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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

学校に行きたくないなら図書館?

某ツイートについて…まぁ、海辺のカフカみたいな話だが。

私は捻くれてるので、こう思うのかもしれないが…。

学校に行くのが死ぬほど辛いなら図書館に、という子はそもそも家にも居場所が無いんじゃないか…。

そういう子が学校をさぼって図書館に行く。すると学校から家に連絡が行く。

親は子供を問い詰める。甘えだの、学校に行けだの、当たり前のことだの、と詰め寄る。

場合によっては罰を与えられ、それを避けるために、学校をサボれなくなったりとか。

→逃げ場が無くなる。→追いつめられる。

親が子供をちゃんと助けてやれる家庭であれば図書館通いがSOSになりそうなものだが、

そういう知的能力のある親がいる家庭ばかりではないので、このツイートで救いになると思っている人が多いとしたら、

私はそれはどうなのかな、と思った。

例えば給食費不払いでいいや、とか思ってる親だったら、子供を助ける能力もなさそうである…。

まぁ、だから正直、私はツイートよりもこのツイートの意見が妙に無批判に肯定されて持ち上げられてるのが不快だ。

そういう人たちは『ヒミズ』でも読んでくるといい。

ツイート自体は何気ないものだとは思うのであるが、実体験があると何気ない言葉が心に刺さるのが問題だ…。

例えば、図書館が空いてる時間は良いが、それ以外は親の糾弾を恐れて野宿でもするのだろうか。

なら引きこもりと何が違うのか。親の了解があればツイートは必要ない訳だし。

学校をさぼって平日の昼間に図書館に行けば子供にとっては周囲のまなざしが痛いだろう。

気にしなくていいと周りに言われても、本人は罪悪感やら居心地の悪さを感じるだろう。

私のような発達障害者は検診で見逃されてしまえば、恐らく、それ以降、本人も気づかなければ、

親に理解されないことも多そうだ。親に理解されず、学校で理解されず、本人も原因が理解できない。

その場合、まぁ、十中八九自分が悪いと思い込むだろう。

改善できないのに無駄な努力を続けて自尊心を自分で痛めつけ続ける。

誰からも肯定されないのだから、今でも自分の存在が間違ってるのは間違いないと思う。

学校が死ぬほど嫌でいきたくない人間の中には、恐らく私のようなケースもある、という話。

そういう人間が結構、引きこもってのたれ死んでるんじゃないかなぁ…。

無理に学校へ行く必要は確かに無いし、少しは気が楽になる子もいるかもしれないけど、

(私みたいな場合)それで何かの解決になるわけでもない。場所を変えてもうまくいかない人だっている。

私の頭ではとりあえず解決法が浮かばない。

そういう袋小路に運が悪く自分のせいでもないのに生まれながらに叩き落とされてる人もいる。

レールから外れずに生きていけば、と思っていても、レールの先が断絶した崖になってる人もいる訳で。

「どこかで誰かが」というのが残酷な言葉かもしれない可能性も考えて欲しい。別の言葉が私に言えるわけでもないのだが。

とりあえず、鬱病の人に頑張れというようなものである、と解して欲しい。

彼氏いない歴=年齢の40越えの喪女に「いつか良い人見つかるよ」

と美人アナウンサーみたいなリア充フェラーリに乗った実業家を隣に侍らせながら、肩を叩いてきて言う感じ、というか。

非常にイラッとする。

宙に浮いた実現可能性の分からない救いの言葉を無責任に放り込むのは残酷なことだ。

あんたには無理、と言われた方が私としては納得できる。どうしようもなく理不尽でも。

学校をサボって図書館に行く、という行動の結果が、

不良行為として家族に難詰される原因にもなり得る可能性は考えられた方が良い。

それがまた辛くて学校に行かざるを得ない…などということもあり得るんじゃないか。

全ての子に優しいお父さんお母さんがいるわけじゃない。学校に行かないで虐待される可能性もある。

言葉や物理的な暴力で。そういう親がいないとなぜ思うのか……。

育児放棄のニュースくらい誰しも見たことがある気がする。

私は家族から理解されなかった口だから、学校にも家庭にも味方なんていない、という状況は実際にあったことだ。

まぁ、実際に居なかったかどうか、というより、私の主観としてはそうだった、という話になるが…。

発達障害なんてのは遺伝もするから家族自体にも問題があるケースも多いと思う。

例えばADHDの親がまともに対応できるか、というと無理なんじゃないか、という気もする。

そういうのは善悪の問題じゃないのである。例えば、子供の力になりたいと思っている親でも能力が無いことはあり得る。

親や学校が単純に「悪」なら場所を変えれば良いんだろうけど。

世はすべてことも無し。まぁ、だから発達障害の場合は恨むべき誰かもいない。

思春期の頃というのは、まだ恨めると思っていた頃なんですが。

とりあえず、図書館に行く前に、身近に相談できる相手がその子にいないのか…それが問題である。

それとも図書館で親身に相談に乗ってくれるのだろうか(´・ω・`)

来て暇つぶしてて良いよ、だけではそのうち心許なくて心が折れそうというか。先が見えないから…。

私は不登校発達障害に起因する場合、としか書けないですけど、その観点から、もう一つ書いておきたいと思う。

現状、いじめが問題になっていて、いじめさえ無ければ学校へ通えると思いがちだが、

発達障害の場合、多分いじめが無くても集団生活に支障が出るだろう。

例を挙げると認知症の人が対人関係に自信が持てなくなり、関係を持つことを恐れたり自分に自信が無くなったりする、ということがあるらしいのだが、大体そんな感じである。勝手に関係に耐え切れなくなり、勝手に鬱病になって塞ぎ込むこともあるんじゃないかと思う。馬鹿みたいだと思うかもしれないが…。

現状は「いじめさえ無くなればオールオッケーだろ」みたいな世論だが、少なくとも発達障害の場合は、恐らくいじめだけを何とかすれば良いという問題ではないような気がする。まぁ、また甘えだのと言われるのは目に見えているのだが…。実際、私も思うが、きっと違う。考えて甘えとか努力が足りないとか、そういうことじゃないんだろう、と結論付けているだけだ。

まぁ、そういう生きるのに何か向いてなさそうな障害なんて他にも色々あるだろう。そういう人たちはだいたいは頑張って生きてるかもしれないが、別に頑張っても障害が克服できるもんでもない。克服とかいう言葉自体が的外れなのに発達障害者に向けて言われることが既にそこからして障害がある。

まぁ、そういう理不尽にあってる連中は仕方ないので頑張って生きてるだけで。頑張っても頑張らなくても結果的にどうにもならない運命で。基本的にそういう外見上分からないことも含めて酷い欠陥であるんじゃないかと思う。耐震強度が足りない住宅みたいなもので表面的には分からない。

逆説的に言うと、引きこもりの原因が明確にいじめのせいじゃない人は恐らくいるだろう。別に調べてはいないが。そういうのは、こういう内在的な原因による適応障害なのかもしれない。その場合、いじめがどうこうというより場所自体に適応できない。本人はいじめられなければ、と思っているかもしれないが。別にいじめられなくても脱落する。健常者なら、とか、まともなら、という前提が学校やら社会にはあるのだが、そんなものは暗黙の了解みたいになってる節がある。

寧ろ、私は異物であり、異物を排除しようとするのは当然かもしれない。ましてや子供たちにとっては。だから、責められるべきは迷い込んだ私である。少なくとも周囲が私を排除しようとするだろうと私は納得できる。人間の尊厳がどうのと言って建前上は自分は悪くないと主張するのが正しくても。

そんなのは当たり前で、条件を満たしてない方がどうかしているのであって、配慮する必要もなく、排除されるままに任せれば良い、というのが、まぁ言わないが他人は思ってるんじゃないかなーと思う。素直なことだが、排除される側はたまったものではない。

まぁ、だから仕方ないかな、とも思うので、誰を恨むわけにもいかない。とりあえず、理解も仕組みも足りないから、その結果が必然的な気がする。要は周りの恣意によって、自分が虐められたとは考え難い。周りができるのは「いじめて排除する」という行動を自制するとか、そういうことなんじゃないか、と。攻撃が悪ければ無視して居心地を悪くさせるだけである。私は障害の関係上人間関係なんて何れかで、後は他人の同情と気遣いに甘えるしかない。

足の壊死した男性が電車に乗ってくるのがキツイみたいな話題を結構ネットで見ることがあるが、周囲の人は彼を何らかの形で排除したいだろう。でも出来ない。何とか穏当に対処してみようという人は中々得難いものだ。私に対する周囲というのも自制している状態だと思う。

それが例えば1年間閉鎖されたクラスで続くとしたら耐え難く攻撃して排除しようとするかもしれない。そうしたいじめを私は正直周りが悪いと糾弾することが出来ない。私が私の障害について認知してなかった昔はそう思ったか定かではないが。

結局、締め切った部屋に有象無象を放り込んで紐で雁字搦めにするから無理が出るんであって、そういうイジメはシステム上避けられなかった問題だと思う。まぁ、だからって「よしならば虐めよ!甘んじて受けよう!」とは思わないが。

そう考えると引きこもるのは至極穏当で妥当な決断だし、ベストを尽くした結果だと言っても良いが、問題行動とされ、無理矢理学校へキャッチアンドリリースされたりする。そういう状況では自殺や他殺なり自暴自棄に爆発しても仕方ないと思うのである。思うに犬を虐めたら噛まれるくらいには論理的必然性がある。周囲が焚き付けてる訳だから私がいじめられるのを当然と思うようにいじめられてキレるのもまた必然である。

社会的に残業が当然とされていても肉体的に無理なので過労死するような感じといえば良いだろうか。今はブラックだと叩かれる風潮だが、少し前はどうもそんなの当たり前だったわけで。

要は今でも「不登校は問題行動、お前が悪い」そんなの当たり前とみんなが足並み揃えて言ってるわけである。私からすると学校とか生理的に無理なので自殺か他殺か精神病を発症するかそんな感じである。

そういう選択肢しか許されない社会に、逃れられる可能性が殆ど無いというのが、根本的な問題で、特定の誰が悪いとも言い難い。責任の行方が不確かなだけで誰かしら悪いのは確かだが(苦笑)だから、同時にその立場に追い込まれている運が悪い人にどうすればいいとも言えないのである。その状況では詰んでるので。何とかするには今無い選択肢を社会に作ってかなきゃいけないということになるわけで。

それは個人が足掻いて直ぐにどうこうできるもんでもなく。

追記:

義務教育に関して言えば、みんなが能力的に平等なスタートラインに立っているという前提がそもそも間違っている。社交性が無い・学習能力が無い・知的能力が無い・性格に難がある・性的に難がある・認知に難がある・身体に難がある・人種に難がある…etc。

そういう難儀さが自分の中にあって、社会的に適応できない。それはいじめがいじめられる側に原因があるという論だが。それは本人が悪いわけではない。生まれの運が悪いのである。容易に解決できる問題を抱えた子もいるが容易には解決できない問題を抱えている子もいる。発達障害は後者で、学校という場さえ乗り切ればどうにかなる訳ではない。別の人間関係の中でも上手くやっていくことはできない。社会に何とか出ていても精神的疲労感を背負わされながら生きていく人が多いように見える。

老人は体力的に生きることに疲れた、と言って死ぬ者がいるが、発達障害者は若くして既に精神的疲労に圧し潰されてそう思うに至る。この精神的疲労感というものに対する問題意識が足りていないのではないか、と思う。危機感と言っても良い。社会に出られているのだから良いではないか、と言う者がいる。まったく良く無い。それで障害者への支援が済んだつもりになられるのでは。ブラック企業でも仕事があればいいじゃないか、というのと同じだ。無理をしているので、そこに居られない人、居られなくなる人は当然出てくる。そういう人はずっと引きこもらざるを得ず、世論に攻撃され続けるだろう。

面倒なことに弱者というのは皆が同情を誘うよう可哀想に見えるように振る舞ってくれるわけじゃない。貧困が暴力の温床であるというように、だいたい、関わり難く、面倒な人物になってるから、社会で適応している人にとっては、積極的に避けたいような人たちなんじゃないか、と思う。

克服なんていう言葉は責任転嫁である。イルカに陸上で生活していればそのうちできるようになる、と言うようなものであり、イルカになぜ歩けないのかと言うようなものである。そんな質問はナンセンスだ。

電話相談を勧める人がいたが、注意するべきこともある。窓口に出る人に知識が無い場合がある。マニュアルがあれば良いほうで、ボランティアでやっているようなところは自分勝手な忠告をしてくるだろう。考えられるのは、役所仕事的なたらい回し。表面的に理解して同情しているような言葉を投げられるが何の解決にもならない場合とか。そもそも電話が混んでて繋がらないとか。

まぁ、色々掛けて見ても良いが、余裕がある時が良いと思う。一件目の応対が酷くてもう十分絶望できることもあるだろう。10件くらい掛けたら電話は諦めた方が良いかもしれない。なら、次は精神科巡りとかかな…。精神疾患がある人だけが行くわけではないので、行ってみるとアドバイスが貰えるだろう。ただ精神科医は普通の医者より良く選ばなければならない。アクが強そうな人が多い、というか…。

とりあえず私はHPがあるなら読んでみたり、医者の名前を検索して悪い噂があればやめとく。精神疾患の患者が好き放題書いているケースもあるんだろうが…。自分に問題があったから心理士になったという人の中には現在進行形で問題がある人もいるので、そういう人は避けた方が良い。言い訳が思いつかないなら、気分が落ち込んで鬱病かもしれないから…とか言えば良いのだろうか。鬱病が気持ちの問題だと言って医者にかかるようなものではないと言う人もいるので、通るか分からないが。

相談相手は誰でも良いという人がいるが、誰でも良くはない。一緒に問題解決を考えてくれる人でなければならない。社会的不適応の場合、愚痴を聞いてもらってすっきり明日から頑張れる、という訳にはいかないのであろうから。親や教員が相談相手として不適切なことは多いのだと思う。碌な知識を持っていないからである。前にも教員が力不足、親は相談されず、生徒が自殺した事件などがあったが。

身近な人間が対応の仕方を知らない、という状況が今の時代には多そうなので、学内のカウンセラーや学外の精神科など、問題解決を手伝ってくれる相談場所を探すというのが重要だろう。恐らく、親や先生はだいたい当てにならない。知識が無いから。