LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

ナイトメア 悪夢

悪夢を見た。

小さな上手くいかないことが増えて、色んな人たちから私のミスを指摘される夢。でも、やはり上手くいかなくて、空回りしていた。

 

頑張っても頑張っても空回りして、必須で地味な作業すら理想には届かない。そもそも理想に届かせる過程すら想像してられないのだろう。その結果、間違った方法から正しい方法へ徐々にシフトチェンジしていくことが、どれだけ繰り返しても上手くいかないのだと思った。同じところをグルグル回っている。

 

そして、そんな無様な自分自身を映しだされることが私の悪夢なのだ。経験そのものが失敗体験が降り注ぐ夜。やはり、私は他人様に影響を及ぼすような作業をやらない方が良い…と思わされるのだった。

 

成功体験が足りない…というより、成功体験に向かって自力で軌道を修正していくことが出来ない、という感じがする。

 

これは「想像力の欠如」による問題なのだろう。良い想いをするには…?という打算を打てない。結果、散らかした汚部屋になったり、やろうと思ってやらなかったりすることが多いのかもしれない。

 

理想という「お手本」を頭の片隅に置きつつ、作業を行う…ようなことが出来ない。WM(ワーキング・メモリー)の問題もあるのかもしれない。

 

あとは、他者の指摘を柔軟に受け入れることが出来ない、ということだろう。どうしても反発して、受け入れられなかったりするようだ。todoリストや、日記や、スケジュール帳に家計簿なんかをやってみては放棄されていく。

 

私はスクラップブックというソフトウェアを使っているが、これも大抵、既に、どれが目的のドキュメントなのか分からなくなる。整理整頓がなされず、混沌と化す。

 

規則的で無い、ということは、規則を作れば良いと思われるかもしれないが、それは一つのルールで縛るということだけを私に要請するだけで、私自身が規則を発見し、規則を編み出し、規則に則って事を為すことができるようになる訳では無い。

 

数学の応用問題が絶対に解けない人のようなものではないだろうか。不器用と言われたことがあって、器用に何でもこなす人とか、要領の良い人とか、頭が良い人を発見して、自分と見比べる。

 

そうすると、やはり根本的な何かが私と彼とで異なっているように見受けられる。それは個性というものでは無くて、機能が無いといった感じである。そのことで成功体験から活力を得ることが出来ない…とか、日々を生きることの糧のようなものが見つけられなくなるのだと思う。

 

それが結局は鬱病になったりする。日々を健やかに生きるバイタリティ(体力)をどうやって人々が養っているのか…最近の私はそういうことが良く分からなくなった。

 

人間は昔から良く働いてきた。その働く歴史の中に自分を挿入することが出来ない。ある自殺者の言葉だが

 

・ハッピーで無いのにハッピーな気持ちは分からない。

 

という。私もやはり同じ気持ちから労働に挫けるのだと思う。気分はクレイマー対応の役職に就いた感じ…というか。私は何時も職場で排除される感じに圧迫されている。

 

本当は、上手くいった時に喜んだり、楽しくて笑ったり、という経験が、体験が自分を潤してくれるのかもしれないのだが、風鈴は喜んだり楽しくて笑ったりということをあまりしないのだ。というより最早、出来ないのである。

 

だから感動する映画なんかを見て涙活してみたりするのだが、やはり快活であるのは、笑ったり喜んだりできることだろうと思うのだ。

 

私はバラードを専ら好む。井上陽水とか、サザンオールスターズとか、しんみりする楽曲を好む。けれど、彼らが齎す哀愁は、笑ったり喜んだりという感情とは遠いのかもしれない。

 

お笑い番組を見てみても、だいたいは笑えないし、楽しくも無い。ガヤというのか、笑い声をバックで響かせる演出があっても、私的にはちっとも琴線に触れない、ということがある。

 

きっと自分を抑圧して、かつ、働き続けるということは難しいのだ。私は色んな職種に就く人々がなぜ、その仕事を続けていけるのか本当に理解できない。毎日毎日長時間の仕事を続けていける彼らが本当に理解できない。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。

徳川家康のこの言葉、風鈴は好きなのだが体現は出来そうにない。TV等で労働者を観察していると、マゾなのではなかろうか、と思う程に、仕事は重荷に映る。働かなければ生活水準が維持できないから皆、働くのだと理解は出来ても…風鈴は重い荷を背負って歩いていくことは出来なかった。

 

軽い荷しか持てない風鈴は悪夢を見る。この悪夢は世の中に対して何も出来ない風鈴に向けた意趣返しなのかもしれない。私たちは嫌でも働かなければならない。そうでなければ人間の生活水準を維持できなくなるからである。

 

そして、多くの人が風鈴には負えない荷を背負って何とか生きている。私からすれば一つのプラモデルを組み上げることが働くということだとして、私はもう1か月も一つのプラモデルを完成させられないでいる。

 

暇があっても時間を割けないのだ。皆、家事に仕事に時間を割くのに私は時間を割けない。その差が悪夢になったのだろうか。

 

昔のことを夢に見てうなされることもある。例えば転生したとして義務教育を再度受けるということは地獄のようにも思える。大学教育でさえ、今は耐えられる気がしない。

 

歳をとったから、そうなったのだろうか…。俳優なんかを見ていると、死ぬ直前まで働いて、ガンや病気で闘病の果てに亡くなったりする。死ぬ直前まで俳優として活動していたりもする。

 

そういう生き様をみると、なぜそこまでするのだろう…と思う。そういう人たちとリタイアする人たちと色々であるが…。私等は早々にリタイアしてしまえば良いのにと思うけれど…。

 

年金を70歳からにする等、老人を戦力に数えようとするが、私はそこまで働かなければならないのか…という風に思う。それこそ死ぬ直前まで働くという人も多い気がする。

 

介護が必要になって初めて隠居が許される…みたいな。病院にいても他者と関わり合うことが推奨されたり。老人ホームに入っても、他者との交流を勧められるのかもしれない。

 

部屋で一人でゲームしたりTV見たりということが、出来なくなる。要するに施設に入るということは自由で無くなるかもしれないということなのだ。隠居といって、施設に入っても、自分のしたい生活は出来ないのかもしれない。

 

じゃあ、何時になったら、悠々自適になれるのだろう。若く働いても、年老いて施設へ入れられても自由が無いとなれば…。だから、やはり自宅が良いという風になるのだろう。

 

病院もサナトリウムも娯楽に乏しい環境で、療養…という風なのが多いのではないだろうか。そうすると、PCに張り付いたり、自由に色々な本を読んだり、一人でゲームに打ち込んだり、料理を作って見たり、ということがし難くなる、か、出来ない。

 

集団生活を余儀なくされ、娯楽も他者を気にしなければならなくなる。そういう環境では、質素な生活で死を待っているだけみたいになりそうだ…。

 

コストを気にするとそうなりそうで鬱屈する。だから、やはり自宅が一番ということになるし、死ぬまでは家事くらいは自立してやれねばならないとも思う。

 

呆けてしまえば、あるいは頭がおかしくなってしまうと、最悪、布団とトイレだけの部屋に入れられる。そうすると囚人と何が違うのか…みたいな日々を送る羽目になるだろう。

 

認知症も癌も闘病生活というのは、恐らく、日々の潤いが消える。病院での療養というのは、買い物に行く自由なんかも無くなるかもしれないということだ。だから、死にそうになって初めて自由になるなんて考えていると、自由になった時には身の回りの娯楽が無くなってしまっていたなんてことになったりするのかもしれない。

 

隠居するのは病気をする前にしなければ楽しめないだろう。お金が無いのか、あるいは働くことに価値を見出すのか、健康だからパートで働く高齢者の方もいる。

 

ただ、やはり人間は高齢になる程、弱くなっていく。弱って、だから人の世話になるのだが、人の世話になると、その人や組織に自分を託さねばならない。そういう風にすると、どうもそれなりの扱いを受ける可能性もある。

 

私の経験上、ある程度のプライバシーが侵害される。優しい扱いでは無く「あなたは困った年寄りですね」という扱いを受ける。その自身に対する扱いは病院や施設によって違う。ただ、やはり田舎程雑で悪いように思う。

 

看護や介護の基本的な方針。規則。相手への配慮の仕方。そういうマナーを受けた教育された人材がいる施設なら良いのだが、パートの延長のような人が相手をしている施設なら、対応はイメージ的なものになるのだろう。要は「情に基づいて優しく接する」という感じが強くなる。ヘルパー資格程度では、感情的な付き合いが目立ってしまうのでは無いだろうか…。

 

看護師の資格を持った人の方が人当たりは良いように思う。まぁ、結局のところ、人付き合いしなければならない、そういう施設には風鈴は送られたく無いと思う。先入観かもしれないが…。

 

私としては若くして死んだ方が楽で、後になるほど死は苦しむ羽目になるのではなかろうか、と思う。若いうちは仕事に苦しみ、老いてからは不自由に苦しむ。

 

人生とは苦である…と風鈴の経験は告げる。けれど、違う見解を持つ人もいるのだろう。これだけの文化があって尚、私たちは働き苦しんでいる。働くことが辛いとか苦しいとか決め付けるべきでは無いのかもしれないが…。

 

文化があるからこそ働き、苦しむ…いや、世界を滅亡させるラスボスみたいな話だな。全ての苦しみから人類を解き放つために我は世界を滅する!みたいな…。

 

人を見る時、私は「よく耐えているな」と思う。耐えることが人生だと言われれば、そのようにも思うし、忍ぶことが人生だと言われれば、そのようにも思う。だから家康の言葉は的を射ているように思われた。

 

それはやはり私だからこそ思う部分だと思う。耐えられない私だから、毎日車で会社へ出勤する人たちを見て「よく耐えられるな」と思うのだから。毎日毎日、同じ作業を繰り返して、少しずつ、少しずつ日々を消化していく。

 

毎日、お風呂に入り、歯を磨く…。そういう作業さえ私はもう嫌になってしまったのに、他者はそれに耐えている。

 

よくやれるな、と思い、よくやれたな、と思う。けれど、やはりやりきれなかったことも多い。小学校の頃から、やはり、やりきれなくて。今でもやりきれない自分のままだ。そして、やはり他者はやれるのだな、と思う。

 

生まれながらにして、自分は自分で、己を変えることは出来ない。ただより強く耐えねばならないとか、そういう風にしか変われなかったと思う。それは心労を増幅し、何時か弾ける。

 

私は今のところ、私が私であることを、ある程度、許されているけれど、この先どうなるかは不明だ。結局、自分を変えることは出来なかったし、生理的な問題に負け続けている。

 

自殺は難しかった。どうやれば楽に死ねるのか。どうやれば他者に迷惑をかけずに死ねるのか、私には分からなかった。主に、環境が足りていないことも問題だし、飛び降りる勇気も無かった。

 

生きることが苦痛だから、自死を選ぶ心理を私は理解していると思う。日々、小さな苦痛、大きな苦痛に晒されて生きていると、未来もそのままだろうと思う。だから、これ以上、生きていたく無くなってしまう。

 

生きていようという気持ちと、生きていたくないという気持ちが交わり、天秤が生きていたくないという気持ちに傾く地点において均衡が破れるなら、その人は自殺を考え始めるかもしれない。

 

私は訃報を見るのが割と好きだ。ガンで亡くなったとか、自殺で死んだとか、他殺されたとか、事故死したとか。

 

人の死に様を見ていると、やはり苦悩に満ちている場合も多く、その事実は苦痛の無い自死を選択する権利が必要で、「あるべき」だと思う。その「あるべき」ものが無いのは、恐らく命が尊いからというよりは国のインフラを支える労働力を失いたく無いから…という感じの為政者の思惑だろう。文明を支えるために人々には甘んじて機構を支えるだけの労働力となって貰わなければならないから。死なれると働き手が減って困るのである。

 

俺が自殺出来ないのはお前らが悪い!』という感じの漫画・アニメを見てみたいところである。異なる可能性もあるが、風鈴としてはマジでその通りだと思う。

 

自殺する権利はあるという人もいるが、凄惨な方法しか無い状態では禁じられているのと同じだと思う。建物から飛び降りたり、電車に跳ねられたり、首を吊ったり、頸動脈を切ったりという行為はぞっとしない。

 

とある文学者…作家は、自力で生きるのが困難になってきた際に、投薬自殺をした。自分が苦しまないための方法として私はそれを支持する。

 

あらゆる文明で「簡単で安らかに死ぬ方法が用意されている」というのは普通は必然だと思う。寧ろ、だからこそ、それが無いということはやはり故意なのであろう。

 

そして、若しかすると多くの文明で「楽に死ぬ方法」が無いとするなら、無い理由が必ず存在するはずである。それが何なのか気になるところだ…。尊厳死をさせてくれる機関について知っているが、どの程度の国で許可されているのかは知らない。

 

ブラックジャック(手塚治虫)のDrキリコを思い出すなぁ、と何とは無しに思った。

 

私は若干、輪廻転生を信じている。そうなるんじゃないかな…と。でも不具合のある私という存在は消えるだろうか。脳機能から来る「わたし」は消えるだろうと思う。そうすると、次の私は、どんな私になるのだろうか。胡蝶の夢というのがあるが、次は蝶なんてこともあり得るのだろうか。

 

死ぬことが怖い理由の一つには、輪廻転生の観念がある。死んでも終わりでは無い場合、これ自体が地獄巡りなのでは無いだろうか。地獄は無いが輪廻転生はある場合。永遠に残酷な生を噛み締めていかねばならないのなら。

 

生というのは、動物の場合やはりグロテスクだと思うのである。植物がどうかは知らないが。やはり、人間以外に生まれたとしても、厳しい生である可能性が高いのでは無いか…。

 

生自体が地獄である可能性を私は否定できない。私という存在が輪廻転生と合わせて生の終わらないサイクルに仕込まれている可能性。

 

まぁ、そういうことを考える。だから、死ぬことを躊躇するというか。不老不死を望むとしたら、ある程度恵まれた現生に留まりたい。不確かな来世に進みたくない、という理由だろう。

 

悪夢は私の過去のトラウマ体験の再演だった。それに過剰な叱責が追加される。面白いのは私が起きている間は、過去の嫌な記憶も思い出すことは殆ど無いということである。私は夢として嫌な記憶を再生するが、起きている間は無意識に隠れて私からも見えない。

 

脳裏の表層を漂うようにして、過去のトラウマの記憶は無意識を行きかっている。だから、きっと認知症においては想像だにしない行為・言動を行ってしまうのだろう。

 

昔、英語がペラペラになった夢を見た。けれど、やはり現実では私に英会話能力は無い。なぜ夢の中ではペラペラだったのか…と思うのである。無意識には理解できる程度に嗜んでいたのだろうか。

 

まとめ

若い時には働き、自由もある。老いてからは施設に入れられれば自由は制限される。あるいは自身の健康面から上手く自由を謳歌することはできないかもしれない。施設自体もあまり居心地は良くは無いかもしれない。健康でいられる間は悠々自適でいられる可能性もある。

 

人生は重荷を背負い、遠い道を歩むかのようである。

 

私は生自体が繰り返す地獄巡りなのでは無いかと思う。そして、トラウマは無意識に記憶され、悪夢として顕現する。私を脅かす。人は変わることなぞ出来ない。変われたとするなら、それがその人の可能性であったか、あるいは無理をしているか。

 

生理的な問題には勝てない。

 

 

こんなの良いな。出来たら良いな。あんな夢こんな夢いっぱいあるけど~。エアガン編

銃型 コントローラー(無線) 画面(敵・的)・エアガン風味。

 

探せばありそうな気がする…。実弾で無く、エアガン。ガンダムゲームのプラモ版みたいな感じで。そんなの無いかな~と探してみよう。

日記 SAO ホロウ・フラグメント PSvita

体は剣で出来ている

 

血潮は鉄で、心は硝子

 

幾たびの戦場を越えて不敗…UNLIMITED BLADE WORKS

 

SAO ホロウ・フラグメントをプレイ中…。専ら実装を解除するためにホロウエリアばかり探索している。装飾品や防具が乏しいのが専らの悩み。

 

私はかつてFF11をplayしていたので、そのシステムと似ていると思う。ただ、スキルに攻撃的なものが少ないのが物足りないかもしれない。魔法…とか。

 

スキル連携をした際のエフェクトが物足りないし、ジャストアタックのタイミングとエフェクトと表記。ジャスト回避の難しさとか…。ジャストアタックをした時に「JustAttack!!」的な表記が欲しいなとか。

 

ソードスキルの不満としては、刀と両手剣は、片手剣と曲刀をskill1000にして解放してからでないと、ソードスキルが覚えられない辺りとか。それと、ソードスキルも通常のスキルも全て取ろうとすればSkillポイントは足りなくなるらしい。

 

Skill自由取得制度というか、計画的に利用しましょう…みたいな妙なリアリティを感じるのだが、刀と両手剣は「待て」の状態である。本来は全て取るというより、自分が使う武器のツリー上にあるスキルを使っていく感じになるのだろう。

 

ホロウエリアの管制室の実装は、妙に回数が多く…実装していると、自分のレベルがグイグイ上がっていき、アインクラッド攻略班のレベルもプレイ時間に比例して上がるので、彼らはキリト(プレイヤー)一人に攻略を待たされている状況である。

 

クリアレベルが120らしいが、もうちょっとでクリアレベルになりそうである。しかし、アインクラッド攻略はちっとも進んでいない。キリトさんはホロウ・エリアにご執心だ。

 

私のところには各ヒロインからホロウ・エリアから戻っておいで、というメッセージが届いた…。…リアルなら攻略班からのキリトへのヘイトが強くなるはずである。きっと、キリトがいないうちにアインクラッドは攻略されて皆デスゲームから解放されることだろう。

 

メタ的には胃が痛くなりそうなホロウ・エリア探索録である…。壁ドンとか床ドンとかされつつ、きっとホロウ・エリアに籠るのである。それなのにヒロインたちはキリトが引きこもっても待ってくれている…。

 

それはそうとクラインと添い寝が無いというのは、どういうことなのだろうか…(笑)そして、出血だらけの刀スキルである。両手剣も特殊だが、刀は暗に使うなと言っているのだろうか…。

 

私は既に片手剣スキルが1000なので、もう当分、片手剣を振るうことは無いかもしれない…。片手剣一刀流が原作キリト標準装備で、状況が悪くなると、二刀流になるという流れなのだが、私のキリト氏はskill的に片手剣の方が強そうである…。

 

 

 

 

幽玄世界(テレストリアル・ビジョン)

風鈴はTVを手に入れた。

 

「 白眼(プログラム・サーチ) !」

 

…これにより閉じられた結界内部からでも、世界を見通すことが出来る!…効果は限定的だ。流石に TV(受信の邪眼I) だけでは邪眼の限られた能力しか使うことが出来ないのだ。

 

「これが黒い悪魔AQUOSの能力…!」

 

「4K…NDR…!この情報量。圧倒的じゃないか!ふはは。ふはははは!」

 

「この波動チャンネル高野山じゃないか。空海のやつめやりおるわ」

 

 

 

 

ありがちなフリーゲーム批評論(カオス・ゲーム・ラビリンス)

フリーのRPGにおける、ありがちな欠点や個人的な希望をあげていこうと思う。

 

・戦闘に参加できる人数が3~4人(少数精鋭)

→微妙に足りない。理想的には8人連れ回したい。戦闘に参加できる人数は、戦闘中に編成を選択し、入れ替えられると良いと思う。

 

・麻痺すると死ぬ(麻痺毒無双)

→麻痺の効果が3~5ターン行動不能といったものだと、確実にオラオラの憂き目に遭う。範囲麻痺攻撃とか死ぬ。

 

・状態異常耐性アクセサリという縛り(バッド・ステータス)

→かと言って「リボン」のようなアクセサリを付けていると、他のアクセサリが付けられなくなり、無駄アイテムと化す。経験値2倍や獲得金額2倍も同様。「呪われたアイテム」のようにスロットを占領する。

・スキルを限られたスロットに付けるシステム(占領領域)

→毒無効(1スロット使用)のようなシステムだと「リボン」と変わらない状況を生み出す。ステータスUP系のパッシブスキルも同様。私は限られたスロットにスキルを嵌めるシステムは大抵肌に合わない。

 

思うに状態異常が強すぎるのがいけないのだと思う。だから、ボスには全耐性が備わるのである。私はボスにもバンバン状態異常にかけるのが好きだ。だから、完全無効だったり、一度効いた状態異常に耐性が付いたりというボスは嫌いである。

 

ボスを嵌めさせないための耐性にしても、状態異常職のようなジョブキャラが一気に戦力外になったり、戦闘から戦略の要素が大きく抜けていくものだと思う。

 

また全体攻撃もそうだ。ヒーラーが必ず全体回復をかけなければならなくなるようなボス。そうするとヒーラーというより全体回復の装置と化す。

 

私的には消費しないアイテムを幾つか用意して主にヒーラーの活躍手段を増やして欲しい。某RPGの「賢者の石」のような回復手段。

 

・消費すると回復しないMPや殴っても増えないTP(リソース隔絶)

→MPを不用意に使えないから「たたかう」連打。TPが増えないから「技」使用不可。スキルが豊富なのにそれが使えない「システム」

 

MPが使えないから魔法職が死ぬ。TPやMPは「自動回復」を持たせるべきである。「防御で回復」「待機で回復」「アスピルで回復」「アイテムで回復」など応急処置はあるが、それらも無いゲームも散見するような気がする。

 

・「盗む」コマンド(強迫観念)/(ヒーリング・マシーン)

「盗む」技能を盗賊しか持たないという場合、必ず盗賊をパーティに入れなさい…という神のお告げである。レアアイテムが設定されているなら「盗まない」という選択は無い。これで4名までしかPTが組めない場合、「狩人」のような職業が追い払われる。

 

またPTの盗賊は通常戦闘において「盗む」を連打する要員になり果てる。ヒールマシーンのヒーラーと同様である。「ぶんどる」のような+盗効果のあるスキルを複数登場させれば良いのに。

 

・思うに毒という概念が自然発生したことは非常に不思議である(不可解なる超常進化論/ダーウィニズム)

→毒や麻痺は何故生まれたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

膝矢

ブログの更新が333日ぶりだったとか、どういう因果か知らないが、ゾロ目に遭うことが多い。

 

私の運命であるとか、他の高位存在からの干渉であるのだろうか、とか答えは出ない。ただ、この間は膝に矢を受けてしまってブログの更新をする機会が訪れ無かったのだった。

 

 

爆ぜろリアル!弾けろシナプス!バニッシュメント・ディス・ワールド!

名言である。

そして、顔を上げ、眼からビームが照射されて、異世界結界が構築される。出典は『中二病でも恋がしたい』。

 

存在理由・存在価値・・・レゾンデートル(Raison d'etre(ドイツ語)/raison d'etre(英語))。変わらないのか…。

 

発音記号的にレイゾーインデトルと読むのだろうか。

 

不可視境界線・・・。

 

今は忘れてしまったものの、『セラフィック・ブルー』も言葉当て、主に技名だが…というか言葉を当て嵌めるセンス(sense)が非常に良かった。中二病で無くとも、使ってみたい格好の良い言葉の数々である。

 

不可視境界線と言って思うのは、「行動」で「表す」ことによって、事象が「発生し進行し帰結する」という当たり前の事実のこと。

 

所謂、要するに、それは科学を信じるということなのだ。誰であろうとも「決められた手段で同じ段階を同じ条件で踏めば必ず同様の結果に至る」という真理である。それを科学と呼ぶ。

 

科学を信じられるか否かということが、この世界での生き易さに関わる。私は科学を信仰していないのか、科学を理解する意欲に乏しいのだろう。科学を理解するということが人間の一生には付きまとう。

 

科学とは生活であり仕事であり生理であり行為の未来予測を可能とする必然を想像するための、あるいは確信するための術である

 

生活の動線の全てには、科学が関わっている。法律や暗黙の規則(ルール)を私の頭で了解して、その予測演算機能を信頼し扱って、不可視の現実内で目的を持った活動を結末に向けて一歩ずつ進むことを、科学は可能とする。

 

私たちが普通の人間らしく生きていくには、不可視境界線を不確かな現実感覚の中から見つけて、それを活用していけなければならない。

 

自転車の乗り方やタイピングの打ち方や、コンビニへの道のりや、仕事の進め方…etc

 

人間は空の状態では不可視境界線を視ることはできない。視るには知識が必要なのだから。知識には頭脳が必要なのだから。

 

例えば「空気が読めない(KY)」とは不可視境界線が見えない状態を指すと言ってみてもいいだろう。状況に対する対応能力は未来予知/未来予測を必要とする。

 

そうした生活上必要とされている想像力を持つには明晰な頭脳と知識、数学的な計算が必要となるだろう。

 

まとめるなら…。

自分の不可知境界線を視る能力を研いでいくこと。それによって、上手く道を辿ることができるようになっていくのだろう。

 

見えない自分の想像力を使いこなすこと。そう言えば、それは中二病に帰結するかもしれない。『未来予測線』を見切る能力。

 

なんてものを想像する。