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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

猫のようなもの

発達障害者である私は自分を猫のようだと思う。

最近、犬より猫が人気だが、それは私の時代がやってきたということに違いない。

 

…勿論。そんなことは微塵も感じてはいない。

 

発達障害者の世話をする方は、我々が大抵の場合、可愛げの無い猫なのだと思うと良い。健常者と比べて愛情がそこに形成されていると確信することができないそうだが、猫が家に付くものだと言われるように、そこが居心地が良い場所であれば、そこに我々も住み着くだろう。

 

他人と仲良くなれないのは、そこに絆が形成されていると確信できないためであると、何かの本で読んだ。ラポールの形成というべきか。

 

私は恐らくそういう感覚が分からないのだが、それが築けないのだろう。あるいは私自身が他人に好意を上手く示せていないのかもしれない。勿論、単に嫌っているのかもしれないのだが。

 

実際のところ、社会適応が上手く行かないことが家族仲をも引き裂く結果を招くことは多いと思われ、その結果、家が当事者にとって「安全な居場所」でないとしたら、別の場所へ行ってしまうだろう。

 

まぁ、そのように「居場所」を求めて放浪する者もいるそうだ。難民みたいなものだろう。結果、不幸になり易いと思うが。発達障害の場合、自分自身の内側に適応できない原因があるため、別の社会に逃げても問題が解消されないということが考えられるためだ。

 

日本社会がダメだから海外に行けば居場所があるはず(逆のパターンもある)と思って環境を変えてみても、適応できないという結果になる。それは当然、発達障害が障害であり、一般の人は健常である(障害者ではない)ためである。

 

忠告したいのは自分が常にどの社会においてもマイノリティだと認識することである。私は左利きなのだが、あの社会は左利き文化に違いないと思ったら、やはり右利き文化だった、という形で失敗するわけである。あそこなら自分を受け入れてくれるはずという期待が具体的な理由に基づかないのであればそれは失敗する可能性が高い。

 

それは私は「普通」で他人が「間違っている」という前提に基づいて私が「ここ」を出て他所に新天地を求めるのであれば、その計算は間違っているのだ、という話である。

 

喩えるなら「歯が痛いのに眼科に駆け込む」ようなミスを犯している。そんな馬鹿なことをする人間がいるだろうか、と思うかもしれないが、例えば愚かにもISに行ってしまうような人というのは多かれ少なかれそういう風な見当違いをしていると思う。

 

どんな国にもそういう若者がいると聞く。そして自分の過ちを後になって悔いるのだがその時にはもう遅い。無駄な行動力と言い、トルコに渡航した青年は恐らく発達障害系では無いかと私は思う。

 

そこが歯医者なのか眼科なのか定かでは無いのに「この辺には病院が無いから」という理由だけでどこへでも行ってしまうのである。思うにそういう浅慮である。「行動しなければ何も変えられない」と思っている場合もある。「やってから考える」とか。

 

「コミュニケーションが上手く取れない」とか「頭が良く無いから考えてみても何も分からない」という理由で「とりあえずやってみる」という結論に至り易いのである。

 

発達障害者の思考的視野は狭い。私はこの世界しか知らないので、視野が広い状態を知らないのだが…。発達障害者は特に診断がされていないと進路(人生)の行き詰まりからこれを打開するべく極端な行動へ走り易い。

 

何と忠告したものだろう。冷静になれ。周りに相談しろ。極端な真似をするな。…「言い聞かせても聞かない相手にどう対処したらいいのか」という親がいたが、その気持ちは分かる。自分も周囲も対処できなかった…という経験はある。

 

まぁ、発達障害者に対しては私は「石橋を叩いて渡れ」と言っておく。その結果、何もできなくても良いから(´・ω・`)周囲が何を言っても普通の人と自分の出来を比べるべきではない。

 

思うに発達障害者たる私は「とにかく問題を起こすな」というのが社会における至上命令なのである。人生において社会において失敗作に過ぎない私が何かを成し遂げようと意気込む必要は無い。

 

「何かをやらかすな」。思うにリアルな「ドジッ娘」に求められているのは成果よりも損害をなるべく出さないことである。

 

発達障害者は天才とサヴァン以外産廃だから取り柄が無ければ価値は無いのだと意気込ませれば、0に近い可能性にでも賭けて眼科と歯科の区別も付かない猛進をするのが我々なのだから自己実現系の話で煽り立てるべきでは無い。

 

少なくとも当事者としては。

 

社会に必要な才能は健常な他人がどうにかしてくれる。一部の天才では無く大多数の凡才が社会を切り盛りするのである。何れでも無い私は彼らの話の中で、お呼びでは無い。

 

自己実現にしろ、社会参加にしろ、それは健常者の話であって、私の話では無い。政治家は全ての国民が云々というかもしれないが発達障害者は「一般国民」の勘定には入らないのである。

 

そのくらい私は自分を蚊帳の外にいると思う。仮に「凶悪犯罪者」は「一般国民」の勘定に入れて普段話しているのか?という話である。「植物人間」は「一億層活躍」の勘定に入れているんだろうか。「寝たきりの老人」は「自立支援法」で自立を迫られるのだろうか…。このくらい極端な話をしないと伝わらないと思うが、発達障害者たる私もこの勘定の枠外にいるのでは無いかと思う。

 

広義な人権の話で「そうではない」と擁護し得るだろうが、そうでは無く社会で活躍し得る年齢や層の話として。一億層活躍というが、それは勿論、例えば幼児なんか数に入っちゃいないわけで。私も数には入っていないのだと思う。それを私は数に入っているはずだと勘違いしていたのだろう。

 

そういう意味で発達障害者は同じ年齢の健常者と比べて殆ど期待なんてされていないと思う。だから、汲み取るメッセージも同じでは無い。どちらかというと老人が迷惑をかけるから姥捨て山に自ら行くか否かみたいなレベルで悩むだけ…。

 

外から受け取るメッセージが他人と同じ自立を要請するためだが、自分に期待し過ぎていると思う。健常者と同じレベルで期待するべきではない。それは自分の現実に見合う期待では無い。

 

健常者と同じように活躍できるべきだ、とメッセージをよく受け取るが無理だと思う。それは誤った無理解なメッセージで他人と強調する能力が害されている以上、同じようにはならない。そこで頑張ってみても無駄に苦しんでいるだけでは無いのか…。

 

無理解な健常者社会からのメッセージをそのまま受け取って解するのは間違う可能性が高いと思う。かといって自分の考えではしばしばアクロバット飛行を慣行するわけなので、私は期待を受け取らない。だから期待を受けるべきじゃないと思う。

 

目の見えない准教授が健常者と同じ職能を求められて大学を訴えていたと思うが、大学側は同じ活躍を期待する時点で間違いだと気づくべきだと思う。そして大学の出した答えは事務職への異動。それはあなたは活躍しなくていいですよ、ということでしょ。

 

今の社会は特に精神障害者にとっては、それが仕方ない、という話になるだろう。身体障害であればある程度補助の見通しが付くから不服を訴えられるが。精神では難しくなる。

 

今の社会は私に何か期待してもそれをサポートできないと思う。結局、あなたは要りませんよ、と言われるのがオチであろう。