LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

コードギアス

ツッコミどころは多いけど、最終的には泣ける。最後のナナリーの嗚咽は良い演技だなーと。ほんと、ナナリーにとっては明日なんて・・・って感じだろう。R2は急ぎっぽくて、各個の心象をもっとよく描いて欲しかった。スザクがルルを討ったのはユーフェミアの復讐も入ってたんじゃないか、と思うし。

あと、世界の恨みを自分一人に集中させる、というが、そんなことが可能だったのか・・・とか。ブリタニアだけが戦火の火種なわけが無いんだしね。そう一々考えると、アニメは尺が短すぎて納得いかない部分が多くなる。あとC2の件も未解消な感じだし。

「ギアス」という能力だけで疑心暗鬼に陥り過ぎだったり、レジスタンスが確固とした目的意識に乏しい・・・という辺りも設定が足りないかなと思う。特にR2の終局でゼロが怪しいから・・という理由だけで、ぶっ潰すという程、ゼロとの関係って軽かったの・・・みたいな。

その辺を考えると一人奮起して頑張ってるのに報われないルルはホント可哀想だな・・・と。自分たちは駒扱いと言ったが兵隊なんて所詮駒だろうに何を言ってるんだこいつ等、と思う。

そういう中では皇族という理由から忠義で最後まで仕えたオレンジ君が一番マシに見えてしまう、という酷い有様・・・。その辺は雛見沢症候群にでもみんな掛かっているとしか思えないな・・。

主人公が服従のギアスという能力を持ちながらも一度しか有効で無く、虚弱という設定は良かったと思う。ギアスという能力が露見している以上、彼がのうのうと生きていること自体許されなかったんだろう、と思うとルルは可哀想だなーと思う。仮に世界の憎しみを集めなくても命を狙われるだけの能力だろうから。

ただ死んでいった人たちに報いるという意味での献身は胸を打つ。最後までシスコンだったが、ちょっと守備範囲が広がったり。けど、やはりC2がヒロインなら、もうちょっと確固としたシーンが欲しかった。まぁ、そういうルルの分かり難さも魅力なんだろうけど。

うん。そういう分かり難さがあるからこそ最終場面においてナナリーがルルに触れて記憶を読んで真意を察するシーンが映えるのかもしれない。あの能力があそこで発現する意味は分からないけど・・・(´・ω・`)

ルルに関しては実はかなり自己犠牲的(自分が損をする)な性格なんだよなーと思う。スザクは自己犠牲というよりは絶望してただけという感じ。ゼロレクイエムも言われたからやった仇討ついで、みたいな感じが・・・。とりあえず都合の良い行動の言い訳を探してるという感じが嫌われるんだろうなーと。ルルは自分の都合のために行動する人間なわけで真逆だし。最後のギアスも罪というよりスザクに生きる目的を与えるみたいに見ても良いし、スザクは自罰的なマゾな訳なので。

そう思うと、最後までルルの思惑通りという感じがする。目的の遂行「行動ー結果」をゲームだとするなら、その盤上の駒にはキチンと自分が入っていて「キングを動かす」ことを躊躇しない人物。寧ろ、キングから動くべきだとさえ思っている節がある。「俺たちは駒なんだよ」に対してルルは「俺も駒ですよ」と言ってるわけで、いや、駒じゃない人とか要らないからね?ってのが黒の騎士団なんじゃないかな・・・と。

ロロに命を救われてからは特にその傾向が強く「拾った命だから目的のために使う」という部分が強くなっていたように思える。だからこそ、ゼロ・レクイエムは自殺だったかな。

・・

現実の話をすると、死ぬことで価値が高まるというのは、あまり好きじゃない。「死んでからじゃ親孝行できないよ」みたいな。そもそも死ぬ前と死んだ後で、その人に対する価値観が変わってくるんだよなー、と。死んだ今だから言えるけどさ・・・みたいな。死ぬ前に親孝行したく無い人はそれはしたくない理由があるんだと思うんだよね。死んでから何か許した気になるというか。喉元過ぎればなんとやら。

それは結局、幻影に対する考えであって、当人に対するそれじゃないんだよなー、と思う。恋と同じで、特に会えないから現実との擦り合わせが行えず、認識は盲目的になる他は無い。

死者というのは偶像(アイドル)みたいなもので、期待値だけが制御を失って風の吹くままに吹き飛ばされて行くというか。原理的には片想いと同じだろう。上手くフィードバックされないとイメージが現実とかけ離れてしまう。

劇中でも「リフレイン」という薬物があったけれど、僕らの感情は擦り切れて飽和して割れそうになって耐え難くなる。それが片思いの成果なのか、欲求不満の慣れの果てなのかは分からないけれど、何かしら耐えきれなくなる事態があって、そうした時に発散できる何かが欲しくなる。

所謂、気晴らし、エクスタシー、強い刺激、感動、息抜き、等。まぁ、何に何が必要なのかは良く分からないんだけど。常に満ち足りなくて満ち足りたくて叫び出したくて堪らない、けど、出来ないみたいな。完全に満たされていたいけど、そんな状態はあり得ないみたいな。理解しているけど理解したくない。一つになりたいけれど、一つにはなれない。

結局、人間のそんな常に浮動している部分が物語には深刻に絡んでくる部分なんじゃないかなーと僕は思っていたりする。少なくとも僕は欲望にかなり踊らされている自覚があるし、何かを間違えてしまう時というのは、何かに耐えきれなくなった時であったりもするんだろうなと思う。

戦争なんかの相克で描きたいドラマというのは、結局のところ、もっと根源的で平凡な感覚だと思う。あまりに簡単で馬鹿馬鹿しい分かり易くて愚かな感情。本当に簡単な分かりきった要素に踊らされているんだと思う。

下世話な話だが「抜く」ことが僕らには不可欠で、例えば性的な意味でも、別には涙を流せばかなりのストレスの解消が見込めるとか、そういう感情的に、あるいは肉体的に「抜く」ことで日常に耐えるという部分はあるんだと思う。

但し、そこにのめり込んでいってしまうと、モノによっては常習的になり身を崩す。快楽に果てがあるとすれば、それは「イク」ことだろう。要するに転じて「逝く」ことでもある。「死ぬ」ことだ。生の感覚に乏しい人間は死の淵に追いやると、生を自覚するように、生と死とは欲求である。生という欲求と死という欲求だ。

快楽という生を貪ろうとする行為の果ては死であるという皮肉。過ぎる快楽は苦痛になるとか、苦痛は快楽になるとか、どこかのラインから、それは転じるらしい。まぁ、僕はその辺に詳しい訳では無いが。典型的な過剰性はサド・とマゾだろう。痛めつけ虐げて快楽を得るか、虐められ虐げられることに快楽を得るか。何れにせよ生を得ようとするがために死を招こうとする。

死にたいと望むとき、生きたいと思い。生きたいと望む時、死にたいと思うのは、実は矛盾している訳では無いように思える。C.Cの不老不死の話みたいに、永遠の生しかなければ、死にたいと思うのが生物なんじゃないだろうか。白から黒へのグラデーション。生と死はその両極にある。人間は生と死の間で揺れることに快感を覚える生き物だ。

その振り子の揺れが無ければ人生は、あまりにも退屈で無意味に感じられるのだろう。それは耐え難い苦痛である。水が循環するように、感情が揺れて上手く処理されていかなければ僕らは苦痛で歪んで行く。と、まぁ、そんな風に僕は考えてみるわけで。

もう少し卑近な話をすれば、僕は泣き喚くことがことの他好きである。別にところかまわず泣き喚くというプレイが好きな変態ではなく、部屋で一人映画何かを見た余波とかフラッシュバックにあってメソメソ泣いて嗚咽する。日常的にそういうことがあるというよりは、時折、偶然にそういう時があるというだけの話だが、僕は割とそういう時の肉体の感受の感覚を好ましく思っている。

強い感情と刺激が、横隔膜の、鼻の奥の抗いがたい反応が、僕に強く打ちつけてくるからだと思う。発達障害者には強く締め付けられることを好む人がいるというが、それは欲求関係の反応に支障があって、刺激自体が遠く不適切で、あるいは切り離されているからのように思える。だからこそ、締め付けられるような持続的でそれなりに訴えかけてくれる刺激を欲するのかもしれない。

その一つが僕にとって泣く行為だと言うだけの話だろう。渇欲の耐え難さに、巧い息継ぎの方法を学べないと、僕らはこの世界で上手く生きていけないのだと思う。僕は普通の人と異常な僕を分けて考えるが、普通の人でも多少なり同じことだとは思っている。