LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

隠しておく意味

裸体は恥ずべきものではないから隠さなくてもいい

と最もらしいことをいうのだけれど、じゃあ例えば性行為も排泄も隠すことじゃないよね?と。

これも最もらしいと思う。

だから公共の場で誰かが排泄行為を行いだしても問題無いだろう。

自慰行為も恥ずべきことじゃないから公共の場で誰かが自慰行為を始めたとしても問題無いだろう。

とか。僕は胃が痛くなりそうだけれど…。

じゃあ、

逆に考えるとして、裸になることが特別なのではなく服を着ることが特別なんじゃないだろうか。

服を着ることで僕らはプライベートと公との境界としているのではないだろうか、と。

ペルソナを付け替えるように。家ではラフな格好。外ではビシッとした格好とか。

外で服を着ていないということは外で化粧をしていない、ということと同じ意味を持つのではないか。

それは「他人のことなんて知ったことじゃないですよ」というアピールになり

=空気が読めない=恥ずかしいこととされるのでは。

外では遠慮し合うことを示し合わせて、害意の無さをアピールしなければ共存できないのでは?

外では服を着ることがTPOであって、それを分別のある証拠を見極める分水嶺にしてるんじゃないのかな。

勿論、その処世術が批判的な思考を阻害して守らなければならない正義を作り出し、悪い慣習を続けさせてしまう場合も多いのだろうけど。

「空気を読めること」を期待しているのだとすると、その過剰な押し付けや示し合わせは、

アニメ『ユリ熊嵐』で描いているような虐めの問題に絡んでくる。

「目立っちゃいけない」「埋もれていなければならない」という強迫観念の話に繋がるのだろう。

それを破ってしまった者は見せしめに処刑される。自業自得である、と。

これは二極のバランスの問題であって、常に揺り動かされるものだろうと推測する。

バランス感覚を持って中庸であろうと心掛ける必要のある問題だ、という話である。

現実には流動的で常に立ち位置を調整し続けなければいけない問題というのはあると思っている。

寒い部屋を暖房で温めても、暖房を止めて1時間も立てば部屋の温度は元に戻ってしまう。

食欲を満たして今日はもう食べられないと思っても、明日になれば空腹を覚え何か食べたいなと思ってしまう。

そういう変化を僕は少なくとも直ぐに忘れてしまいその時の感情だけだと思いがちだが、注意しなければいけないと思う。

1970年代は日本は荒れていて人が海外に行ってテロ行為をすることさえもあったという。1990年代はまだ携帯電話はそこまで普及していなかった。正社員がまだ多く非正規が問題視されてくる。2010年代になると携帯は時代遅れだと言われスマホを持ってるのが当然という風潮が煽られてくる。正社員は特別で非正規の方が多いくらい。日本人は自分たちが平和的だと主張しテロに屈しないと宣言する。

とりあえずダイナミックな現実はどこにも立ち止まっていないような気がする。時間は無慈悲にあるいは慈悲がある故なのか流れ続ける。永遠の変わらない日常なんてものはここには見出せない。それは僕らがなだらかな変化を変化と捉えられない性質であるせいだろう。

ゆっくり変化する絵のどこが変化したのか見極めるというクイズに答えることは困難である。クイズと言われなければ尚更だろう。波乗りするみたいに常にバランスを取り続けることが人生というものなのじゃないかと予想する。僕はあまり考えたくない人なのでそういうのは疲れるのだけれど。