LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

正直者は馬鹿である

正直者が馬鹿を見る という言葉があり、そんな世の中じゃいけないのだ、という。

 

あるスレで「妙に礼儀正しい人に低所得者が多い」というツイッターのコメントが載っていたが、取り立てて奇妙なことではない。

 

発達障害者はルールが曲がるのを嫌う傾向があるし、知的障害者も似たような部分がある。要はここで指摘されるような生真面目さは杓子定規で、柔軟性に乏しいということを意味する。

 

柔軟性や判断能力に劣るから他人との協調性も劣るし、多様な状況への対応能力も低くなる。そういう人の収入が統計的に多くなるか、というと疑問である。勿論、一部の天才は成功できるかもしれないが。

 

他人を疑うことをしない障害が発達障害の類型にあったと思うが、こういう人達は「空気が読めない」という風に、五感に欠失があるのだと思う。発達障害の空気の読めなさやワーキングメモリ的な問題は手が無いとか足が無いというような感じである。

 

能無しなのか脳無しなのか、という感じだが、実際、私自身、本来必要な知覚がどこか失われている、という風に感じるのである。

 

私が目を通したスレは「いただきます」「ごちそうさま」の挨拶をしない、というものだが、寧ろ、何時でも何処でも「そうする」人たちにこそ私たちは奇妙さを感じるのではないだろうか。

 

奇妙な真面目さ、あるいは妙に表向きのルールに拘る人。杓子定規で柔軟性に欠ける人、頑固で融通が利きにくい人たちであることが多いのではないか、と思う。そうした人たちは発達障害的であり、自閉的であり知的障害的である「かもしれない」。

 

ならば、そういう人達が真面目であるにも関わらず、収入や社会的地位が低くなるのだとして、そうなるのは全く当たり前のことであって奇妙ではないと思う。

 

この真面目さの逆は不真面目さではなく、融通を利かせる能力や柔軟性の多寡である。状況に対処しやすいか否か、という問題であり、その能力が画一的で低いのであれば、そういう人達が馬鹿を見るというのは当たり前の話である。

 

逆に「だから」不真面目な方がいいんだ、と開き直る人も、結局は別に「そういうことじゃない」と思う。

 

 こういう人に知能が足りないと生き辛さが生じる。「生活保護を貰えば生きられる」のだとしても、そこにアクセスするだけの能力が無いから餓死したり行き詰って自殺したりしてしまう。

 

私はそうした状況こそ対処すべきだと思う。真面目だろうが優しかろうが、それで生きていける訳では無い。けれど、そういう人達が福祉や助けを求められない程度に愚かで、公私の人々に無視されて死んでしまうという状況があるとして、その現実の方が残酷だと思う。

 

能力が無い人々にとっては自由とは社会からネグレクトされる時の言い訳に過ぎないし、中身の無い箱のようなものである。

 

 能力主義の社会の専らの問題は能力が無ければ社会に参加することもできない、ということだろう。評価されれば良いだろうが一方で決して評価されないような人たちを見捨てる自己責任という言葉。成功しない人間は努力が足りないと一蹴される。

 

それは本当ではない。競争に立たされる人がいる一方、競争すらできない人たちがいる。そういう人達にとって、そうした言葉は全くナンセンスである。

 

こうした渦中に疑問を持たずにいられる人々は、個々の人間の能力を高く見積もり過ぎているんじゃ無いだろうか。