LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

広汎性発達障害

そういう障害名でした。

広汎性発達障害は、自閉症スペクトラムと呼ばれる基準の一つで、高機能自閉症とかアスペルガー症候群とか呼ばれるものです。どちらかとはっきり言えない場合に、こういう病名を使うというか…。まぁ、要は自閉症なわけですね。ザックリ言えば。

自閉症というと「うぇあ~」とか言ってフラフラしてる感じの知的障害を伴う人を想像する人が多いと思うのですが、実際には7:3くらいで、知的障害を伴わない人口の方が多いようです。見た目的にもこれは普通の人たちで、少し踏み込んで付き合ってみると「変だな」と感じるという人たちが多いと思います。ですから、僕のように成人後に人生で行き詰まり自己申告から発覚する、という人も稀ではありません。いわゆる「コミュ障」と呼ばれて揶揄される人の中には少なからず、この自閉症スペクトラム圏にいる人がいるかと思われます。但し、すべての人がそうだ、と言うわけではありません。この人たちはたいていの場合「自分は普通」であるが「おかしい」のだ、と感じているのだと思われます。ですから「普通だ」と思い込んでるわけですね。わかり難いですけど。

異常者というのは自分が異常だとは気づかないわけです。まぁ、普通の人だって自分が「特別」だと思っているわけで「そんなことはないんだ」とは気づかないみたいなもんですけど…(苦笑)普通の人…つまり、自尊感情が普通に持てている普通の人ですが、彼らは「自分は他人よりも少しだけ良い」と思っているんだそうです。つまり、自分は他の大多数の人よりもちょびっと「特別」だ、というわけですね。

僕の場合も「特別だ」とは思っていましたが…「特別悪いんだ」と思っていました。自尊感情が無くなったり、鬱になったりすると、公平な判断を下しがちになります。それがポジティブに受け取られることもありますが、悲観に流された結果なわけですよね。そういう状態だと世の中の不条理に耐えられないので割合、自滅します。自分は「少し特別」と思っているのが健常者の…そして健全な人の「当たり前」なわけです。だからこそ、辛いことも耐えられる…という部分が我々にはあるわけです。

僕の場合、(ある本では)発達障害の人は100人に一人くらいいると言われているので、それなりに特別な存在だと判明しましたが、まぁよく考えるとあまり嬉しくはありませんでした。『あなたがあなたであるために』という本の中では、僕は「多数派からみた少数派なんだ」と書かれていました。泉流星というアスペルガー症候群の作家は「宇宙人」と言っていましたが…。まぁ、多数派の方々から見れば、僕は「宇宙人」と言っても過言では無いと思うのです。『寄生獣』という漫画を思い出しました。読んだことのある人は結末を思い出してみてください。これ、僕は寄生獣側なわけですよ…(汗)嬉しくないですよね?「少しは優しくしてください」

1億人いれば100万人は自閉症です。多分。まぁ、別の本では50万人くらいですかね…。これを読んだ「普通の人」は、じゃあ、結構仲間いるじゃん、と思うでしょう。しかし、僕から見れば1億人の中の9900万人が僕とは異なる宇宙人だというわけです。まさに四面楚歌。と、言っても…僕は僕で自閉症の人とは「普通に」付き合い難いと感じるわけですが…。

まさか寄生獣側に感情移入して読む日がこようとは思っていませんでした…orz あれって、実は少数派の人たちの物語としても読めるんですよ…という発見。みんな人間側に立ってカタルシスを得ているわけですけどね。僕もそうでした…ごめんなさい。

僕が大学の頃には、いわゆる「心を閉ざして」いるから「トラウマを負っているから」「人生経験が足りないから」とか言う理由から人と上手く付き合えなかったり「変わり者」のレッテルを貼られたりしてきたと思っていました。ですから、フロイトを読んだり、ユングを読んだり、哲学を勉強したり、心理学を学んだり…実に自分自身迷走してきたわけですね…。どうすれば人と上手くやれる自分になれるんだ…と。昔流行りましたが所謂、自分探しをしてたわけです。

そういうことをしたのは、自分が「ふつう」であると信じていたから、なんでしょう。失敗した思春期の分を取り戻して「ふつう」を取り戻したいと期待していたわけです。僕は「ふつう」だけれども、経験上(要は諸々の「しつけ」の問題で)「異常」になってしまった、という方向で検討していたため、正解にたどり着かなかったわけです。

ダブルバインド的なコミュニケーション」だとか「自尊心が剥奪された結果」「愛されなかったから」「親のせい」「いじめたあいつらのせいで心的外傷」とか…etc。色々考えるわけですね。原因を。最近では実存を失った「アウトサイダー」なんだ、と僕は思っていました。「そんなことを考えても仕方ない」とも勿論考えたわけです。それで案ずるより産むが易しみたいな感じで「やればできる」的に「克服」しようとして、大打撃を蒙るみたいなこともありました…orz

でも結果としては広汎性発達障害という精神障害だったわけです。そして、これは治療できるものではないそうです。僕は「実存を取り戻そう」とか、「人と上手く付き合えるようになりたい」とか「普通になりたい」と「人並み」になれることを期待していたので、自分が障害者だと知った後には自分の心の中に空洞が開いたような気持ちになりました。自分の問題を解決するための回り道をした挙句、そんなものは無いと突きつけられたわけですから…(汗)あぁ、どんなに頑張っても僕は「多数派」じゃないんだな…と。「普通」じゃないんだな…と。そして、それを知るためだけに失われた時間。

そういうのがジワジワと時間をかけて分かってくるわけですね…。診断を受けると。

「孤独」がいけないって言う人がいます。でも、僕は「孤独」にならざるを得ないんだと思うんですね。好むと好まざるとに関わらず。僕のような人間にプライベートで関わろうという人自体相当運に恵まれなければならないし、自分から近づいてくるような人は大抵が同情してくる偽善者か、自分を利用しようと付け狙ってくる敵でした…。まぁ、前者と後者は似たようなものですが…。対等な関係にならないんですよね。「可哀想だから付き合ってあげてるんだよ」と言われているような感じがする。それか同じような立場で傷を舐め合いたいって人とか…。それはそれで嫌です僕は。卑屈になりがちな関係みたいなのは…。経験上、器量が悪い場合、受け身でいて良い出会いに恵まれるってことは恐らく稀だと思います。

まぁ、そもそも僕自身が主体的に人と関わりたくないわけですから…。会話が苦手なので。会話できないと付き合っちゃいけないみたいなね…。それと、我慢してまで人付き合いしたくないわけです。「多数派のフリ」をし続けなければならないわけですから…。だから、付き合えても離れていくんですよね…人が。ああ、またか…と。僕も僕で離れたくなるし。だから、自分には対人関係を継続させるというようなことは無理なんだなぁ…と思う。

僕は「孤独」が好きなわけでは無いですが、普通の人と普通のスタイルで付き合うということはキツイんですね。だから「孤独」を選ばざるを得ないんだろうな…と思うわけです。二者択一の結果として。発達障害が初期に見つかった人ならそれなりにトレーニングできることもあるのだと思えますが、やはり、それでもどうも限界があると思います。無駄に「普通」なんで「普通」に「寂しさ」を感じるというのが厄介なところです。幅の広い障害なので人に依るみたいですが。だから自尊心も「普通」に傷つくし鬱になりやすいんですよね。現に…。

『わたしがモテないのはお前らが悪い』というアニメがありますよね。あのアニメでは「喪女」という、所謂、コミュ症で友達いない系の人の話をやるわけですが、彼女が無駄な努力をして青春を無駄にすり減らすのは「ふつう」になれるという期待から来ているんだと思うんですね。所謂、リア充ですよね。

リア充になりたいと思って努力するわけだけれども、その努力は見当はずれで、無駄だという悲しさ。砂漠で蜃気楼のオアシスを見るみたいなものだと思うんですが…。診断を受けて良かったことは、そういう努力が無駄だ、と気付いたことです。こう言い切ることには問題があるのかもしれませんが、少なくとも僕が「ふつうになろう」と努力をする必要はもうありません。「ふつう」ではないからです。ちなみにそういうことを要求したのは僕の「両親」だと思いますが…。方向性の間違った努力は喜悲劇ですよ。

『わたもて』の話ですが、実際には、「ゆうちゃん」という遊んでくれる友達もいなければ、可愛らしい容姿でもない…というのが作者が想定するリアルな「喪女でしょう。編集が「それではあんまりだ」というので、多少設定を変えたのだ、という話が原作に出てきます。もしかすると鬱陶しく思いつつも付き合ってくれる弟も、優しく気遣ってくれる両親もいないかもしれません。

そんな「現実」が想像できない人たちを僕は日本における「リア充」なんだと思います。実際、あのような主人公なら、虐められている可能性だってあるわけです。既に空気である感はありますが…。あの教室なんかは実際あり得ないですよね…。大抵、クラスメイトは評価され見分されてしまうような気がします。陰であいつに関わるなよとかキモイとか何とか噂されてるわけです…。所謂スクールカーストですよね。『わたもて』にそうしたリアル要素を注ぎ込んでいくと自殺する子たちの環境が想像できるような気がします…。『わたもて』では主要登場人物以外は主人公に干渉してきません。それが物語と現実の違いですよね。現実では思わぬところで伏線が張られてます。で、ある日突然地震が起こって死んだりとか…。

そこでそんな伏線書いてないじゃねーか…とかクレーム入れても駄作ってことにはならないわけです。ふぅ…まぁ、いいや。

僕としては「友達とか、いなくていいじゃん」という方向へ行こうかな…と。結婚もする気になれないし、一生独身でしょう…。友達0恋人0配偶者0というコミュニティ0状態というのは、僕は「孤独」なんだと思うんですが、どうでしょうか…?

僕としては「でも、それでいいや」と思うんですね。楽だから。でも、普通の人は驚くでしょう。僕も流石にこういう流れを期待したわけではありませんでしたが…。いや、引きこもりとあまり変わらないんじゃないか…と。引きこもりはダメだと思っていた頃が僕にもありました…。でも外に出れば引きこもりじゃないって訳では無いですよね…外こもりになるだけでorz

問題は孤独死とかだよなぁ…とか思う始末。いや、腐って誰にも発見されず…とかさ。後味悪いでしょ。想像しただけで気持ち悪い。綺麗に始末して頂きたい…。死んだ!→焼いた!→埋めた!→スタッフロール→提供→The endみたいな…。葬式はいらないし墓もいらないな…。誰にも看取られたくないから…。一人で静かに誰にも邪魔されずに死ぬ…と孤独のグルメみたいなことを思います。

手を握る息子or娘「お、おじいちゃん?おじいちゃーーーん!」

みたいなドラマ的演出は要らないと思うんですが…そんなにみんな看取られたいんだろうか。あるいは猫耳すく水の可愛い幼女(孫娘)になら看取られても良いが…。僕は猫か像みたいに死ぬ時には誰にも見つからない場所でひっそり死にたい派だが虫が嫌いだから、死んだ直後になるべく見つかりたいと思う。矛盾ってやつですね…。もう火口にでも飛び込むしかないんじゃないかな。「I'll be back!b(ジュッ)」っつって…。蛆に食われる的なヤツはちょっと…。だから、夏に死ぬのは論外だよね。気合で冬場に死なないとダメだと思う。冬ならそれなりに日持ちすると思うし…。

話は変わるけれども、日本人は人種差別的ではないと思いますか?僕は日本人は人種差別しまくるだろうな…と思います。それが無いのは単に、日本が単一民族国家だから。島国だから、っていう話ですよね。それは風土的な問題で立ち上がらないだけだと思っています。逆に言うと、日本は多数派の国なんです。多分。おそらく。きっと。

タバコとか見てると、それが分かる気がする…。今じゃ、そんなに堂々とタバコ吸う人なんて見かけませんよね…。10年20年前を考えると凄い変化なわけですが…。なぜ吸わないか…というと多数派に圧されて吸えなくなったわけですよね。逆に昔はタバコを吸うのが多数派だった…という話で。全員が右向けば右って世界なんですよね…。そのなかで左向いてるヤツはかなり逆境ですよ…。やっぱその風圧が強いんで辞めるか…ってなったり、堂々と吸えなくなったりする。今の方が不良のアイテムって感じが強いんじゃないかな…?昔はタバコを吸う=大人みたいな感覚もあったはずだけれど、今は違ってきていると思う。酒とタバコという言い方からタバコは抜けるんじゃないかな…。まぁ、ビール離れも進んでいるそうですが。一昔前の「大人」って感覚が分解されて来てるんじゃないかな…という感じはあります。それに抵抗する人ももちろんいるわけですけどね…。

僕は分解すれば良いと思うんですが…。子供も大人も基本変わらないですよ。変わるのは、18禁のサイトに入れて、正社員になれて、投票できるくらい。女性なら16でも結婚できるしね…。この制度は変えるべきだとは思うが…。結婚てのは僕が思うに子供育てるための機能としての共同体ですよっていう契約だと思うから。基本的には。だから男女とも20歳以上に。明らかに女の子が16で子供産める時代じゃないでしょ…。35歳まで若年という括りになってるのは伊達ではないと思う。夜回り先生も言ってました…。大人だって子供なんだ…と。

だから「大人」と「子供」の境界がボヤけていく現象があるとして、それは必然だと思う。「子供」自体が作られた便宜的な価値観だからさ…。「3つ子の魂百まで」じゃないけど、大人になったから、と言って、それまでの精神的な構造が何かガラリと変わるわけじゃ無いって話でさ…。まぁ、義務教育とかいうものとおさらばできるってことはある人にとっては福音ですが…。

大人になったからって「セックス」と「酒」と「タバコ」しか大人らしい楽しみが無い、みたいな人がいるとすれば、その「大人」ってのは僕は詰まらないな…と思う。あと「車」とかか…。結局、そういうものと比べるのだとするなら大人が否定したがる子供のするような遊びだって十分魅力的だったりすると思うけどな。

ぶっちゃけ、今挙げたもの以外は子供でもできるわけで…。大きな問題は「仕事」と「収入」くらいかなと思う。子供が一方的に「消費者」であるということも問題だし「収入」がとても限られていることも問題かなと思う。まぁ、大人になって解禁されることで最も価値があることは実は「仕事」なんじゃないか、と僕は考えるのだが…。

まぁ、いろいろ突っ込みはありそうだが、仕事の「あり方」の問題でね…。自分が必要とされる実感を持つには、生産者として社会に組み込まれるということがやっぱり必要になってくるんだろうなぁと僕は思うし。

働かないでゴロゴロしていて楽しいか、と問われれば楽しくないと答える人が多かろうと思うんですよね。大抵ルサンチマンで言われるだけだと思うんですけど…。あとは仕事で働く日と休日があるからメリハリが付いて休日に価値が見出せるのであって…と答える人がいるわけですよね。別に何を自己実現しなくても、自分が働いて社会に何かを提供しているっていう実感が持てればそれだけでいいんじゃないのか…と思う気がしないでもない。

まぁ、限度を超えて働けばそれは辛いし嫌になるだろうね…と思うけどさ…。いわゆる、社畜なんだろう…それが。

極限まで何もすることがないっていう状況と、極限まで働いてるっていう状況とは両極端なんだと思う。実際には、その中間でぶらぶらしてバランスが取れてるってのが理想的なんだと僕は思うんだけどね…。どっちかって議論はどこにも行きつかないような気がするよ。

だから、別に「大人」でも「子供」でも良い訳さ…。要はそこに辿り着くための条件が足りてるか足りてないかの問題だと思う。運動選手の多くは若くして活躍するわけで、その中には子供もいるけれど、彼らは立派な選手なわけなので…。逆を言えば、「大人」でも足りてない人もいるし、「子供」でも足りている人はいるかもしれない。

日本は縦割り社会なので、比較的そういう論法が通じにくい。先輩後輩という関係…たかが1歳異なるだけで、お前は「足りていない」と断言されるような風土が結構あるんだと思う。「大人」と「子供」が解体されるなかで、僕はこういう日本的風土が解体されていくと良いと思っている。まぁ、本当に解体されているのかどうかも謎ですが…。

発達障害の人ってのは、上下関係とかあまり重視しないのですよ。だから、上下関係とか意味わからないし!って思っている節がある…。実際、年齢のアドバンテージというのは経験の多寡の可能性くらいしか無いと思う。それは可能性に過ぎないのであって「絶対」にしてしまうのは、やっぱり過ちなんじゃないかね…。

…まとまりませんが、疲れたので今日はこの辺で。