LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

動物と飼い主と差別意識

youtube等で愛玩動物の動画を良く見るのだけれど、彼らに台詞をアテレコしている飼い主とかを見るのがキツイ。写真に文字を振ってアテレコするのも厳しいけど。動物の動画なのに飼い主の方が目立ってどうするのか…。多分、あれは動物じゃなくて自分を見て貰いたいんだろうな…と思ってしまう。

よく赤ちゃん言葉で接する人がいるけれど、あぁいうのは動物を舐めてると思う。犬や猫は賢い。可愛がるというのは、可哀想に思うということで、相手を自分と対等に捉えていないのかもしれない。自分の庇護下においてそれをアピールしたいのかもしれない。

あぁいう動画は自分の気持ちを押し付けているように僕には見えてしまう。それは自分の常識や道徳感情・物の見方を相手に押し付けてる訳である。動物にさえそういうことをする人間を僕はあまりよく思わない。犬猫に人と同じようなリアクションを求めようとする訳である。なぜそんなことが必要なのだろう…。

自分と同調してくれないと面白く無いのかもしれない。翻ってそれは、自分と違うものに対して寛容じゃないと思う。そうなると自分と違うから拒絶となりがちで、違いを理解する暇が無いという風に思える。共生は妥協である。これは何度も立ち上ってくる問題だが、自分が理解されたいならまず相手を理解しなければならない。とか、自分が愛されたいのならまず相手を愛せなければならない、とかそういう話かもしれない。

アイドルに憧れる子やニコ生主、youtuberなど配信者に予想される性格は強い承認欲求だろう。全員がそうだろうとは言えないが、ある種の動画はそれを通して自分を見て欲しい、という風に思える。自慰動画など突き抜けて露出しているものは特に認めて貰いたいという欲望を動機として感じる。所謂、汚い部分も全て認めて欲しいとか、そういう話のような気がする。例えばヌーディストはそういう人々だろう。局部のアートなどもそういう傾向がある。

「なぜ隠さなければならないのか」という訳であろう。それは正当そうに聞こえる言葉だ。でも例えばの話、企業が技術を隠さなければならないのは、それが利用される可能性があるため…だったりする。肖像権なども同様だ。児童ポルノ法も子供の性が悪用されることを防ぐために隠している。隠されているのが爆弾や毒の作り方ならどうだろう。「なぜ隠さなければならないのか」という台詞が今度は正当性をもって聞こえるだろうか。

ひぐらしの鳴く頃に」で主人公の圭一は仲間に「隠し事をしてはいけない」と言って、知られたくない過去を暴露するシーンがあるのだけれど、仲間たちは「どうしてそれを話したのかな」と聞く。私たちだって隠し事の一つや二つあるんだよ、と。人には知られたく無いことの一つや二つ。隠し事はいけない、と言ってしまうと、今度は隠すこと=悪になってしまうだろう。

僕なんかは水泳の授業で上半身を露出することが嫌だったし、ブルマなんかも女子の中には恥ずかしいから嫌だ、という人がいる訳である。逆に隠してはいけないという話になると、それはそれで都合が悪いのだ、という話である。

ヌーディストの画像にしても出回ってしまうのを抑えられないのだろうし、それを承知で脱ぐのだろうか。