「WM消失」という認知機能の障害があるため「意識」をクラウド・ストレージ上に置いておくことが出来ないために、遂には言葉をそのまま投げ返すことしか出来なくなっている、とも考えられる。

 

 「ワーキング・メモリ」の機能がどの程度、障害されるのか、という質的な問いをあげることは出来るが、何れにせよ、具体的に障害されていると見て間違い無いだろう。要するに多くの具体的な事例が、「ワーキングメモリの瞬間的な消滅」というような認知機能の障害からもたらされている、と考えられる。「想像力が貧しい」とかいうレベルの話ではなく、これは実に一瞬の出来事・現象なのである。

 

 比喩するなら健常者は自分の考えを自分のノート(10pはある)に書いているのに対して、自閉症者はホワイトボードに書いていて、次に書く時にはホワイトボードをまっさらに消さなければならない。しかも何かしら行動すれば、直ぐにでもホワイトボードは消えてしまう。

 

 結果として、ノートを元に考えを蓄積させ構造化していく、という行為が難しくなる。

 

 ここが、この脳機能障害の問題である。普通の人が普通に当たり前に無意識にやっている構造化という高度な情報処理。それは人間が成長する上で非常に大切なものだと考えられる。

 

 しかし、その機能が自閉症の場合、障害されており、結果として、過去から未来へ自分の認識を繋げていくことが難しいのである。生きていくというのは、想い出/経験を抽象化し構造化していく、という行程を踏む。だから「人は過去の経験から学び成長していける」とも考えられる。その機能は強(したた)かさの条件なのだ。

 

 その能力が自閉症の場合、怪しい/覚束ない、かなりの度合い障害されているように思われるのである。だから、過去の経験はWMを中心に時間軸で統廃合されずに打ち捨てられ、打ち捨てられたまま未来へと進むため、経験から学ぶことが出来ないのである。

 

 結果として、精神年齢が低いとか、困難に対して脆弱だとか、人と上手く付き合うことが出来ないだとか、空気が読めないだとか、色々な問題に派生していくと考えられる。要するに「データを蓄積して上手く運用する能力」に欠陥があるために「そのデータを元にした応用的なあらゆる行動が上手く取れない」というのが自閉症の根本では無いだろうか。

 

1情報は抽象化・構造化されない。

2情報を上手く引き出して活用することも上手く出来ない。

 

インプットもアウトプットも障害されていて上手く機能していない。だから、色々なハードルに対して、自分を応用して、それを上手く飛び越えていく、ということが出来ない。

 

 ワーキングメモリというクラウド・ストレージの不調という問題は様々な生活課題に適応することを難しくしており、生活面に実に大きな影を落とす/影響を及ぼすもの…と考えられる。

 

 発達障害は4つの面の欠如した障害だ、と言われているが、実は一つの脳機能障害による「WMの障害」による、あらゆる面に影響する学習障害(インプット・アウトプットの障害)による結果では無いのだろうか。

 

 私の使っている範囲ではWMとはPCのフラッシュメモリに該当する。要するに「全てのプログラム」はこのメモリを使って機能するのである。だからこの箇所の異常とは「全ての行動」が障害されることを意味するのである。

 

 無論、ここには私たちの意識も通らざるを得ないわけである。「(意識的に)考えること」はWMというクラウド・ストレージを俎上として行われるものと考えれば、その影響が大きいことは明らかだろう。

 

 前提とする記憶が脳裏から「上手く引き出せない」「覚えていられない」「すぐに消えてしまう」という問題があるとき、私たちが「(意識的に)考えること」が難しくなるであろう、ということは論理的に明らかだと思う。

 

 WMとは「脳裏」の問題と言っても良いのかもしれない。

 

 WMに自意識の問題は絡まないと私は考える。したがって、WMがその人の意識を歪めている、とは言えないだろう。ここは重要な点である。あくまでもWMの異常は計算機(コンピュータ)の異常だと思う。

 

 私たちの今ある意識それ自体は計算機の結果ではない。しかし、学習障害に見られるように、経験から学び、思慮を深くし、見識を広げる…といった「学び考えていく過程」は明らかに障害を受ける。

 

 要するにどのような数字をインプットするのか/できるのか、とか「計算結果」をどのように処理してアウトプットするのか/出来るのか、という辺りの機能はWMを通らざるを得ないし、そこで判定されるものだろう。脳裏という俎上に上がらざるを得ない情報はそこを通らねばならない。そうした部分を経てフィードバックされた情報に、意識は影響を受けるだろう。

 

 それが単純に知能の差に至るのか、という点に関しては私には分からない。ただ、碌な経験をしない、という事態は多分招かれている。その結果を受けて、性格や行動が歪んだり、というのはあるかもしれない。しかし、性格や行動の歪みは「受け取った/受け取る情報」のせいだろう。もしかすると、そこには知覚過敏のような感受性にも影響を及ぼしているのかもしれない。

 

 その「歪められた情報」によって意識や行動が生じる。意識や行動自体は「歪められた情報」の影響を受けただけで自立していると思われる。これはそのように観測される、という私自身の主観的な判断に依る。

 

 しかし、自分が「まともな人間だ」と感じる点に関しては、私は自意識が脳機能障害とはまた別の場所に在るからだ、と思う。だからこそ、自閉症者の多くが自分のことを普通だと思っているし、また道徳性も獲得していることの証左であろう。

 

 「熟考する」等、意識的な思考に制限を受けていること、は考察から恐らくは明らかである。しかもそれはリアルタイムで影響を受けることも明らかである。それは言葉のキャッチボールが出来ないとか、想像力が欠如しているとか、そうした表象として現れている。テストでもしてみれば、その人の情報の受け取り方に何か問題がある、ということは観察出来るだろう。ただ「情報処理の仕方に問題が在る」けれども、その人の意識、それ自体が、始めから何らかのパーソナリティ障害では無いということも分かる、と思う。

 

精神障害という風に括られているが、自閉症は、実際は脳機能障害である。だからそういう意味における「まともさ」があるのは自明である。要するに自閉症だからサイコパスになったりヤンデレになったりすることは無いと思われる。個人の自意識自体が障害そのものの影響を受けて歪んでいる、ということでは恐らく無いだろうと思われる。

 

その意味では自閉症者は精神的には「まとも」であると言っていいと思う。精神的という言葉が微妙であれば、意識的には、と言い換えても良い。自意識…それ自体はまともである。ただし、普通に何かしら考えるだけでも思考の制約(障害)を受ける。

 

 経験されたことや経験することにより受ける影響等は障害される。生活上の支障が出てくるのも障害による影響である。そうした障害による軋轢がどんな場面においても生じてくることは免れないし、全体として人生に影響することも免れない。普通に生きていれば普通に障害の影響を受けているし、そうした経験から二次障害が残ったりすることも考えられる。

 

 障害があるというのはそういうことである。例えば、脳味噌だけが機械に繋がれて生かされている状態で、その人が「自分はまともである」と述べたとして、私たちはどう思うか。狂ってると思うだろうか?私は「まとも」である可能性も十分にあると思う。

 

 じゃあ、さらに推し進めて、それが「私/あなた」だった場合、私/あなたは自分が「まとも」だと思うか。あるいは正気だと思うか。私は今の私がそういう状態に置かれたならばその時点においては私はまだ「正気」だと思うだろう。後々、正気を失うのかもしれないが。

 

 発達障害自閉症というのは、要するにそういうイメージで捉えるとわかり易いのでは無いだろうか。どちらかというと自閉症というのは身体障害のイメージである。自意識というもの以外の脳機能が障害を受けている。その感覚は脳性麻痺等と通底している。知覚過敏を押し広げて、感受性や思考能力が影響を受け著しく障害されている。

 

 自分の頭で考える能力とは自意識とは別の場所にある機能なのだろう。それは携帯の中の電卓のようなものなのである。あくまで本質は携帯そのもの、である。通話機能ですら携帯の本質ではない。とは言え、通話機能が自意識だと考えても良いと思う。

 

 そういう例えで言うなら、電卓機能は壊れているけれど、通話機能は生きている、という状態が自閉症である。まぁ電卓機能が壊れている影響でもしかすると通話機能も文字化け?したりするのだろうということである。音割れとかでも良いが。

 

 その影響でアドレス帳の表記が文字化けしたりしているわけである。本質は変わらないから記憶を頼りにどうにか使えないわけじゃないが、記憶が曖昧では情報を再現出来ないため、自分の力では使いものになりそうには見えないわけである。

 

 そうした状況に生きているのが自閉症当事者かな、と思う。この辺で筆を置こう。

 

 

人はなぜ歳を取るとゲームをしなくなっていくのだろうか/RTAという思考訓練法

ゲームは非常に無駄が多い。RPGにせよ、多くの時間がストーリーを読むことよりも戦闘や移動といった作業に当てられる。

 

普段、仕事をしていて、休みも限られている…そういうルーチンワークが嫌な人は、ゲームはコスパが良くないから、ということで敬遠していくのかもしれない。

 

もちろん、歳をとってもゲームをする人もいる。ただ、そこに時間をかけるだけの価値を見出したい、という人は、ゲームよりも本を読むとか、自分を磨くことに時間をかけるのではないだろうか。

 

あるいは、ただ疲れるから嫌だとか、休日はゆっくりしたい、貯まっていた家事を片付けるだとか、そういう必要なタスクをこなしているのかもしれない。

 

私は歳をとってもゲームしているが、最近は、あまり時間を割けていない。まぁ、一過性の状態なのかもしれないのだが。

 

ゲームをするといっても、漫然とプレイする人と熱中してプレイする人との間の差異というものがある。前者はプレイしただけで満足して終わってしまう人で後者はプラチナトロフィーとか取るまでやり込むようなモチベーションがある人である。私は後者になりたいなぁと思う前者なのだがゲーム終了後には最近はあまり達成感や感動を覚えない部分がある。「そこにゲームがあるからプレイするのだ」という登山家のような気持ちである。

 

思うにRTAをする人たちの中にあるモチベーションのようなものを展開したときには、そのゲームの中に繋がりを発見していく面白みがあるのではないか、と推測している。そのゲームの構造を考えなければ、様々なやり込みは自律的に出来ないからである。

 

つまり、RTAをする人たちのように、あるゲームを把握しようと務める態度が、ゲームというものを楽しむ中では大きい違いを産むのだと思う。もちろん、ゲームだけを対象にした話ではない。

 

自分の中である何らかの繋がりを持って構築されていくものを獲得するために、何らかの行為に取り組む、ということ自体が主体性を発揮し得る態度に繋がっているのかもしれない。

 

「主体性を持って取り組め」と言うのは容易い。しかし、これは「行うは難し」ということわざに繋がるわけである。何事にも「主体性を持って取り組め」というが、主体性とは何なのか、どうすればこれを持てるのか、どうやれば実践出来るのか、という点に関して「この文章から」答えることは難しい。

 

私はその一つの答えがRTAに観察されるテクニックやそれを可能にする脳内の地図(繋がりや構造、ロジック)の中に発見できると思う。つまり、彼らのようにすれば、それは結果的に主体性を発揮することになる、のだと思われる。

 

主体性というものは結果である。逆説的に観察される状態を「主体性がある」と述べており、それがあるから優れているのだから「主体性を持たなければならない」と言う。逆説というものは順番が逆なのだ。

AならばBが成り立つ時、しかしながら、

BならばAが成り立つ、とは言えないし、本質的に正しい論理展開でもない。例えば、赤ん坊→少年→青年→老人、は正しいが、老人→青年→少年→赤ん坊は、正しくない。順序を逆転した際には、そこにあった論理は欠けるのである。

 

そこにあった論理とはこの例でいうと「人はこうして成長する」という時間的な過程である。逆転すると「人はこうして成長する」という論理はそこから失われる。

 

「能力がある人には主体性が見られる」が正しい時、だからといって「主体性があるから能力がある」と考えるのは論理展開的に妥当な流れではない。つまり正しく無いのである。

 

要するに「主体性を持てば良い」という主張自体、論理的にはそう言い切ることが出来ないのである。能力がある人にとって「主体性」はその人の1側面を見ているのに過ぎない、と言うこともできる。

 

「藤井さん」や「羽生さん」や「イチロー」や…まぁとりわけ優れた一流の人たちには「主体性」が観察された、としよう。しかしながら、彼らと競争している相手方も「主体性」を持っている、としよう。では、能力の多寡はどこで差が付いているのだろうか。

 

つまり、そういう話である。主体性は逆説的に観測された、というだけの理由から鑑みると、(例えば)才能や実力を構成する要素の一つに過ぎない、ということが十分あり得るのだ。

 

また「主体性」というもの自体、何らかの現象の結果として表面に浮き上がってきた状態の観察された状態の形容、であるということも考えられる。

 

まぁ、ここで言いたいことはそうではない。そうではなく、ゲームに熱中する態度はRTAを観察し参考にすれば、再現可能なのでは無いか?という話である。RTAをする前提でゲームをしているから、その状態(高い動機やモチベーション・(繋がりや構造を考える)ビジョン)が得られている、とするなら「RTAを模倣する中で、その体験が直に得られる」と考えるのはロジックの道筋としては合っていると思う。

 

「どうすれば主体性が身につくのか」と考えるのは、恐らく問いとして正しい手順を踏んでいない。「なぜ主体性と言われるようなものがある個人に表出したのか」と問いを立てた方が真っ当な順序である。

 

そもそも「主体性」は勝手に問題だと決めつけているだけで実際は本質的な問題ではないのだ。恐らく「主体性」は行為の副産物(そもそもそれは後付された解説みたいな実体の無いものだ)に過ぎないのである。

 

要するに、抽象的な概念である「主体性」は身につけることは出来ないし、そう問う事自体がロジックをきちんと展開出来ていないという証左である。

 

じゃあ、どうすれば「ある問題」に対して心から集中していけるか、と言うと、私の解答で言えば、RTAなのである。それを抽象化して言うなれば「問題への態度(切り込み方)が結果として、そうした展望(繋がり・構造・全体把握のビジョン)を与える」のである。

 

あるゲームを出来る限りショートカットをしようと考える場合、何が必要で何が省略出来るのか、という最適化を自分なりに行う過程で、シミュレーションや計算を行っているわけで、結果として、そこには自分の頭で考えるための情報の入力、といったインプットの問題も入ってくる。そこには明らかなデータと計算された道筋、という言わば「情報を知識に変える」必要性もあり、それを試行錯誤して実証する(アウトプット)、そして最適化する、という行程が、どうしても入ってくるわけである。

 

それは要するにそのルートを通るためには「考えること全般が必須だよね」ということになる。つまり、RTAというのは「考えること全般」を必然的に課される「やり込み(ジャンル)」なのである。

 

勿論、RTAだけが思考の訓練になるわけではないが、少なくともRTAは多くの読書法において必要と言われている過程を網羅しているように見える。

 

要するに「自分の頭で考える力」が付くと考えられるのである。つまりは、RTAを一種の実践可能な知的訓練法だと捉えることが可能になるのである。

 

「考える力を養いたい」と思った時にするのは「訓練」や「修行」である。要するにどうすれば良いのか?というのは「考えれば良い」のである。という話なのだが、じゃあどうしたら「考えられるのか」という袋小路に嵌るわけだ。その回答の一つが「特訓」「訓練」すること、である。

 

とはいっても、複数の本を読んでも、具体的にどうすればいいのかわからないよ。というわけである。複眼思考だの抽象思考だの具体思考だの用語だけで実際にどうするのか、ということは問われないか複雑で実行出来ない。だから、分からない。

 

まぁ、そういう中で具体的に一つ提唱出来るのがRTAなわけである。別に教育過程でも、部活活動でも、趣味の石集めでも、芸術全般においても「考える力」が何かしら結果として高まるトレーニングを探すことは可能だろう。

 

私が言うRTAは「結果として」「考える訓練」になってしまう、というものの一つの例である。しかし、それは「主体性を身に着けろ」というような逆説で言われる抽象的でとらえどころのない課題をあてもなく考える(砂漠で一つの指輪を探すようなものだ…)よりは、直ぐに実行可能で論理にも適っているし分かりやすく、訓練可能で、結果も目に見えるし、そして多分やっていて楽しい(かもしれない)。

 

そういうゲームなら頭は良くなるだろう_φ(・_・

 

いや、最初の問立てからかけ離れてしまったが、ゲームは実に頭の訓練において有意義にもなるのだ、という証明が完了してしまったようである…。恐らく、脳死プレイしているから詰まらないのだろう…。

 

まぁ、とは言え、訓練法は一つではないはずである。私たちは何事からも何かしら学ぶことが出来るし、あらゆる物事は幾らでも深い洞察を与えてくれる。

 

重要なのは逆説というものはゴールからスタートを逆算して目指すようなもので、実際に行われる場合にはきちんとスタートからゴールを順を追って目指さなければならない、ということである。

 

「過程で見いだされ得られるもの」が得たい場合には、少なくとも順序というものが重要である、と思う。過程を逆から追うのではダメである。少なくとも、過程を1(最初)から順に終わりまで踏まなければならない。

 

 

左利きにはヌーボードが良いかもしれない

ヌーボードというのは、ノートタイプのホワイトボードである。

バタフライボードというものもあり、これもノートタイプ。

 

用途としてはメモや計算、アイディア等を写しておくとか、TODOリストを作って透明シートでチェック入れるとかが…ある。

 

考える時に書くという表現で思考を進めていくと、例えば数学の問題のように紙を無駄に使っていくことになるわけである。それは学習に必要な犠牲である。計算や思考を表したメモをいちいち保存しないのであれば、ヌーボードに書いて最後に消せば良いし、思考のログを保存したいなら写真を撮れば良いのかなと思う。

 

そういう意味でメモに積極的になれるツールになると良いような気がする。タイトルに挙げた左利きには良い、という話だが、そもそも左利きの筆記をボールペンですると、すぐにインクが出なくなってしまう、というのが問題としてあった。所謂マッキーのような油性ペンやシャープペンシルは書き心地に問題がある。何れにせよ、ざらつく感じがあって、長時間に筆記にはが疲労伴う。

 

そこでヌーボードが良いかな、と思ったわけである。これはホワイトボードなので表面がつるつるしており、そこに油性ペン(バタフライボードの細いペン)で書くわけだが、非情に滑りが良い。つまり、シャーペンのように書くことのストレスが少なくて済むし、ボールペンのように詰まらない。油性ペンをノートに使うのと、ホワイトボードに使うのとによる筆記性の違いは、普通に想像して貰えれば分かるかと思う。紙に対する油性ペンはざらつく。ホワイトボードに対してはざらつかない。

 

書き心地という点で優れていると感じている。