LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

オルフェンズ 2話の感想

子供に罪は無い!

ってのがテンプレ過ぎて嫌いですね。私たちは卵が先か鶏が先かという存在なので。

子供に罪は無い、罪があるのは大人たちなのだ!と暗に言っている気がしてしまう。

子供は守られるべき弱者だ、というとき、じゃあ大人は守られなくて良いの?と思う。

大人は大人で救われないまま子供から大人になりそのまま…っていう悲劇的な存在でしょ。

救われない大人より救われない子供の方が未来/可能性がある分マシかもしれない。

例えば、女性差別の影として男性差別が軽視されてきたように。

どうしても感情的に、子供の権利を叫ぶとき、私たち大人からすると自分が疎外されてるような反発を覚える。

その反感が主張とは裏腹に子供の首を絞めてるんじゃ無いかと思ったりするわけである。

優遇はその善悪に関わらず他の救われない人間からの羨みを買い妬みを買う。ルサンチマンになるわけですね。

片や守られなければならない子供。片や守られる子供。なぜ私は守られないのか。

子供には未来がありより良い教育がある(かもしれない)。私にはもうそうした選択肢は無い。

なぜ彼に許されて私には許されないのだ。そんなことは許せない。

そういう構図は実に多いですけどね。子供/大人の対立でのみ起こっているわけではない。

発達障害の私も今ならどこか別の場所なら療育が受けられたかもしれないという想像から、恵まれているだろう不特定の子供の発達障害者に「お前は私とは違うじゃないか」という攻撃的な感想を抱くわけである。ちなみにそうした感想を抱くのは人間として当たり前である。ルサンチマンというのは当たり前である。

よくあるのは、ルサンチマンを感じる私は悪い人間だ。そんなことを感じる私はいけない人間なのだ。という自己否定だが、自分の感じ方を変えることはできない。じゃあ、感情にしたがってアイツは悪い人間だ。私の感じ方が正しいのだ。というのは逆の自己肯定だが、その全肯定は他の意見・価値観と衝突し摩擦を起こすだろう。

例えば集団か個人かというような考え。その何れを取るべきかと考えがちだが、そういう問題では無い。それ自体は寧ろ自己肯定か自己否定かという問題でさえ無い。感覚・感情に率直に従わないこともまた意識的選択であり自己否定ということではない。寧ろ感覚や感情に従わないことを「偽り、過ち、嘘、悪」だとか考えることで自己否定しているのである。

自分の感情に反しても集団に合わせる、という行為は自分に対する裏切りではなく、強いられていても強いられてなくても、自分の判断の結果である(別に自己責任論とかではない)。例えば、戦場で逃亡は銃殺刑だと言われれば事実上逃げられなくなるだろうが、感情に逆らうことは自分への裏切りではなく、状況に対する結果を想定した如何にするべきかという判断である。逃げたい→逃げれば死ぬ→死にたくない→逃げられない、という判断の結果である。それが自己否定だろうか?

自分が受ける感情と物事の論理とは必ずしも合致しない、ということを肝に銘じるべきだ。健常者がどうかは分からないが、発達障害者はしばしば、自分の感情と行為と結果が必ず結びついていなければいけないと思うことがある。

例えば、ネット上の記事で津波を予見した少女の話が出ていた。彼女は浜から波が引いて遠くに白い泡が見えたことから学校で習った津波の前兆だと考え、親に訴えたそうだ。コメントには「自分なら少女の話を信じないだろう」というものが多かった。人間の認知は直感的に客観的な真実を映してくれる鏡では無いということである。けれど、何かにつけ、そう思い込みがちである、というところまでが肝心な銘記するべき部分だと思う。

脱線したけれども…。

親と子の立場と心情の違いのように、子供と大人も違う立場に立っていると想像するべきだろう。被介護者と介護者の関係のように、あるいは犯罪者と被害者の関係のように両者の視点から描かれなければ一方的な見方しかできない。特に悪役を描く場合、悪役の側からみた正当性、あるいはなぜ彼がそのようになったのか、を描いて欲しい。『オーバーロード』ではゴミのように殺す人間の描写をしないで欲しいという感想をいう人もいたが、私はそれを描いたから評価された作品だと思っている。

いつだって分かり易い悪は居らず誰でも何かに強いられて過程の中で流されてそのようになってしまうものである。まぁ、悪魔が囁いたとかであるにしても(苦笑)統合失調症では時に悪魔的な人間になったりするようだが、それもまた彼が元から悪だったわけではない。人の味を覚えた熊のようなもので共存できないにしても家畜と同様、生命に対する尊厳の念は誰にでも必要である。悪人に関してはどこで歯車が狂ったのかを私は知りたいし描いて欲しい。あらゆる動物は…虫けらでさえ人間的な価値観からいえば凌辱(苦しめられ)されて死ぬべきではない。

確かに「ざまあみろ」と言って溜飲を下げたい人間にとって、相手の同情の余地が描かれると微妙な心情になるだろう。けれど、それはリアルでは無い。誰しも環境に流され歪められて生きているのだから、その辺りを描かないと人間の本質には迫れないだろう。そして私にとってあまりに現実味の無い話は詰まらないものである。水が低温で凍るとか、火で紙が燃えるとか、悪人の背景を描くというのはそういうリアリティの話である。逆にそれを描かないのは、空中にいきなり人間が現れる、という感じで唐突である。

どうしてそうなったのかな?という疑問が解消されず気持ち悪い。

犯罪被害者が復讐法を推す心情は分かるが、結局、それは凶暴な鮫に襲われるのと同じである。自分が文明的な人間であると思うなら対等にやり合うべきじゃないのである。同じ人間ではないのだから。同じ人間だと思うのは愚かである。けれど、同じ人間じゃない=見下してもどう扱っても良い劣等な存在だ、となぜ思うのか…。

上下を作るために言っているのではない。猫と犬のように、親と子のように、子供と老人のように、男と女のように、私とあなたのように異なるのだとなぜその程度のことすら自明ですらないのか…。本来自明であるべきことが自明では無いということが多く、人間の基本的性質ですらある。社会の在り方によってそうなるのか、生まれながらの体験世界によってそうなるのかわからないが。

同じ人間という言葉を撤回し、最早、あらゆる人間が異なっているのだ、という前提で教育した方が誤解が無いのでは無いだろうか…。同一性の集団はあくまでも同じような(それでいて異なる)人間である。