LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

思考するというのは便宜的なもの

私たちは思考する。発達障害者は言葉だけではなく、イメージや音などで考えたりもするらしい。逆に言うと、言葉で考えるということは苦手としている場合がある。私もそうだと思う。

思考は何かを理解するために使われる手段で便宜的なものだと思う。便宜的とはその場しのぎの・・・という程度の意味。私としては仕方ないからそうするという意味で使っている。

頭を使うことが人間的であると考えられがちだけれども、頭を使う行為は便宜的な手段である。例えば、猫が狩りをするみたいに。そうする必要性が無い状況下では、そうする必要は無い。

これを常に生きている限りは、人間は頭を駆使しなければならないのだ、と考える場合、それは間違いだろうと思う。生涯学習とかをする必然性は無い。

そもそも競争原理が作られた構造であり、そこにおける競争は便宜的な手段である。今日において、競争しないことが勝利の秘訣だという企業がいる訳で。私たちに推奨されるのもオンリーワンであることである。要するに競争相手が少ない方が競争に勝つ秘訣だと禅問答のようなことを言われるわけである。

競争という手段が強いられているものである以上、そういう考えが出るのは当然だろう。

この仕方の無い世界で仕方無いから考えるというのが人間の実態だと思う。大衆的な宗教は主に仕方の無いことについて考えたく無い人を集客する。思考できることより安心できることが重要である。優先順位の話である。逆に、安心したいから思考するということもある。便宜的な手段である。仕方ないので考えるしかない。

普通の人は、あまり考えたくないと思っている。疲れるから。あるいは物事が複雑すぎて自分の愚かな脳みそではついていけないし、考えても無駄だと感じて、考えることを放棄する。考えるという手段はツールである。

思考は道具なので、思考自体が目的になってしまっている人は錯覚していると思う。活字中毒なので活字を読むみたいな話である。活字であれば何でも構わない。要は、自己報酬的行為になってしまうので、手段自体が目的になってしまうのだと思う。ただ、卵が先か鶏が先か、どうでも良いと言わないで順序を心得ておいた方が良いと私は思う。

話は少し変わるが、動物愛護の思想は、人間に対する思想と地続きである。人間も動物で、家畜みたいなものと想像されてしまうので、家畜や愛玩動物、野生の動物に対する権利の保障の考え方は、人材というものへの考え方に直結すると思う。そういう思想が日本では遅れているということは、つまりは人間(他人)に対する考え方もその程度なのかもしれない。

人間を等価に見るために必要なことは、その人の思考や知識が服のようなものに過ぎないのだ、と考えてみることではないだろうか。人間とは身体である。従来、人間は脳であると考えられてきたし、人間は思考や知識であると考えられてきたと思う。けれど、人間とはラディカルに言って身体そのものである。所謂、人格はその人の服のようなものである。要は外見であり、見た目である。見かけの延長のようなものである。

価値がある人間と言うのは、脳の値段みたいな話だろうと思う。お洒落でクールな外見には高値が付くだろう。見た目イケメンとか中身イケメンとかそういう話である。

まぁ、見た目は現実には割とキチンと評価されていると思うので、言語化する必要性は無いのかもしれないが。ただ劣った人物に対する尊重の意義を考える際には、人間は身体である、というふうに考えた方が適当だと思う。

使えない役立たずだから死ね、というのでは、人間を尊重することにならない。人間に値段を付けているから。それは人格や外見に対する値段である。その視点は酷く冷淡である。人間は所詮、肉の塊に過ぎないのだろう。したがって、利用価値があるかどうか・・・役に立つか立たないかという二元論。商品に値札を張る行為。それはヒューマニズムの対極だと思う。

利用価値が無ければ生きていてはいけないのか。