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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

アウトサイダー

コリン・ウィルソンという人の書だが、このアウトサイダーというのは発達障害者だと思う。

私があれこれ拙文を書くより適当な表現をしている。ドストエフスキーやキュルケゴールなんかもアウトサイダーに入れている。

著者は神経症という言葉を使うが、それらは二次障害的なものだったのかもしれない。

死後の生を生きているようだ、という文章があるが、社会に居場所が無いならそう思うだろう。障害的に私たちは孤立させられているのだから。誰とも通じ合わないからこそ客観的に他人を観察し判断せざるを得ない。ドストエフスキーの他人への鋭い洞察力はそういう立ち位置に居ざるを得なかったために培われたものかもしれない。

発達障害者は友人も結婚相手もできない。親も避けて一人で孤立する場合がある。カサンドラ症候群の治療法は原因となる発達障害者から逃げることだが、発達障害者自身がそれをやると全ての人間から逃げなければならない。それは最も対処しやすい方法だが、現実に行うには最も難しく最も孤独である。

発達障害者はある意味では健常者より優れているが、生きることにかなり向いていない。生きることに向いていないと言って安楽死を選択した若い女性がいたそうだが、私は適応障害を疑う。概ね孤独にならざるを得ない脳の認知の問題と能力的に人より明らかに劣ることが多いからだろう。そうした障害が生きることに向いていないという適切な評価を自己に下し生き地獄か死かの選択を迫る。四肢が無ければ、耳が聞こえなければ、目が見えなければ、生きるのに向いていない、という表現より物理的な障害があると困難さを表明できるが、脳自体の見えない問題は人格自体・私自身の問題として認識される。だから障害という何かのせいではなく「私は生きるのに向いていない」という自分のせいという言葉が出るのだと思われる。でも身体障害も精神障害も本質は同じ欠損である。

私は発達障害自閉症知的障害を直線的に見ている。知的障害者は自らの意思や感情を表明するのが下手だ。そして、発達障害者も言葉は使ってもやはり意思や感情を表明するのが下手である。それは自分自身に対しても同じだ。感情を感知できるかどうかという問題はその人の知的レベルと相関関係があるはずだ。『選択の科学』でそう指摘されていた。だから、表現できなくても自分ではわかっているはずだ、ということではない。自分でも分からないことに困難があるのである。多分、知的障害者は疲労とストレスが多くても気づいて貰えることが少ないと思われる。自分自身気づかない可能性がある。けれど、疲れやすい。

単純作業を黙々と熟すことに一般人より能力が高いというのは「不満を言わないから強制労働させやすい」ということである。そういうことが専門書に発達障害者向きの仕事として書かれている。実際は健常者と比べてしまうと向いていることなど無いだろう。向いていると言ってしまうのは私からすると投げやりで無責任な言葉に感じる。ただ発達障害者は知的障害者より精神的に疲弊が分かることが多く不満を表現するので、知的障害者の方が使えることになる。知的障害者の疲弊は無視されている気がする。知的障害者発達障害者は同列である。彼らのストレスには外部の人間が気づくしかない。本人は多分気づけない。

知的障害者は多分、孤独である。恐らく発達障害者と同類の人間関係の致命的な欠陥があるだろう。友人もできず、結婚もできない。助けも求められないかもしれない。ただ、それが分かるだけの知能がどれだけの知的障害者にあるのかは疑問だ。分からずとも、孤立や孤独は招かれるので結果が変わるわけでもないのだが。

そういう人たちと自分は本質的な障害は同じだと思う。だから、他人から普通扱いされることには反感を感じる。知的障害と同じように考えてくれて構わない。そうして無理解で攻撃されるならそうした差別を知的障害者と含めて無くした方が良い。

まぁ、だから基本的に健常者から何かが欠損した結果が発達障害者だろう。欠損した結果、得るものもあり、それが一部の天才とかの能力なのだろうが、それは基本的に目の見えない人が鼻や耳で補ってるようなものだ、と考えた方が良いと思う。そのレベルで普通の人より優れているのであって、基本的に、普通の人がそうなりたいと羨むようなものではない。

発達障害者の能力が云々という話はあくまで、そのように考えた方が良い。パラリンピックみたいなもんである。パラリンピックでオリンピック級の活躍をしようとはなかなか思わないだろう。健常者は自分と同列に扱ってはいけない。自分と知的障害者を比べて同列に語ろうとはしないように。自分と違う。可哀想。と知的障害と同列と思ってくれた方が私たちが求める合理的配慮には近づくだろう。そして知的障害者発達障害者の症状が重いバージョンだと思われれば少しは知的障害者も人間的に扱われるんじゃないだろうか。

社会的障壁が無くなった場合、二次障害や自殺念慮くらいは無くなってくれるもんだと思う。まぁ、今の時代の発達障害者は未来には戦争が無くなったらいいなというくらいのレベルで期待するわけだが。今生は諦めて来世に期待する無常観である。

それらの症状が薬を用いずにでないようになって、二次障害が珍しいくらいになって、ようやく合理的配慮やバリアフリーの実践ができ発達障害者にとって社会が開かれてきたのだと思った方が良い。

この本でも言われているようにブルジョアは無視できるので、まさか現代社会がそんな世界だとは気づかないでいられる。けど発達障害者はこの社会のマジョリティの欺瞞と残酷さを知っている。化けの皮を剥いだら、と思っていたのだが、まぁ、裏表というより光の反射で見える側面が違う、みたいな感じだろう。

健常者でも結局のところ人間という種のヒト科に属する動物に過ぎないのだ。他の生物と比べ特異な能力はあるが、だからと言って、猿からいきなり神にクラスチェンジしたと期待しない方が良い。そんなに高いハードルは越えていないと思う。オマキザルという人間の介護ができる猿がいるが、人間はオマキザルlv10くらいで進化できそうである。たかが猿でも教育によって優秀な働きをするようになる。

まぁ、だからこそ、この世の中に理想を放り投げることもできる。既に満足しているマジョリティは社会を良くしようとか何が良く無いのかも実感が沸かないと思うから。そういう意味では我々の存在はこの社会に必要だろう。真実を告発せざるを得ないのだ、と書いてあるが、まぁ、そういう感じの人なんだと思う。

ただ二次障害で歪んだり、発達障害で歪んだ認知があったりするだろうから、パラノイアみたいなことにもなっていて、その人の語る真実が論理的でも前提がおかしくて破綻しているなんてことはありがちだろうと思う。いや、他人ごとでは無いのだが。

ちなみに発達障害者の親は自分の運命を呪ったりするわけだが、それは発達障害者自身がそうである。けれど、実際、健常者社会が発達障害者にどれだけ開かれてないのかを当の健常者が目の当たりにせざるを得ない状況というのが無いと、気づいて貰えないし問題にもされないと思うのである。確かに発達障害者自身は自分の存在が親が自分の人生を呪うくらいのものだとつき付けられて大分傷つけられる訳だが(´・ω・`)まぁそういう発達障害者自身の絶望を少し分けて貰って、この社会が健常者のための社会すぎることに気づいて欲しいと思う。

障害児を絞め殺したり気づける人ばかりでは無いけど。