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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

理解できないということを理解すること

同性愛に関して、理解できないということを理解した方が良い。

そういう感覚が分かるかどうか。

私が異性愛者だから同性愛を理解できない。

理解=共感として使われている…というか。

同性愛には共感できないということを理解した方が良い…か。

 

同性愛者に共感する必要性も共感できる必要も無い。同性愛者もまた共感して欲しいと言うかもしれないが、同性愛者自身が異性愛者の感覚に共感できないのと同様に、異性愛者もまた自分(同性愛者)の感覚を共感できないのだ、と理解してみてはどうか。

 

「忌避感情」や「理解できない感情」が分かり易いから例として同性愛を使っただけである。

 

発達障害者の自分としては自分の障害に関して理解できていないということが理解できていない、と思う。だから自分自身も「克服」や「治療」と言うし「変わりたい」「変えたい」と言う。

 

けれど、問題があっても「変えられない」という程度は同性愛と同じ程度では無いかと思う。異性愛者は同性愛を「変えられないもの」として理解しているが、発達障害について「変えられないもの」と見做さず「治療」の対象にし続けている。

 

その態度の別れ方は健常者や社会の都合であり、同性愛者や発達障害者の都合では無いのだ、ということ。

 

だから「変わりたい」「変えたい」という発達障害者を私は可哀想に思う。同性愛者が「変わりたい」「変えたい」というのと同様である。

 

本来そこに境界は無いという意味である。本来、受容されるべきものが否定されているという話である。

 

自身の容貌を嫌うように。脳がこれじゃ嫌だと嫌う。同性愛者は「発達障害と同じにするな」と言うかもしれないが…。

 

 同性愛者を異性愛者にしよう、とか、なれ、というような「治療」が、発達障害者にも同様に強いられているという現実がある気がする。

 

それは治療という言葉が誤解されているからだと思う。一方で発達障害の「障害」を「治療しよう」と試みている分野もあるからだろうと思うが…。

 

「引きこもり」を認めず、社会で労働できるように発達障害を「治療」しなければならない。それは強制労働と言わないのかな、と思うわけである。基本的にやっていることは戦争中、ストレス緩和のために兵士に麻薬を投薬するみたいな話と同じわけで。

 

働かなければ投薬はいらないという人もいるわけで。知り合いには、薬を飲みながら何とか働いているという人がいる、そんな状態でも働かなければならないということが「当然」みたいなノリがあるわけである。 

 

きっと健常者たちは、そういった現実を批判されて初めて「俺もそう思ってた…」とか言い出すわけである。彼らは自分からは言い出せないし、言わない。そして空気に同調して問題視さえしていないかもしれない。言われて初めてそんな気がしてくる。

 

薬飲まなくてもいい自由みたいなものが欲しいな、と思う。精神物質が健常者と同じくらい出ていないとダメらしい。要するに健常者と同じ脳じゃないと働けないと生きていてはダメなのだ(-_-)不規則な生活を送る自由も無いから眠剤も飲まないといけない。

 

働かなければこの脳でも私は生きていけるが、それではダメだから、脳味噌を変えなければならない。

 

というのが発達障害者の置かれた状況であり、したがって「治療」の対象にされてしまう。世の中は、そこまでして誰でも働かせたいらしい(´・ω・`)

 

同性愛者に置き換えれば、治療をしてでもみんなが子孫を残さなければいけないから異性愛者にならなければならない、みたいな理屈である。

 

目が見えない人は見えるようになることが幸福である、みたいな。健常者がデフォルトだと思ってるからそういう理屈になるわけで。少なくとも先天的な障害者は障害者であることがデフォルトだと思う。

 

そこに社会の都合(不都合)が合わさって加味された結果、障害者はこのままが良い、と言っても排除や治療の対象になってしまうわけである。

 

結合双生児にも同様の問題が見られた。健常者は健常者の自分こそ正しいという感覚から、彼らが切り離されるのが幸福だと考えるわけである。

 

私的には生物のデフォルトはモンテカルロ法のようなものだと思う。総当たり方式。結果的に淘汰の理屈でその環境に強い安定した生物が生き残ってきただけ。健常者というのは地球のこの環境において安定して生き残ってこられた人の遺伝子配列であるだけ。

 

だから、マイノリティが生きて行くのに向いていなかったからと言って、だからこそ健常者こそ正しい人の形と主張することが正しいわけではない。勿論、だからマイノリティが正しいわけでも無い。

 

生物にこれこそが正しい形なんてものは無い。だから、現在の健常者の形を宛てにして、正しく無いものを人工的に淘汰するというやり方は当てにならない。

 

とは言え、多様性が何でも正しいとは私は思わないが。多様性というのは淘汰される前提であって何でも生き残れるわけでは無い。どちらかというと死を前提にしている。

 

人工的な淘汰というのは積極的な遺伝子組み換えみたいな話である。ブリーディングであって恣意的で何らかの問題を抱え込みやすい。そして、最早、優生学ですら無くなる。優生なものを自ら作ろうとするスタイルだろう。人工知能に怯えるように自分より優れた人間に怯えるというスタイルである(´・ω・`;)

 

そうなると最早それは人工人間である。

 

結局のところ、死ぬことを前提にして生物は生まれてくるのだから、それに対して正しいの正しく無いのと言ったところで仕方ないのである。社会的な正義の話、以上のものにはならない。

 

だから、発達障害者を「治療」してまで働かせたいという社会のあり方は、それを現代社会が是としているという話にしかならないのだろう…。社会的な問題に苦しんでいても生物的に「治療」されなくてはならないという問題である(´・ω・`)

 

敬虔なキリスト教徒であれば拒否りそうな問題である。

 

「ブスに人権は無い整形しろ」→「ブスにも人権はある!」

 

みたいな。発達障害者は積極的に「治療」される(´・ω・`)

 

→「ブスですね。見苦しいので整形しましょう」

 

という感じのノリである。

 

勿論「先生、私、ブスなのが辛いです…」と訴えるわけだが。まぁ、だから社会で辛く無いように整形されてしまうわけなのだろうが…。

 

社会の側で融通を利かせて貰える範囲が狭いというか、言われているのは「狭くなった」という感じだろうか。