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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

何のために生きているんだろう

未分類

汐:

僕が学生の頃は「人生とは何か」と常に考えていた。

僕は何のために生まれてきたのか。

生きる意味って何だろうか。

ただ食べて仕事して寝て…そういう生から死へのスパイラルに意味があるんだろうか。

僕は何をすべきなのか…。

僕はどこへ行くべきなのか…。

僕は何なのか…。

痛みや苦しみとして想像される死の恐怖よりも、無という言わば意味を失うこととしての死の恐怖を味わった。

そして、また生きることも僕の苦しみに違い無かった。生きることは不安であり、恐怖だった。苦痛だった。

死ねば意味が失われるが、生きている僕に意味はあるのか、と考えてもまた、それは見つからなかった。

自己実現が生きる意味だ」という風に考えたこともある。目標に向かい走り続けるということ。

しかし、何時しかそれが「呪い」だと気づいた。自己実現を何かの拍子に取り上げられたからだ。

人生に躓き、財布を落とすみたいに、自己実現の機会が零れ落ちて、二度と戻って来ないことが分かった時、

僕は絶望するだろう。そういう曖昧な運命に僕は自己の生の意味を託さない。

僕はずっと何か創造したいと考えていた。漫画家になりたい。小説家になりたい。または芸術家になりたい、と。

何時しか分かってきたのは、それは「創造者であるべきだ」という呪縛である。強迫観念みたいなものだ、ということだった。他者からの承認がそういう形でしか自分には与えられないのではないか…という。

他者からの承認というものを何か特別な形で得たいと考えるからだ。僕は他人とは違い、他人とは違う僕を贔屓して欲しい。贔屓して欲しいどころか、僕だけを見て欲しいとさえ考える。それは具体的に与えられるべきものだ、とどこかで思っている。

でも、同時にそれは失われればその他者承認に支えられていた自信を喪失する危険を伴う。そんなものは寧ろ常残のプレッシャーだろう。

あなたは、そんなことのために、創造者たろうとするのではないと言うのであれば、試しに考えてみれば良い。あなたは作品を作っても「それを誰にも見せてはいけない」と。その時、それでも創造し続けようとする、あるいはそれでも尚そうせざるを得ないようなモチベーションをあなたは持つだろうか。

僕が個人的に思うには、創造者の条件はそういうもので、息を吸うように、創造性を持ったその行為が「自身にとって必要不可欠である」ということだ。

長く長く続けているそうした行為がそのように身体にフィットしていくもので無いのなら、多分それは、自分には合わないことなんだろう、と僕は思う。人間は「創造者でなければならない」というように考えているとしたら、そんな考えは捨てた方が楽になれる。そう僕は思っている。今のところ。

僕が生まれ持って人とのコミュニケーションに障害を持っていた、と漸(ようや)く分かってから、今までそのことに関して考えてきた。まぁ、これからもきっと僕はそのことについて考えていくだろう。コミュニケーションという問題は人生において大きな比重を持つと思うから。考えざるを得ない。ただ、僕は知らなかった時よりは自分が楽になった、と感じた。

僕自身のコミュニケーション障害は僕にとっては僕を取り巻く拭いがたい絶望のようなもので、僕はそれを取り除こうと必至だったけれども、そのことに関しても、可視化されることで楽になった部分がある。問題は変わっていないし、それどころか限界を指摘するものですらあるのだが…。人との関係性において人生に意味や価値を見出すのだ、とすれば「これは致命的な問題だ」と僕は思った。

例えば、愛と僕らは口に出す。重要なのは「愛だ」と。「愛さえあれば良いのだ」と。さて「愛」とは何だろうか。これも僕の問題だった。僕には愛がよく分からない。仮に生の実感(生きる意味)を得るには「愛し合うことが重要なのだ」とすれば、僕の障害とは「愛し合えないこと」と言っても良い。まぁ、多かれ少なかれ「人は完全に愛し合うことができない」と言われている、が。

また、そこにおいて僕は敗北を見出す。または挫折。僕は愛せないし、愛されもしない。僕は理解されないし、理解できない。「誰からも」と言っても良い。まぁ、僕としては、これは一般的な人でも味わう命題だと思うのだが、どうだろうか。

僕は僕が一般的であると解して世界を理解すべきか、それとも、僕と一般的という言葉とは選り分けて考えるべきなのか、と悩む。まぁ、これも一般的な命題である。何を言っているのかわからないかもしれないが…というネタを思い出す。ポルナレフのw

いや、でもそのままなんですよ。僕から見ればそういうものなんですね。世界は。

それが常識だと思っている、というね。

まぁ、だから「愛を求めてもダメなんだ」と。愛されれば生きている気がすると言っても「無駄だ」と。とは言え、だから、全否定するってわけではない。端折って結論を言うと、そもそも誰しも、永遠の関係なんてものはありえないし、絶対の関係も無い、ということだ。

関係とは濃度であって、固定されるとダメで、常に振動し、移ろいゆく。関係性の趣(おもむき)とは正にそこにあるので、変化しない関係性なんてものは風流じゃないのだ(笑)いや、それはユニークな言葉を選択し過ぎているけど。変化すれば当然、繋がることもあるし、別れることもある。そういう波を僕は「肯定するべきだ」と考えている。きっと清少納言も同じ見解を示してくれるだろう…(笑)

今のところ、僕は人生の意味ってのは「生きることそれ自体の中に自ずから見出されている」と考えるようになった。人生とはつまりそれ自体を味わうことである。要は日々の「生活」こそ意味の全てだ。価値の全てだ。だから日々がどのようであっても意味は見出せるし、楽しみようもある。どこにでも。極論すれば。

苦しめられている時には中々見られないものだ、とは思うけれど。僕にとって人生は只管(ひたすら)走るものではなく、歩き、時折、立ち止まり、振り返るものだ。その折々に季節が巡り、風景も巡っていく。僕はそういうものの中に趣を感じるし、それを愉しむ。だから、今、僕に友達が全然いなくても、それどころか家族との関係さえ殆ど無くとも特に寂しくは無い(暴)まぁ、少しは寂しいけどさ。それで狂って欝になって死ぬほどではない。いや過去のあれこれで既に欝病でしたっけ僕…あれ?(爆)

愛も自己実現も僕はそういう生活の中の一部だと思っているので「全て」だとは思わない。僕はそういう考えでしばらく上手くやっている。生を考える時に「生活が重要だ」と考えたのは大分昔のことで、それからも色々考えてきたけれど僕はその考えを未だに否定していない。僕はだから刹那的に生きるということの中に何か生の意味を見出そうとする考えには否定的だ。自己破壊的なものは特に。何時か終わってしまうことが分かるようなことに自分を全て託してみても、魔法が切れたら惨めになってしまうと思っているから。勿論、この生もそのうち終わるけれど、死と同時に僕が取り残されるということは無いだろう。死後のことは分からないけど。

この僕の今書いた考えだって、何時か変わるかもしれないけれど、ね。

とまぁ、今日は一人語りでした。