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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

イントゥザワイルドと視野狭窄

また社会的問題としては、アスペルガーの人は視野狭窄になる上に、特定の人を理想化もするので新興宗教などに嵌りやすい点が挙げられる。教祖のカリスマ性に嵌るのである。これは知能が高くても柔軟な判断力が欠如しているからであろう。

http://ameblo.jp/kyupin/entry-10257102725.html

はい。ブーメランを投げているのは承知しています。でも直しようが無い。不治の病だから^^;このブログを読む人は、気を付けてください。私には柔軟な判断力が欠如している、と。その前提で記事を読んでくれますように。

ある精神科医のブログだが、こんな風に書かれている。発達障害者は論理性・一貫性を立てるのは上手いが、情報が限られ、一面的になりやすい。物事は多様な側面を持つが、一面で判断を急ぎやすく、そのため、一面の真実として正しくても多面的には妥当な結論とは言えない、ということをよく言うかもしれない。難民が400万いたら400万受け入れるべきだ!と叫ぶ者もいるだろう。

だから、極左的なグループに入ったり、シーシェパードに入ったりと極端なことをする。一面の正しさだけを見てそれを真実だと思い込み行動に移してしまう短絡性がある。映画『イン・トゥ・ザ・ワイルド』の少年の心理は発達障害者的な発想だと思う。私も以前彼と同じ結論に至ることがあったからだ。

人間よ原始に帰れ、という発想だ。このように思う主人公は大体社会というものから取り残されて孤独を感じている人間である。彼らが唯一慰められるものが自然である。サルトルヘミングウェイも戦争の極限状態の中に生の希望を感じている。ヘミングウェイは特に自然の容赦ない理不尽な強さの中にそれを見出す。基本的に『イン・トゥ・ザ・ワイルド』はニーチェの超人思想である。彼はその自然帰依的な行為によって人工的な誤った社会の中から離脱し、真実の社会の中で自分の中の非現実感、孤独、絶望が癒されることを期待している。

正直なところ、それで自分が死ぬことは半ば以上分かっていたはずである。それでも現実社会の中では視野狭窄的な思考もあってとても生きていられない、あるいは、死後の世界を生きている、という風に感じているため、生きても死んでも構わないという状況に置かれる。だから、生死を問わない冒険に賭けに出ることに躊躇いが無かったのであろう。

結局、人間関係が素晴らしいみたいな言葉を残した気がするのだが、その結論はノスタルジックな希望であり、実際には少年の能力では果たすことはできない。だから、あのラストには現実的な救いが無い。あれは少年の期待に過ぎない。少年が社会に残っていてもやはり絶望した空虚な人生をそのままでは歩まざるを得なかっただろう。あの映画は現実に絶望した人間なら共感できるが、健常者側の多くは気の迷いだと思うだろう。

まぁ、要するに発達障害者の考えは極端で短絡に至る傾向がある、ということを当事者は弁えなければ危険である。『自殺島』や『漂流教室』の舞台設定に現代社会には無い希望を見出しかねない。

考えが出鱈目なのではなく、見える範囲に障害があると言うべきだろう。受容器の性能がパソコンか携帯くらい違うと考えればいい。計算機のシステムは恐らくそんなに問題ないはずだが、スペックに大きな差があるから、回線速度や閲覧制限が付くのである。

ウィリアムズ症候群のような認知の歪みが発達障害にも程度の差はあれ現れるように思える。

そうした人格の奇妙な歪さは専門家も否定しがちであくまで人格障害と無関係のまともな人間と扱いたがる傾向が見える。けれど、ウィリアムズ症候群の優しさと他人を疑えない傾向は何らかの脳の器質的問題からそうなるのだとするなら、それは発達障害者も何か類似の器質的問題があると思える。

東大で何らかの成分が発見されたというニュースがあったのだが、

一部のコミュニケーション障害を治したところで、能力の凹凸やその手の器質的問題?が残るため、それで治療できたことにはならないと思う。それが発達障害の特効薬だなどと期待され鵜呑みにされてしまうと障害が治るものと勘違いされてしまい社会的障壁がそのまま見過ごされる結果になりかねない、という危機感を抱く。

そうなると発達障害はやはり異常で間違ったものなんだという常識が罷り通ってしまう危険がある。結局、そうしたものがロボトミー的な思想で廃絶されることになる。それは優生学的思想である。二次障害と発達障害適応障害はこれを分けなければならない。発達障害自体は治すべき病気ではない。療養もまた適応障害と二次障害を可能な限り避けるための対処である。

その辺りの偏見が解けないと、私たちは存在そのものを否定され続けねばならない。ダウン症を治せ、と言われているようなものである。結局のところ、死ね、あるいは生まれてくるな、と言われているのと同じなのだ。

その視点というのは、結合双生児に切り離されていることが当然だという視点に似ている。けれど、双子は切り離されることを拒む。それが彼らの生まれながらに自然な状態だからである。健常者側の視点には双生児側の視点が見えていないのである。自分たちのようであるのが当たり前で、彼らは自然の状態じゃない可哀想な人、であり、治療せねばならないというのだから。

その視点自体がマジョリティ側のエゴによるものだ。そういう視点に立てなければ人道主義を理解できない。同性愛者に対する理解も同様に本質的には進まないはずである。同性愛が治せたとして、それを治療しない権利も彼らは主張するだろう。それが彼らの障害であっても切り離せない個性であるからだ。それと同じ権利を主張することが当然であるという感覚が発達障害者に対して広く認められなければならない。

障害でも個性であるという考えは、まどろっこしいので、そういうことすら勉強していてもいまいち何のことだか区別できない人がいる。今の市民感覚では、そういう主張の意味が中々理解されないのではないかと思う。

生存権がやはり(働く意欲の無いひきこもりでも)誰にでも当たり前に社会の中で感覚的に認められるようでなければだめだと思う。そうじゃないとあらゆる個人が生存権を主張し正当化することもできないのである。

難民問題はそういう意識を社会に投げかけていると思う。難民もその中には当然、マイノリティも含まれる。

私の先入観では難民というのは、一定の能力があるまともな健常者であることになってしまっている。

わが身を振り返り、難民と言われた時の意識が、それではやはりマズいのだと思うのである。

難民という群衆が多様な者たちである点を一目に理解して、その上で受け入れ可能性を考えるようでないと私の常識も貧しい。

・・

発達障害者にとっての社会的障壁とは何か。『アウトサイダー』の社会不適合者は

かような情勢のもとにあっても、一般大衆の熱狂にけっして感染しない人間である。あるいは、彼は、世紀末までユートピアが確立されるということが見えぬほどの近視なのかもしれない。が、何はともあれ…

アウトサイダー」は、(カミュサルトルのごとき)虚無的なペシミストになることはできない。彼には、あやまっているのは人間性であるとは信じられぬのである。そのような病的な教理は、合理主義によって完全に否認されているからだ。逆に彼は、自分一人だけがあやまっているのだと信じねばならない。

p75『アウトサイダー

要は、左利きにとっての右利きの社会、同性愛者にとっての異性愛者の社会、と同じである。

同性愛者にとって異性愛者の社会の熱狂にどうして感染できると言うだろう?かといって、異性愛者が間違っているというのだろうか?周りを見回してみて自分以外は異性愛者である。つまりは、どちらが狂っているのかと考えるなら、それは明らかだ。

これを社会的障壁によるせいだ、と考えてみる。左利きの人間は右利きの社会でやっていけないのは「左利きの道具が無いからだ」と考えた。そして「左利き用の道具」を作った。それまでは出来ない(感覚が到底違う)右手で無理やりに書かされた挙句に精神的外傷を負わされた。同性愛者は同性愛はなぜ結婚できないのかと主張し、同性愛者同士が結婚できるような制度を新たに作り上げた。健常者はこの間、それはわがままで健常者に合わせろ、というものが多かったのである。どれだけの同性愛者が悩み自殺に追い込まれたか。

その粗方の健常者の酷薄な様を観察したアウトサイダーの一人は「この世界に救いは無く人間性は救いようが無い」と考えたのだろう。しかし、それは健常者の人間性の問題というより、左利きの人間の感性が理解できない右利きの人間の感性に基づく反応である。そしてマジョリティ側の感性(感受性)だけしか存在を認めないというマイノリティに対する強い不遇である。それは多数派しかまともな人間だと認めないという(どうも自分(たち)の存在だけが絶対で無ければならず脳の障害による類型を認めない)社会の強迫観念が生み出す弱者を廃絶する過酷な現実である。

けれど今日、性同一性障害というものが認められている。性というのは脳のあり方でズレて男と女が入れ替わってしまうことがあるのだ、ということが知られるようになった。これと同じで左右も入れ替わるし、脳というものも生まれながらに必ずしも同一のものでは無いということを人々は受け入れざるを得ないはずである(但し、どうも信じたくないという考えが働くようにみえる)。それは魂というものや人格というもの対等な競争という原理を信じたくて、脳というものも異常でどうこうなるものだということが受け入れがたいのかもしれないが……。

健常者の個々人の人間性が性悪的で狂っているのではなく、社会構造として、そう行動するように誘導されている。例えば、それはいじめられっ子を助けると自分がいじめのターゲットになるという構造がある等、健常者側も生き残るために合理的にそう選択せざるを得ない状況に置かれているように見える。排除される側にとっては足掻きようの無い理不尽な状況である。

それが社会的障壁というものだ。個々人は対処の仕様が無い。それは日本の政治システムの無責任にも指摘される問題である。責任の所在が有耶無耶にされるために構造に問題があることが分かっていても、誰も対処に踏み切れるものがいない。権利が無く誰がその権利を有するのかも分からない。巻き込まれる者にとっても理不尽で誰を責めようもないから、この世を呪うしか無いのだろう。そういう構造に対して異を唱え変えねばならないと声を上げるのはリスクが大きく実にわけの分からない仕事だが特に巻き込まれる人間にとっては生き残りをかけた急務である。

同性愛を笑う者は発達障害性同一性障害、左利きのように、脳の機能的な問題が原因でそういう性格的変更が起こるということを理解していない己の無知を露呈しているのである。その程度の知識がある人間は本当の意味で同性愛に偏見を向けたり笑ったりなどしない。笑える人間が馬鹿だったのだ、と自らの不明を恥じるだけである。

発達障害者も「発達障害用の道具を作るべきだ」と主張するのだが、必要ない、予算が無い、と却下されるのが現状と考えるのがしっくりくる。要は刑務所でプリンにスプーンがつかないようなものだ。これも健常者からみて、その感性が理解できないために必要ない甘えるなと言われるのだが、弁護士はそれが社会に利すると信じると答えていた。直接関わり専門な知識が無い人間には必要性が分からないことというのは多い。

マイノリティはその数の論理から孤独になりやすい。発達障害者の確率は5%程度と言われるが、100人のうち5人程度だとすると30人のクラスに1人か2人ということになるだろう。全体で同類を探すことは難しく、自分ひとりだけだ、と思わされるという構造がある。見た目で判断も付け難い。したがって自分だけが世界に取り残されて何か間違っているのだという印象を持つ。

その結果と社会的排除という孤独と苦痛が『アウトサイダー』のペシミズムと虚無感の土壌だろう。発達障害者同士仲良くという者もいるが、既に「老々介護」と同じと私は批判した。同じもの同士仲良くできないのはコミュニケーションの障害が2重になるだけであるから更に分かりあい難いというのが当然の帰結だ。

したがって、同類がいたところで同性愛者のように(?)同類同士仲良くとは中々いかないものと思われる。だからこそ、100人に5人程度いたところで互いに気づかず付き合えず手を取り合えず孤立するのである。こう言った状況では、ユートピアの確立も人類社会の肯定もできるはずもない。彼らにとって世界とは100%間違った場所だろう。

こうした人々が団結して自分たちの権利を主張するのは難しい。けれど、基本的な脳の欠陥に対処する際の社会的障壁の考え方を当て嵌めて考えれば、必要なのは「発達障害者に合わせて道具を作ること」である。その視点が社会に出来て発達障害者の目に入るようになれば彼らも希望が持てるようになるはずだ。