読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

社会

働くこと自体より、社会に出て皆と力を合わせて働く、という考えが無理なのである。

社会に出ず皆と力を合わせず働く、なら達成できる人はいるんじゃないか、と思う。

その価値観を認めない社会が発展途上なのだ。

というかそういう試みをしている場所はあるようだが、例えば「子供のための性暴力被害者の避難所」というのが全国に設置されつつあるらしいが、まだ足りないと思う。広い北海道に一か所では。

引きこもりの会社とか発達障害者だけの労働場所とか、試みは色々されているんだと思う。

だから、10年単位で、そういう選択肢が多くの人に開かれてくと思うのだが、今の時点では手が届かないのである。

だから発展途上だ、と言うのだが、明日にでもどうにかならないのなら、そういう発言に意味がないと断じる人もいるし、

今の世の中の形が全てで変わっていくこと自体を非難する人もいる。

少し前までは「団塊の世代」とか言う言葉がかなり広く見られたが、

基本的に日本の社会は塊とか団結とかいう言葉が好きだった。

そういうのは学校も同じだが、それは足を引っ張る人間を責める風潮に繋がる。

運動会とかクラス対抗なんとか、とか言う横に比べて比較したがる数々の催しは、

クラスの中に平等を前提とした序列を作る。

そういうシステムを放置して、いじめを無くすというのは難しい。

そういう問題はどこかしらで言葉にされているはずだが、ニュースとかで表に出てくるいじめ対策の話は、

だいたい対処療法に過ぎず、だから一般的に知られないと思う。

能力の無い人間は、自分の足を引っ張るな、という他者の感情を抑制させることを強いているわけだから、

耐えられない人が出るのも理解できる。

学校と言うシステムは自然じゃないし日本社会も自然じゃないが、いじめは自然なことだと言われがちだ。

日本社会は社会構造に比があることを殊の外、認めたがらない。だから個々人の問題に仕立て上げようとする。

けれど、ペットの問題行動と同じで環境を十全にすれば環境によるいじめは無くなる。

いじめ0は無理だけど、発生してから0にすることはできる。

被害者はいじめられず、加害者も犯罪者にならずに済む。

動物園に動物を閉じ込めて「これは自然な環境だ」と言ってるようなものだと考えるのは簡単だと思う。

昔は空調管理もされていなかった。多くの動物は温度差が致命傷になる。

せめて愛玩動物を飼う以上の配慮はしたらどうなのか…。

今や犬猫の飼養環境に関する知識の方が人間のものより一般的な認知が広いんじゃないだろうか…。

現在活躍する政治家の世代には家族というものに今でも拘りがあるみたいだ。

一昔前は一家が老人や親戚を含めたものだったが、核家族のイメージになり、

シングルマザーの世帯も大分受け入れられている気がする。離婚に対する世間の考えが甘くなり、結婚が生涯の契約であるという意識は薄れてきたように見える。相性が合わなければ離婚するという選択肢が昔より受け入れられるようになった、と感じる。

相性が合う相手を見つける、というのは個人の幸福に資するだろう。

ただ女性が男性に依存しなければならない社会システムで、男性が女性にその価値観を強いるのは、酷なことで、

女性側も満足な生活が送れなくなるために、結婚生活が辛くても我慢しなくてはならなかったりする。

それは互いのためにはならない。

最終的には核家族という最小単位は個人という最小単位に帰すると思う。既に子供と片親という段階にまで分化されている訳で。個人に分けて社会でサポートするという形に繋ぎ合わせた方が安定すると思う。支援するにはその方が柔軟に対応できると思う。それが親にせよ子供にせよ個人の尊厳を守ることにも繋がるだろう。

そういう常識がどういうものかは私にも分からないが。

生きる上では妥協も必要だが、妥協できない状態では自死を選ぶというのなら、社会の変化に期待するという日和見をしても良いだろう。そういう逃げ場所があっても良い。弱者の私からすると社会に生かされている面が強いので自分が生殺与奪を他人に預けていることが不安になるが、大局的には同じことである。どう足掻いても発達障害者には社会の慈悲に甘え健常者の機嫌を伺わなければ生きられない面があるので、殺されるときは殺されるとたかを括っていた方が良いのかもしれない。

なんというか、老人も似たような考えな気もするが(´・ω・`;)そういう不安を抱えていなければならない時点で社会として豊かで十分成熟していると私は思わない。良い言い方をすれば成長や発達の余地はあるのである。科学は全てを明らかにした。フロンティアなんてもう無いと言う人はいつでもいるが、その人の生活がある程度満たされているせいで世の中の不備が目に付かないのだ。

何というか、自身の中に青写真が無ければ、白紙の紙を貰って表現の自由を得られても、表現すべきものが見つからない、ということになる。自己実現と言われると何か表現したい気になるものだが、やっぱり表現したいことなんてあんまり無い。

詰まらない漫画を読んでいると、その人には実のところあんまり表現したいことなんて無いんだろうな、と思う。日常系とか。それは別にその人がつまらない人間だからじゃなくて、あまり表現したいと思えることが無いのである。

映画の一作目は面白いけど、二作目以降駄作、というイメージも、最初に表現したいものを表現しきってしまうからなのだろう、と思っている。クリエイターなんてのは満ち足りてると出来ない仕事だとよく言われる。大抵の人にはオマージュの方が敷居が低く楽しめる。同人の文化が広く楽しまれるのも、オリジナルの創作に求められる難易度が結構高いからだろう。時に報酬が労力の割に合わないと思うくらい。

だから、単純作業をするように創作をすることを求められるのは苦しい。何というか、例えば、週刊漫画なんかは余程の天才じゃないと何かのオマージュかステレオタイプの利用で連載を乗り切るしか無いと思う。それか最初に最後までのプロットを一気に考えて連載に臨んだ方が良い。

発達障害者の生活できる場を作っていくことは普通の人にも資する。労働の選択肢が広がり、少々の奇異な言動も大目に見られ、コミュニケーションを強いられることに疑問が投じられる。障害者というのは文化的な幅=生活の豊かさを広げてくれる人たちでもある。確かに働けない人もいるだろうが、間接的に多様性は人々の想像力の幅を広げて世の中を幸福にしている(のかもしれない)。勿論、経済的負担になっているのも事実だが抱え込むのが全くの無駄であるわけではない。普通の人も一見生きるのに必要のない無駄な娯楽なしに生きられない。

というかエジソンアインシュタイン、フォンノイマンなど(多分)発達障害の天才が作った功績を「発達障害者は死ね」と言いながら享受するんじゃない(´・ω・`)ぁ。パソコンも電球も世の中から無くなり今日より退化した生活に戻るしかなくなる(かもしれない)。障害者を殺し尽くしていればサヴァン症候群の作ったすさまじい作品を見る機会だって無かったかもしれない。障害者を笑いの種やスケープゴートにしていたのが他の弱者にバトンタッチだ。どれだけ無知で恥知らずなのか…|д゚)

発達障害者が自然に働ける環境を整えれば、グーグルやアマゾンみたいなものだって、誰かその辺の天才がやってくれるだろう。世の中に出れる母数が上がれば確率は上がるんだから。出る杭を叩いて杭が出てくることを期待してもダメだろう。

とりあえず発達障害者は有益だとアピールしてみた。

まぁ、スポーツ選手の活躍を我がことのように語るナショナリズムみたいな感じだが…。

自分に生きる価値なんて微塵もないと思いがちな発達障害者は少しは気が楽になるだろうか。

ある意味では世の中に不幸が無ければ人間は面白く無いだろう。働く日があるから休日が楽しくなるみたいな理屈である。毎日、快楽物質ばかり放出していては逆に疲れるだろう。少しのストレスは健康に資するとも言われる。流石に二次障害が出るほどストレスは要らないが。快楽だけで人間が幸福でいられるならば頭に一日中電極を差しとけば良いのである。

正直、鬱だからと言って薬漬けはどうかと思う。元気になるお薬ですよ、と言われても、一生飲み続けるのは悲惨な気持ちになる。とりあえず、二次障害を薬じゃなくて環境で何とかしようとする社会になってほしい。