発達障害者はヴェルダースオリジナル的に特別な存在だという感覚を抜くのに色々理屈を捏ねる必要があった。
障害者は自分が特別な存在だと思う時、ヴェルダースオリジナルを貰える私は…みたいな気分があるのかもしれない。
まぁ冗談である。cmが好きなだけで。
障害者がなぜ増長するかと言えば「特別な存在」の「特別」を上位であるとか、優れていると勘違いするためだ。そして、相手を見下せると思う。けれど「特別」というのは「異なる」という意味であり「違う」程度の意味である。
「上位の」という意味がしばしば付与されるのは、自分が「下位」に置かれていると思う結果、そのカウンターとして反発するから。蔑視されていると感じる結果、私にはお前より価値があると言いたくなる。
例えば女性差別。女性解放論者はしばしば男性より女性が優れていると言いたげである。けれど女性の「特別さ」もまた男性とは「違う」ということである。
犬と猫が違うというように、犬の集団の中で猫である私が「特別」である、と私は言いたいのである。ギフテッドだのヴェルダースだのと言うべきでは無い(´・ω・`)舐めたい…いや、慰めにしたいのだろうが。ただでさえ我々は鵜呑みにする性質なのだから…。
話は変わるが、どうも鬱病かもしれないと最近感じることが増えた。ダークソウル2くらいスタミナが減るのが早いし、一度減るとその日はもうダメですね。
まぁ、正直、鬱病と言えば中学校からずっとそうだったんじゃないか、という気はするんですが。それでもう慢性なんじゃ無いの?みたいな。今は発達障害だから…的に抗うつ剤をずっと飲んでるので、発達障害のための処方なのか鬱病のための処方なのか分からないですね(笑)それに効果も慣れちゃって自分ではよく分からないんです。発達障害がやる気が無いのか鬱でやる気が無いのか(苦笑)
発達障害はSSRIに問題があって、ファルスがルシでコクーンなので…。まぁ、鬱病と同じように「やる気を出してくれるお薬」が処方されるわけです。まぁやる気出無いですけどね。違う薬にしたら死にそうになったので戻したのです。
そういう副作用の経験もあって、一生薬漬けで良いんだろうか…という感じはする(´・ω・`)自然主義者だから「あるがままの自分」でいいんじゃない?みたいな。その結果やる気0でも。
ある意味、社会(病院)と繋がってるために飲んでるみたいな。眠剤(睡眠導入剤)も飲んでるんですが内臓に負荷が掛かってそうで好きでは無い。でも無ければライフスタイルが崩れる。同じ時間に中々寝られないのですね。だから飲んでるけど、早死にするんじゃないの?と恐恐としますね。まぁ死にたいと思う時もあるんだけど。鬱ですからね。健康を心配しつつ死にたいという…矛盾(苦笑)
あるブログで「自殺がいけない理由」と称して書かれていたのですが、鬱病の結果、起こる心理的作用によるもので自由意志とは言えないから…。というのがあって、なるほどな~と。
まぁ、自由意志では無いと思うけどね。地球最後の日なのでとか、老齢でとか、寝たきりで、とか、アニメが終わってしまってとか…まぁ外的要因が絡みますからね。そこから救い出してもらえるなら死なない方が良いとは思う。私は自殺って逃避の便宜的な手段だと思っているので。
逃避というと悪い印象があるかもしれないけど。反発を覚える人もいるでしょう。逃避=甘え!的な。でも私は割と防衛機制の中では常套手段なので。
ダークソウル2で赤霊に侵入されたらLANケーブル抜く的な(´・ω・`)「三十六計逃げるに如かず」という言葉もある。戦術と言っても良い。厨二病語録ですな。戦術。タクティクス。
甘え?戦術と言って貰おうか…。
モルモットを溺れさせて何分生き残れるかという実験があったそうで(『選択の科学』)、時間によるけど最後は諦めて泳ぐのを止めてしまうんですよね。個体差があって、苦痛に抗しきれないための自殺。生物は最後まで必死に足掻いて生きるようには作られていない。それよりは意識的に楽に死のうとするんじゃないのかな。
苦痛の計算というか耐えられなくなった時点で死を選ぶ程度には、生というのは選択的な行為である。だから自殺が許される状況はある。苦痛が大きすぎる時。
そう考えると罪というのは死ばかり問題にするけれども、苦痛はより大きくなり得る罪なんだろうと思う。社会的に自殺を個人の自由で自業自得とするのが人権(あるいは人道)に反するということなんだと思う。そうなるのが危険であるということでもある。
まぁ、ただ空が青かったから死ぬということも稀にはあるだろうけど(´・ω・`)ちなみに発達障害者は虐められなくても社会の軋轢の中で勝手に疲弊し十二分に自殺し得るので…。
それは理解するなら自分が交通事故にあって首から下が動かなくなったからこれなら死んだ方がマシだ、と思うような自殺ですね。社会の中で自分の居場所が無く孤独で常に否定され邪険にされ続ける…というのが死を選ぶくらいの苦痛になってしまうわけです。水の中で溺れ続けさせられるラットなりモルモットなりと一緒。
認知症になったら死にたい、という人がいるのも、まぁ後者の、苦痛が生きることを選択し続けるより上回るから…。他人に迷惑をかけるからというより、そのことによって自分が得る苦しみを考えた結果として死ぬわけで。
名誉を傷つけられて死ぬのもまた、心理的な苦しみによるもの…。まぁ、ネット苛めとか、言葉のナイフで傷つけられる的な。その苦痛が人を死に至らしめようとしていることであり、罪になり得るのだという話である。
そういう考えをまだよく分かってない人たちは多いと思う(´・ω・`)ネットで炎上するのが問題になるけれども。
まぁ、かと言って、割れ物を扱うようなコメントをする人もいる。とにかく凄く薄っぺらい「とにかく素晴らしかった」的なコメント(笑)そのあからさまな世辞を受けた気持ち悪さで逆に人間不審に陥り私は死ねると思う…orz
発達障害者は褒められることが苦手だと読んだことがあるのですが、世辞が苦手なんでしょうね。どう受け取って良いか分からないから。私も分からないな…。喜んでいる相手に対して私は落ち込むんですよ。ほんとかな…と思って(´・ω・`)
健常者は発達障害者が何を考えているか分からないから不安に思うとか不満に思うとかあるみたいですが、発達障害者から言えば健常者が笑顔を浮かべていてもそれが本当なのか分からないんですよ。
これは笑顔・悲しい・普通…とかみりゃ一応は分かる。でもホントは何考えてんの?っていう。口先の言葉が「ホントは」何を内包しているのか分からない。だから期待したようには親しくなれないんだろう。私に何を期待しているの?
だからね、受動型の発達障害者なんですが、他人と仲良くなれないし孤独になるわけですよ。期待が分からないまま突っ込むと、積極・奇異型になるので。前にこの話をしたような感覚があるけど…。
受動と積極・奇異型は質的には変わらない。ただ受動はひたすら自分から動かないだけ。空気が読めないことが分かっているから何もしないだけ。受動=空気が読める、積極・奇異=空気が読めない、では無くて、空気が読めないから自分から動かないだけ(´・ω・`)
それが健常者社会では「大人しくて・真面目で」都合が良いから「受動型が好ましい」と言われちゃっているだけ。積極・奇異型「自分勝手で・我儘」が受動型に劣るように言われていて、受動型に進化するみたいなイメージを持つのか分からないが、私は両者は何の変わりも無いと思う。ただ自分から何かしてはいけないんだと、しょんぼりしちゃっただけじゃないの…(-_-;)。
療育の場面に、積極・奇異を受動に仕立て上げて「教育の成果だ!素晴らしい」みたいな教師がいるんじゃないの…(+_+)でその親が「心が壊れた。生きる気力が無くなってしまったじゃないの」というわけですよ…。想像ですが…。
私は正しいこと言ってるのは後者だと思う。前者だと結局は孤独で鬱で疲れて擦り減って寂しい人生になりそう。前々回か分からないけど療育受けられたからと言って、じゃあその療育が正しいか、とは言えないんですよね(´・ω・`)私は受けられなかった日本シネ…って感じに一方的に機会の喪失=最悪という話に終始してしまったが。
まぁ、テンプル・グランディン的なその子に合った教育、という観念自体を持っていない、教育要綱が全て、みたいな人材しかいない場所じゃダメだと思う。
ゆとり教育の失敗も、本来発達障害者に必要な感じの教育ができるインフラが無かったからだと思うし。放り投げるだけ放り投げて成果が出なかったからゆとり=悪になってるけど(´・ω・`)
ゆとり、って言葉自体に悪意があると思う(苦笑)
…
ちなみに、受動型(偉い)が行動すれば積極・奇異型(問題児)になるので。
「君は良い子だけど、もうちょっと積極的になったらいいよね」
と健常者に言われた受動型の私が積極的になると
「君は積極・奇異型(問題児なんだよな…)だね。もう少し落ち着くと良いんだけど」
となる。健常者の言葉は釣りであり、釣られて勇気を出した方が悪いのである。
そのような経験を繰り返して、行動する気力を失い、受動型になった私は積極・奇異型を見下して、貴様は発達障害の中でも最弱。阿呆が。俺の方が偉いのじゃボケ。というのである。
そういう受動型はフェイク(偽物)だと思う。理想を言えば、ケーススタディを繰り返して行動を全て禁止せずに日常場面の全てにアクションを最後まで返せるように根気強く付き合った結果の発達障害者が理想なんじゃない。けどそれはずっと誰か相談役、メンター、調整役が傍にいるってことで一人じゃ無理。つまり一人でやってきた私は違うのさ。
単に殻に閉じこもらざるを得なくなった亀は非リア充(リア充に非ず)。
あるブログは20年引きこもりです、という発達障害者のものだった。ネットでさえ友人ができない孤独なロンリ―ウルフ。そういう発達障害者は多いと思うのである。タルパが友達さ、とか。ボールが友達さ、とか。母親しか親しい人間がいない、とか。
ちなみにタルパはチベット仏教の秘奥義であり空想上のお友達であり『あの花の名前を僕たちはまだ知らない』の めんま っぽい何かである。私も作ろうとした経験があるが才能が無いと10分で諦めた。
私がどうだったかというと例に漏れず。義務教育は親しくしてくれる友人がいたが生活に適応できず混乱した結果、そうした関係を不意にしてしまった。それは私が悪くて友人に非は無いということである。私が適応できなかったのが悪いのだから。「私は悪く無い」あるいは「誰かが悪いはずだ」とその頃は思いたがるものだった。
けれど、巡り合わせが悪かっただけで、そうした関係が崩壊してしまうこともある。結果として「私が馬鹿だったのが悪い」のだが、それは先天性のことでもあったわけである。
そのようにして私は友人関係・教員・家族の友情なり自信なり関係を崩壊させてきた。そして教育が悪い。親が悪い、と考えたこともある。自分の脳味噌が悪いと分かったのは成人後であり、何もかもが崩れ去った後だった。自業自得の崩壊した世界の中で崩れ落ちた私は自分が発達障害だったことをそこで知るわけである。
かなり端折ると私の人生は大体そんな感じである。ジェンガが致命的に下手だった感じというか。まぁ、一例として挙げておこう。発達障害者は自分の生まれや環境を呪うことが多いかもしれないし、何かの慰めにはなるだろう。
ちなみに私以上の歳で親が悪い、環境が悪い、私は特に悪く無い、と呪詛を吐き続ける者もいるらしい。運命とは哀れなものだ。世界は絶望と悲しみに満ちている。ちょっとラスボスっぽいな…( ..)φメモメモ
どちらかというと私は家族や友人、教員等に死んで詫びたくなった。というより私が居ない世界でやり直して欲しいな、と思う。私のせいであんなことやこんなことになってしまったのだ。私が傷つけたものが多すぎて私は死にたくなる。
私がいなければ彼らの人生を何かしら傷つけることなど無かっただろうに…。私は他人が私に向ける同情の目や心配して眉を寄せる表情を見る度に耐え難さを覚える。私の存在こそ不快の源であり死んでしまえば良いのに!
とまぁ、そういう感じに私は自分が無価値だと思う。それを希死念慮と呼び、鬱病の症状の一つなのだが、自分の価値を肯定する材料を私はなんら持っていないのに生きているわけである。
昔は自己分析と称して過去の記憶を何度も掘り起こしていたのだが、今は逆に思い出さないようにしている。絆創膏で蓋をした。過去なんて無かった。気づいた時には私、成人していたので(´・ω・`)あーぁ、頭が割れそうダ。私の名前?…何も思い出せない。
まぁ私の人生は灰色というより、ずっと土砂降りですが、私みたいな発達障害者にあまり出て欲しく無いんですよね。昔は人間の人生が一般的にもっと明るいものだと思っていた。けれど、人生は残酷で…Z指定であった。
死んだらフィギュアにされるとか酷過ぎるょ…(*ノωノ)
…
仮にループできたとして…
未来から来た私「あなた方は子供を作るべきではないのです」
両親「我々にも子供を持つ権利がある!」
↓
両親「頼むから普通の人間になれ」
両親「お前なんか産むんじゃなかった」
私「もうダメぽ」
↓
家族崩壊
↓
私「私のせいで…私さえいなかったら!」
↓
未来から来た私「あなた方は子供を作るべきではないのです」
↓
両親「我々にも子供を持つ権利がある!」
↓
以下、略。
…
…ふむ。