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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

精神障害・人格障害・犯罪等への雑感

精神障害

この頃は差別と言うことについて考えざるを得ない。

STAP細胞の騒動で有名になった小保方さんは演技性パーソナリティ障害と思われる。パーソナリティ障害とは人格の障害である。人格を障害と言うのはなんであるか。人格とは性格と言って差し支えないだろう。要は「小保方さんの人格には欠陥がある」と言っているわけである。人権の侵害ではないのか。

ここで言う障害とは社会生活に支障を来たす程度のことを指している。

基本的には個人の性格について社会はとやかく言うことはないが、それが社会生活において著しく適応を欠くなど不都合の度合いによっては無視できなくなるというような話であると思う。要はSTAPの騒動のように人格の問題が表面化されない限りは問題にされないという訳である。自己愛性人格障害であろうと境界性人格障害であろうと社会生活で問題が無い限りにおいては問題とはみなされない(と解釈している)。

まぁ、個人的にはそれらは疾病であり、その人の負担になるからなるべくそうならない方が身のためだと思う。小保方さんの件で言えば、心無い人たちは「自殺してしまうかと思った」などと発言しているし実際「見守り」のようなことが理研職員によってなされていたような報道がされている。社会側が損失を蒙ると同時に本人もかなり追い詰められていることが想像されていることがわかる。

著名な例では三島由紀夫なんかも人格障害であったと言われている。いくら良い作品を世の中に残したからと言って当人が不幸であったというのは悲しまれるべきかと思う。三島にしても、太宰にしてもその結末は悲劇的であった。

さて、発達障害というのは人格障害とは異なり、先天的な脳の異常である。自閉症のカテゴリーに入るものである。知的障害を抱えるものと抱えないものとがある。知的障がい者ダウン症児のように、それは生まれつき抱えていた性質である。

発達障害者は人格障害を併発する。まだ良く調べていない話であるが、恐らくは知的障害がないために人格障害は併発しやすいのである。自己愛性人格障害などの病理は主に共感体験の欠如などが原因で発生することがあるらしく、自閉症的な性質(相手を理解し難い・相手から理解され難い)が原因でそうなりやすいのではないかと推測する。

個人的には私もパーソナリティ障害を併発していると自己診断する。発達障害とわかる以前は自分のコミュニケーション上の困難に関しては『アウトサイダー』のような著書で描かれるように自尊心や自己愛が関係してくる心の障害だと思っていた。要は環境の問題により後天的にそうなってしまうのだ、と。それは自我形成に失敗したものである・・と。

その時点での理解ではパーソナリティ障害とか発達障害とか言った精神医学的なものというよりは、もう少し哲学的な似非科学的なものの見方をしていたのかもしれない。フロイトの自我・超自我の話とかそっち寄りの。

ニーチェニヒリズムや超人の理論なんかも結局のところ人格障害としての知識が当人に欠けていた結果として、個人的問題の解決を思索した結果、所謂、呪術的思想を拗らせた結果のように見える。当人は自身の人格の抱える孤独や虚無感などの欠損をどう埋め合わせれば良いのか、と考え続けたのだと思う。なので、私はニーチェに親密感を抱く。それは私の誤解であるのかもしれないが。

こうした人の特徴は自分の内へ内へと潜って行き思考を深めようとするところにある。基本的に身の回りにある判断材料を用いるしか無くなるため個人の問題は神教の問題などとも紐づけられる。そうした人間は自分の殻にこもりがちになるため哲学的になり易いだろうと私は思っている。

発達障害者は人格障害を抱える可能性が高い。併発している場合、両方の特性から蔑視される可能性がある。踏んだり蹴ったりである。

統計的に発達障碍者の犯罪率が高いとかそういう話はまだ聞かないが、事実としてはあるんじゃないかと疑ってしまう。精神障碍者全般に言えることだが、周囲の無理解や暴力によって傷つけられ、結果として悪循環に陥ってしまう確率が定型発達者よりも大きいのではないだろうか。そういう意味において、精神障碍者が差別されるだけの根拠はあり得る。

「世の中には根拠のない差別はしてはいけない」「同じ人間なんだから差別してはいけない」みたいな言葉はあるのだけれど、差別されるだけの根拠を持っている人たちに対して差別してはいけないという言葉はあまり聞かれない。女・子供・老人・障害者には優しくしてあげましょう・・・みたいな話は聞くけれど、そこに精神障碍者は入るのだろうか。

とりわけ、普通の人と見分けの付かない発達障害者は、そこには入らないような気がする。まぁ、最近は「アスペ」という言葉が流行って白い目で見られたり、「メンヘラ」という言葉が流行って「危ないから近寄っちゃダメよ」みたいな風潮はあるのだが。

世の中には「真面目系クズ」なんて言葉が出てきたりしているが、これは大抵の発達障害者に当て嵌まる問題だろう。障害者と認知されておらず、自らも障害者だと思っていない人たちなんかは「真面目系クズ」という差別から抜け出すことは困難かもしれない。この問題も何れはカテゴライズされて、人格障害や何かと同じように理解され「仕方ない」という言葉の中に包含されていくのかもしれないが。

普通の人たちは普通の人たちの中で序列を付け、バッシングできる対象を見繕っているように見えるが、現状、普通の人の枠の中に入れられてしまっている「弱者」の人たちがその役を買ってしまうという構造になっているようだ。一番辛いのが普通の人であるというのは、このような話であるのかもしれない。差別して貰えないために差別される、というか・・。特別扱いして貰えないために攻撃の標的になるというか・・。<普通>の中にいる弱者という存在が最も(?)悲劇的なのでは無いか・・と私は考えてしまう。

・・・

人格障害などは、小保方さんに見られるように露見してから対処されても、もう手遅れであったりする。彼らが弱者であることに変わりは無いであろうが・・・。東北の震災で原発の問題が露呈したみたいに、起こってしまってからでは手遅れになってしまうケース。

STAPなんかはまだ人死にが出ていないから良いものの、例えば、オウムサリン事件における浅原などもその生育歴を辿れば弱者であったことがうかがわれる。こうした人たちは自分も含めて環境的要因によってそうならざるを得なかった人たちである。そして、社会は浅原を許さなかった。

私は自分自身が弱者であるから、人道的見地から死刑制度には反対する。正直、殺してしまった方が更生にかかるコストを考えると安上がりなのはわかるが、それをしてしまうと失われるものは大きいのかもしれない。そもそも更生なんてことは不可能に近いのかもしれないし。そうでなくても非常に根気のいるプロセスであることは想像に難く無い・・というより想像を絶して気の長い問題であろう。絡まって雁字搦めになった糸を解くことは容易ではなく、切断してしまった方が良いのかもしれない。但し切断してしまった部分は捨てなければならず、その分、糸は短くなる。

もし過去に行けたなら、必要な知識と力を持っていたならば、浅原を救いオウムなど作らせないということは可能であるかもしれない。まぁ、実際には過去には飛べず、彼はカルトを作り社会を破壊してみせたわけだけれど。

過去には飛べそうにないので、重要なのは未来の浅原を作り出さないことであったりする。つまりは、救われる子供(大人であっても)を増やすということである。

例えば、自分がレイプされたとして、散々な拷問にかけられて苦悶の内に死んだとする。遺族は犯人に死刑を求めるだろう。というか、昔で言えば「私がされたようにお前も苦痛を味わって死ぬべきだ」というわけである。目を抉られたなら、相手の目も抉ってやれ・・というか。そういう罰のあり方が昔にはあったらしい。

ネトウヨなんかは殺人鬼が出ると直ぐに死刑にしろと喚き立てる。まぁ、被害者遺族もそういう人は多い。ただ、時々はモラルを持った人たちは「罪を償って欲しい」と発言するに留める。民主主義の多数決制に任せていると、大抵の人間は死刑になってしまうんだろうな、と思う。

例えばの話、サダム・フセインが死刑にならなければならなかった意味が私には分からない。責任を取って死ぬという概念は日本人には馴染なものであるが・・・。

私は憲法九条を守ろうとする人たちの中で「戦争をするくらいなら殺された方がマシだ」という人がいるというのを聞いたことがあるけれども、それは違うと思う。人を殺してはいけないと言っても、正当防衛による仕方の無い殺人は認められている(のだと思う)。そして、それを認めなければされるがままだろう。

だから、私たちは罪を犯した者を牢に閉じ込め、手におえない精神障碍者をロープで結んで拘束したりする。最近の話では授業中に話すのを止めない生徒の口にガムテープを張り付けた教諭が問題になっていたような気がする。

相手の生い立ちに同情し、かつ、自分たちの社会を破滅させないためのシステムを考えなければいけない。私としては減刑無しの終身刑が最高刑としては適当だろうと思う。その中で場合によっては人道的な見地から安楽死させることも止むを得ないと思う。禁固しておくことさえ出来ないとか・・・。

刑務所に入ったことがないので、日本の刑のシステムがどのようになっているのかは分からないが、死刑制度なんかは、遺族の復讐のためにあるような気がするし、刑も更生させる気なんてそもそも無いように思えてならない。そういう問題に対処するだけの社会的な余裕が無いのかもしれない。まぁ、その辺については私自身の考えが全く足りていない気がする。

根拠があるような気がする差別の問題にどのように対処していくかという問題である。

歴史的に見れば、精神障碍者なんかは基本的に迫害されてきているし、その根拠もありそうだ。役に立たないと言えばそれまでだし、狂っている人も中にはいるかもしれない。

身体障碍者なんかは良く人格が良いことを期待されてしまうが、欠損のバランスがそのようにどこかで都合よく取れるということはない。

その現実を踏まえたうえで、差別するなと叫ぶことは、要するに優遇しろと言っているのにも等しい厚かましいことである。天のパラメーター配分明らかにおかしいから何とかしてくれ・・・と。障がい者とか子供とか女とか老人とかカテゴライズされる人たちは「仕方ないな」と匿って貰える。一方で、そんなわけだから、普通の中にいる弱者の人たちが憎悪を向けてくることは当たり前で理解できる。例えばワーキングプアの人が生活保護者に向ける憎悪感情など。

とまぁ、こういう問題に関して考えてみたりすることが多い。