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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

生涯努力せねば…

雑感

という人が私は苦手である。

そうせねば生きていてはいけない、みたいな風潮が。

資本主義的な能力が評価されるという社会は、富を再分配せず搾取する言い訳として、

能力が無い、ということを盾にするわけだが。

理想として共産主義的な富の再分配生存権の保障、がされるべきで、

能力の無さは、その時、権利を与えないことの盾にするべきではない。

したがって「頑張らなくてもいい」ということは保障されるべきである。

問題はブラック企業によくある話だが「(頑張らなければ)どうなるか分かってるよね?」と脅すことだろう。

その視点を私たち(思い込みやすい人)は内面化していることがある。

そうすると、頑張らないから自分はいけないんだ、とか、頑張らないと死んでしまうんだ、とか思うわけである。

そうした自己存在を賭けたような努力を一生し続けないといけないんだ、

みたいに思ってしまう人が発達障害にはありがちであり、私からすると余裕が無く、痛々しく見える。

関わってると分かるが、本当に社会で机を並べて同じように振舞うことを求められたら、無理であり、

その人を歪めてしまう、というレベルの人がいて、そういう人にマジョリティの世界で働け、

とか、要するに皆と同様の義務教育を受けろ、というのは生存権や人道を考えた時、暴力的で無理強いだと感じる。

それが通ってしまうのはある意味、無理を押し通している人間が悪いのである。

自分もやってるのだから、お前もやれという理屈になるわけなので。まぁ、サービス残業の横行と同じ話だろう。

発達障害者は理屈っぽく法律を盾にすることが多いが、

サービス残業を仕方ないと受け入れろ、と言われることがあるようだ。

けれど、それは障害に付け込んでいると思うわけである。

本来、不法なことをそこではそうなっているのだから、などと教えないで欲しいと思う。

不法なことをしている方がおかしいのであるから、そちらを是正させるべきだ、という時まで、

泣き寝入りしろという指導はやめた方が良いと思う。

将来を考えた時、サービス残業が違法だと周知された社会で上司になった発達障害者が違法でも仕方ないだろう、

と言って強要したらどうするのだろう…。

目の前の現実に現実だからと押し込めば良いというのを良しとする価値観はやめて欲しいと思う。

少なくとも、良し、などと思ってはいけない。

小学校で教えるような建前を発達障害者に教え込んだ結果、彼らが建前を振って、人間はかく生きるべし、

などと軒昂に語ってるのを見ると、可哀そうに思える。そうした生き方をプライベートにまで持ち込むのだろうか…

休めないだろう。

そういう「頑張らなければいけないイデオロギー」が日本人の幸福度を下げている要因だと思う。

気が抜けないし、疲れるわけである。家でまで会社のことを考えているような人間が多いというが、

そうしないといけないような同調圧力に晒されているように思える。同調圧力というか周囲の暗黙の了解など、

そうした期待は内面化されることがしばしばあり、そこからプライベートでも抜けられないということが起こるわけで。

そうするとプライベートの生活が充実しないので、年齢を経るにつれ生きる楽しみが減ってくのだろう。

仕事と自分自身をもう少し切り離せた方が良いと感じる。仕事と名前とがセットになって社会に帰属していないとおかしいという意識が強すぎるのである。だから労働年齢における無職というカテゴリに随分差別意識を持つ。その意識が無職の若者にも内面化され自己否定させたりして追い詰める。責任感というが実際には責められたく無いだけでは無いだろうか。

責められたくないという責任逃れのための法順守の精神ばかり強く、本来の責任感がある人間がどれだけいるのか疑問である。同調圧力の結果の責任感など上辺の真面目さを形成するものでしかない。だから、見えない場所において、その上辺が剥がされ抑圧の結果もあいまって奔放に振舞おうとするものと思う。勤勉な受験生の大学デビューの結果、というか…。

抑圧の結果の真面目さや責任感なんてものを褒め称えたところで、碌なことにならないと思えるのだが…。そういう人には、もう少し肩の力を抜くように勧めた方が良い。

継続可能でない努力を要求されるような仕事なら、その人にとってそれは無理なのである。努力できるエネルギーは有限で一日に使える程度は限定されている。その個々人の程度に合わせて働けるべきであり、これは画一的に決められるものではない。

社会システムと生身の個人は一致しないのだ、ということを自分が弁える必要がある。日本人は社会システムという枠に自分の身体を無理にでも押し込めようとする風潮があるが、無理に押し込まなきゃいけないシステムならそれは自分には合わないのだと諦めた方が良いのである。

「シンデレラ」のグリム童話版ではシンデレラの姉やらが合わないガラスの靴に足を切断することで嵌めていたが、そんな行為は愚かである。そういうことは比喩ではなく実際に自分の精神を痛めつけることになる。自分にあった服や靴を用意するべきだ。大抵の人は実際にそうしている。障害者というマイノリティはオーダーメイドが必要になるのかもしれない。一定数いれば、左利き用の道具、のように売って貰えたりするだろうがまだ普及していない。合わせられないのがオカシイのではなく合う服が少ないのだ、ということを考えた方が良い。

それが他の人の働き方の多様性を認めていくことにも繋がるだろう。